スポーツとトランスジェンダー スポーツ医科学、倫理・インテグリティの視点から
貞升 彩
2024年パリ・オリンピックでの女子ボクシング競技における性別問題や、今年初めのアメリカ大統領による「性別は男性と女性の2つのみ」宣言など、近年はトランスジェンダーに関する議論が活発化し、この問題がスポーツの枠を超え、社会全体の公平性、包摂性(性自認や性的指向に関わらず、誰もが尊重され、差別されることなく社会に参加できること)、そして多様性に関する問いを投げかけていることを示している。
本書『スポーツとトランスジェンダー ──スポーツ医科学、倫理・インテグリティの視点から』ではこのような現代のスポーツ界が直面する複雑な問題に対し、スポーツ医科学、倫理、そしてインテグリティ(公平性・公正性)という視点から深く掘り下げている。
本書の構成は、著者がトランスジェンダー研究を始めたきっかけから始まり、世界と日本におけるトランスジェンダーアスリートの現状と課題、国際オリンピック委員会(IOC)のポリシーの変遷、性別適合治療がフィジカルパフォーマンスに与える影響、陸上競技におけるドーピングや「性」に関する不正の歴史、英国の状況との比較、そしてスポーツにおけるピンクウォッシングや二極化する世界といった幅広いテーマが章立てで扱われており、これら著者の豊富な経験と、様々な専門分野にわたる詳細な情報収集に基づいた内容は、この複雑な問題を多面的に捉えることを可能にしている。
本書が取り上げる重要なトピックの一つは、「男性と女性のフィジカルパフォーマンスの差、性別適合治療の影響」(第5章)だ。議論において重要となる内容なので紹介したい。
この章では、思春期におけるテストステロンの影響が、男女間のフィジカルパフォーマンスに決定的な差をもたらすことを科学的に提示している。思春期前の男女のフィジカルパフォーマンスの差は小さいが、男性は思春期にテストステロンの影響で筋力、持久力、有酸素運動能力が飛躍的に向上し、これが成人後の大きなパフォーマンス差となる。
注目すべきは、トランスジェンダー女性(MTF:男性から女性へ移行したアスリート)が女性カテゴリーで競技に参加する際の、性別適合治療(ホルモン療法)がパフォーマンスに与える影響だ。国際的なスポーツ団体、例えば国際オリンピック委員会(IOC)は2015年に、MTFアスリートが女性カテゴリーで競技するための条件として、血中テストステロン値10nmol/L以下を12ヶ月間維持することを定めた。また、ワールドアスレティックスは2022年に、血中テストステロン値2.5nmol/L以下を維持することをポリシーとしている。
しかし、ホルモン療法によってテストステロンが抑制されても、男性として思春期を経験したことによる身体的な優位性が完全に失われるわけではない。例えば、筋力や有酸素運動能力は減少するものの、テストステロン抑制から12ヶ月後でもMTFアスリートは筋力が10%多く、パフォーマンスがなんと50%向上したというレビュー結果も示されている。これは、女性スポーツの公平性と包摂性の間のバランスをどのように取るべきかという、倫理的・科学的な課題の難しさを示している。
結論として、本書はトランスジェンダーアスリートが直面する課題を、医学的知見、倫理的考察、そして包摂性の観点から包括的に分析している。特に、科学的根拠に基づいた男女のフィジカルパフォーマンスの議論は、感情的になりがちなこの問題を客観的に理解するための重要な指針となるだろう。
(川浪 洋平)
出版元:ブックハウス・エイチディ
(掲載日:2025-06-24)
タグ:トランスジェンダー
カテゴリ スポーツ医学
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