自殺の思想史 抗って生きるために
ジェニファー・マイケル・ヘクト 月沢 李歌子
小林秀雄は「Xへの手紙」の中でこう書いていた。
「言うまでもなく俺は自殺のまわりをうろついていた。このような世紀に生れ、夢見る事の速かな若年期に、一っぺんも自殺をはかった事のないような人は、よほど幸福な月日の下に生れた人じゃないかと俺は思う。俺は今までに自殺をはかった経験が二度ある、一度は退屈のために、一度は女のために。」
「人は女のためにも金銭のためにも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛のために自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名付けようもない無意味な努力の累積から来る単調に堪えられないで死ぬのだ。死はいつも向こうから歩いてくる。俺たちは彼に会いに出掛けるかも知れないが、邂逅の場所は断じて明かされてはいないのだ。」
(『小林秀雄初期文芸論集』「Xへの手紙」岩波文庫)
この論稿は1932年『中央公論』の9月号に掲載された。今から92年前、小林秀雄が30歳の年である。
なぜこの文章を紹介したのかというと、私の騒がしい心を静めてくれたからだ。
カツカツの生活費、路頭に迷っているかのように先行きが見えぬ将来、数多の理由で私は生きている心地がしていなかった。常に私は見えない何かに追われていた。その先が崖であるというのにもかかわらず。
そんなときこの文章に出会った。
肯定された気がした。騒がしい私を。
自分が憧れを抱く対象の一語一句が髄にまで響く感覚を知っている人は多いかもしれない。
私にとってこの文章はそれだった。
「自殺」という文字の羅列を見てあなたはどのようなイメージを抱くだろうか。そこにあなたが自分自身をどう捉えているのかを紐解くためのほつれた糸があると私は思う。
古今東西問わず、我々は「生と死」について考えてきた。そして愚かな者はその答えを求め続けている。答えなど決まっているではないか。生きとし生けるものはいずれ死ぬのだ。
ただ「生と死」についての問題はこんな単調な事実を通り越して大きく絡まってきた。その絡まりを思想史として紐解こうと奮起しているのが今回題材とする「自殺の思想史」という書籍である。
紀元前6世紀のルクレティアというある女性の死を起点に、古代ギリシャ、ローマ帝国、聖書、神話における”自殺”の描写を論じ、中世の長きにわたるキリスト教支配下における“自殺”の捉え方、ルネサンス期を迎えてからの宗教以外での“自殺”の捉え方の変化を歴史学的に論じる。
その後、社会科学的な視点で“共同体”としての視点からの”自殺”を論じる。この巨視的な本書を概説するのは一端の凡人である私にとっては無理難題であるため、それはよす。概説を知りたいものは今すぐ書籍を買ってみることを勧める。
「解説はむり。各々買ってみてくれ。」というだけであればこんな文章を書き始めていない。こいつを土台に何か思ったことがあるから今こうして書いている。がしかしその何かっていうのはえらく感情的になってしまっているため、今から私が文章にすることは本書の中身から大きく外れてしまう可能性がある。念のため自制に励んでみるが、「おや?」と思ったらどうか読むのをやめてほしい。こんな稚拙な文章よりもよっぽど本書は読む価値があるから。
拙いながらも私が感じたことをなるべく素描してみる。この営みによって私はある種救われる側面があるのだ。
そのためおそらくこれは“書評”とはなっていないだろう。得体の知れない者による散文である。“書評”としての体裁の中に奥底の感情をぶつけるというテクニックを私は持ち合わせていない。だからどうか、“書評”として機能していないこの駄文を冷ややかな目で読み続けてほしい。
「死にたい」という感情はどこからやってくるのか。
それは己の思想からか?
では己の思想はどこからやってくるのか。
己の位置する環境によってか?
では環境を変えれば“死にたくなくなるのか”?
