イップスの科学
田辺 規充
「去年買ったクラブセット、いいなぁって言ってたけど、よかったら君に譲ってあげようか?」
「ははん…さてはもう飽きたな」
皮肉っぽく言った言葉に遼一は気分を害したのか、目をそむけてクルリと後ろを向いた。本来お調子者で自信家の遼一にしては拗ねたような態度だった。
「そんなんじゃないよ…」
彼の表情から、決して新しいクラブに心移りしたのが原因ではなさそうだと勇大は悟った。
「実は、やめようと思うんだ… ゴルフを…」
言葉尻が聞こえにくかったのだが遼一の雰囲気からすべてが伝わってきたような気がした。あまりに突拍子もない遼一のセリフに
「え?」
という言葉にならない疑問詞だけが勇大の口からこぼれ落ちた。
一番言いにくかった重大な発表を告げて多少心の落ち着きを取り戻したか、遼一はポツリポツリとその理由を話しだした。
「パターが打てないんだよ」
「打ち方がわからなくなったというよりも身体が硬直して動かないんだ…」
「無理に打とうとすればするほど身体が固まって、まるで金縛りにあったような感じになって…」
わずかながら遼一の声はうわずっていた。
「半年前くらいからだんだんパターになると全く人が変わったみたいに動かなくなって…」
「ちょっと待って!」
勇大は遼一の言葉を遮った。
「半年前といえば君が大会で優勝を遂げた、いわば君の一番よかったころじゃないか?」
どうも話がかみ合わない。半年前遼一がぶっちぎりの優勝を遂げ表彰台に上る姿をうらやましげに眺めていた勇大としては眩いばかりに輝く彼の姿が今でも印象深い。それなのにそのころからパターが打てないなんてどう考えても辻褄が合わない。それだけではない。それ以降大舞台になればなるほど彼の勝負強さは磨きがかかり、破竹の勢いで連戦連勝だったのだからそういう要素は微塵も感じなかった。だからこそ遼一の告白はまさに衝撃であり、彼が嘘をついているだとさえ思った。
しかし陽気で真面目な彼がそんな嘘をつくタイプでないことは一番わかっているつもりだったので、勇大の見ていた現実と彼が告げた現実の大きな矛盾に悩まざるを得なかった。
どうやら思いつきの気休めの言葉では事態は変わらないだろうと感じた勇大は以前お世話になったレッスンプロに解決策がないかを尋ねてみることにした。
「一度先生に聞いてみるよ」
「だから諦めるのは待って」
勇大は遼一の目を見据えそういった。
きっと言葉の力強さに何かを感じたのだろう。遼一は小さくうなずいた。
翌日さっそくレッスンプロの大崎のもとを尋ねた。
「そんなことってあるんですか?」
勇大は昨日のいきさつを大崎にすべて話した。
「よくあるんだよね。イップスってやつさ」
「一流選手がよくやるヤツで突然パターが打てなくなるんだ」
「どうやら自分自身に対する期待や周りからの期待がプレッシャーとなって襲い掛かり、精神的な呪縛が身体までを縛り付けるのが原因らしいね」
「イップスかぁ…」
勇大は初めて知る言葉の底知れぬ怖さを感じながらつぶやいた。
「それで! あるんですか? 治す方法…」
それを聞かなきゃここに来た意味がない。そんな思いで大崎の方に身を乗り出した。
「あるといえばあるし、ないといえばない」
どうも大崎の真意が理解できずにキョトンとする勇大に
「ちょっと待ってて、いいものあるから…」
勇大の肩をポンとたたいて大崎は事務所に戻り、一冊の本を持ってきた。
「これを読んでみなさい」
そういって差し出した本には『イップスの科学』というタイトルが見えた。
「この本は自分自身がイップスになりパットが打てなくなった著者がイップスの克服方法を調べて書いた本だよ」
「しかもこの本の作者の田辺規充さんはプロゴルファーではなくて精神科医だから、専門家としての詳しい分析もされている」
「だからイップスを克服しようとするなら参考になると思うよ」
勇大は目の前が明るくなったような気がした。
「それじゃ、治るんですね!」
大崎は答えることができなかった。少し間をおいて話し出した。
「イップスはそう簡単に治るもんでもないし、これをやればうまくいくという方法もないんだ」
「ただイップスになって現役を退くゴルファーも多い中で、あの手この手で克服していくゴルファーもいるのは確かなことなんだよ」
「あとは本人がやるかやらないかだけかな…」
釈然としない大崎の言葉がどこかに引っかかったまま『イップスの科学』を持ち帰って読んでみた。
「難しいんだなぁイップスって…」
「陽気で前向きな性格で闘争心が強くて真面目とくりゃ遼一の性格そのものだし、そういう人の方がイップスになりやすいなんて…」