こんな堂々巡りを味わったやつのみる希望は、なんて輝かしいのだろうか。
その輝きを周りの“オトナ”は「やみ」と言うのだろうな。
「死にたい」「眠れない」「全て投げ出したい」と現時点思っているのであれば、この書籍を最初のページから最後まで通読してほしい。「自殺」について人類は長い時間をかけてどのように捉えてきたのかというabstractをあなたはたった数千円で知ることができるのだ。そして書籍で展開される一つ一つの物語を反芻しながら読み進めてほしい。
これにはかなりの時間がかかる。漫画のようにわかりやすい描写ではなく、文字の羅列だからな。だが読書するのが好かない人ほど、これをやってみてほしい。
読み進めていくと疲れてくるはずだ。
その疲れを忘れないでほしい。
我々には“疲れ”がある。そしてその“疲れ”を回復しようと身体の方から歩み始める。
この感覚を忘れないでほしい。
あなたは眠ることができるのだ。一旦自分のモヤモヤにケリをつけて一日をやり過ごすことができるのだ。
この書籍のダイナミックな議論の中身を覚えるよりも、はるかに豊かな感覚を得ることができるのだ。
それだけでもあなたがなけなしの身銭を払って本書を買う価値がある。
このことを私は伝えたいのだ。
この”疲れ”を感じるようになったら、本書の議論に着目してみてほしい。本書の中で著者の目的が散りばめられている。
著者はなんとか自殺を否定したいのだ。自殺にまつわる思想史的な流れを踏まえて、社会科学的なデータを用いて。自殺を肯定するような議論さえ用いて。
彼の主張を受け入れるか否か、好むか否かの評価を一旦脇において彼の論理を読み進めてみてほしい。その後にあなた自身の考えと向き合ってみてほしい。
余裕がある人は、読む前後の自分の考えとの違いにも向き合ってみてほしい。
私がここで述べたいのはこのことだけだ。
本当は本書の議論を流れを追って概説しようとしたが、そんなことはこの文章に辿り着いた人にとってはガラクタでしかないだろう。だから私は長い時間をかけて準備した概説を捨てた。
そんなことよりもあなたがあなた自身の変化と向き合うことの重要さを、稚拙ながら感情まかせにぶつけることの方が私がしたいことだったからだ。
その点、私は利口ではないな。ただ利口というのは疲れる。時には自分自身の言葉を信じることも大切だ。
本書の和訳サブタイトルは「抗って生きるために」である。
原タイトルは「Stay」。
どうか裏切られたと思って、本書を手に取ってみてほしい。
(飯島 渉琉)
出版元:みすず書房
(掲載日:2024-09-05)
タグ:自殺
カテゴリ その他
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測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?
ジェリー・Z・ミュラー 松本 裕
原題は『The Tyranny of Metrics』。直訳すると「数値目標による圧政」となる。現代社会において、さまざまな分野で数値による成果評価が重視されているが、圧政とはどのような意味を持つのだろうか。
『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』は、数値指標に過度に依存することがもたらす弊害を示し、その危険性を警告している。著者は教育、医療、ビジネス、政治など、数値化された評価基準が広く浸透している領域における問題を取り上げて、その弊害について論じている。特に短期的な成果や容易に測定可能な指標に依存することで、長期的な視点や測定が難しい要素(創造性、倫理、施策)が見落とされがちであると指摘する。数値目標を達成するまでのプロセスやそこから得られる学びが見過ごされる事例には、私自身も共感を覚える。「数値目標による圧政」とはこのような状況を指すのだ。
特に印象深かったのは「数値目標が目的化する」という現象である。本来、目的達成のための手段として数値目標が設定されるべきであるが、いつの間にかその数値の達成が目的となり、手段そのものが歪められてしまう。このような経験を持つ方も多いのではないだろうか。
さらに、著者が指摘するもう一つの重要な問題は、「測定可能なものだけが重視され、測定が難しいが本質的に重要な要素が軽視される」という点である。例えば教育現場では、テストの点数が教師や生徒の能力の指標とされることが多いが、その背後にある成長や学びの過程が評価されることは少ないのが実情である。この傾向は医療、ビジネス、政府など、著者は、こうした実例を豊富に挙げて、問題の深刻さを強調している。
特筆すべきは、数値評価そのものを全否定するのではなく、適切な場面で適切に使用するべきだという主張だ。数値化が有用な場面と、逆にそれが害を及ぼす場面を明確に切り分け、その使い方の重要性を明示している。
本書を通じて、数値評価を適切に扱うための視点を得ることができ、評価のあり方を再考する機会となった。組織や教育現場に携わる方々には必読の書と言えるだろう。
(川浪 洋平)
出版元:みすず書房
(掲載日:2025-01-28)
タグ:測定
カテゴリ その他
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測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?
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