「それってゴルフがうまくなる人の条件みたいなもんだし、うまい人ほどプレッシャーのかかる試合を経験する機会が多いはずだし…」
「ゴルフには意図してつくられたコース上のハザードとの戦いなんだけど、イップスってゴルフっていう競技が生み出した心のハザードじゃないか…」
勇大は心底そう感じた。
「一度この本を読んでみろよ」
遼一に差し出したのは昨日大崎からもらった本だった。
「イップスが治るかどうかわかんないけど、この本には克服するための手段がいくつも書いてある」
「もし君がやってみたいと思うなら試してみるといい」
「治るのか?」
昨日大崎にした同じ質問が返ってきた。
「わからんよ」
「ただ昨日この本を読んでいるうちに何年か前に君がバンカーショットで苦しんでたことを思いだしたんだ」
「あのときは毎日バンカーの練習をずっとやってたよね」
「ああ、あの練習のおかげでむしろバンカーショットが得意になったんだ」
遼一は何年か前の苦しみを思い出した。しかし今では得意になってしまったから自分でもそんな苦労も忘れてしまっていた。
「どうやらイップスは心のハザードみたいなんだ」
勇大は話を続けた。本のページをめくりながら遼一にひとつずつ説明をした。どうしてイップスになるのか? いろいろな自分でできる克服法や催眠療法・薬物療法の存在、イメージトレーニングの方法など…。本を読む必要がなくなるんじゃないかと思うほど延々と続いた。一生懸命に解説する勇大の目を見やった。こいつ真剣だわ…。話の内容そのものよりも勇大の迫力に圧倒されていたのかもしれない。
「君が新しいハザードを克服できるかどうかはわからない」
「でも今までそうやってゴルフがうまくなってきたんだろ?」
「できないんなら僕がクラブセットをもらってやるよ」
遼一は差し出された本を黙って受け取った。もちろんクラブセットを勇大に譲るという気持ちはとっくに消えていたが…。
(辻田 浩志)
出版元:星和書店
(掲載日:2012-09-12)
タグ:イップス
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ブレインスポッティング・スポーツワーク トラウマ克服の心理療法
David Grand Alan Goldberg 久保 隆司
スポーツは楽しむために行うもので、昨今、娯楽としての需要が増えつつある、そのことに対して異を唱える人は少ないでしょう。
日常において身体を隅々まで使って生活を営む必要が少なくなった現代において、健康維持のためにスポーツに取り組む意義が大きくなってきているのも間違いないと思います。
また、競技スポーツにおける成功は、人生における選択肢を増やすための大きな糧となるでしょう。
しかし、だからといって、スポーツに自分の全てをかけるというのは、いささか行き過ぎなのではないかと感じます。狙ったところにボールを蹴ることができる、遠くまでボールを打って飛ばすことができる、そんな能力が現代の世界で生活していくためにどれほど役に立つというのでしょうか?
本書は、アスリートの心身の問題がいかにそのパフォーマンスに影響するかを示したものです。その心身の問題というのは、意識できる範囲のものだけでなく、その人が体験してきたすべてのものを指します。つまりは、アスリートのパフォーマンスの問題は、全人間的に捉えていかなければならないということです。
全人間的ということは、スポーツというものがその人の人生にとってごく一部ということを知ることであり、パフォーマンスのみでその人を判断することは愚の骨頂であるということです。
本書には、スポーツ活動とともに人生自体がうまくいかなかった例が出てきます。アスリートを機械的に捉え人間としての心や感情を無視した結果起こる悲劇的な出来事は、スポーツに取り組む代償としてはあまりにも大きすぎます。
昨今叫ばれている「アスリートファースト」を、アスリートの競技環境に配慮することと捉えるだけでは片手落ちとなってしまうでしょう。
スポーツに関わる全ての人が、アスリートを一人の人間として捉え、関わっていくことが、真のアスリートファーストであると強く思います。
(永田 将行)
出版元:BABジャパン
(掲載日:2018-04-27)
タグ:イップス スランプ 心理療法
カテゴリ メンタル
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ブレインスポッティング・スポーツワーク トラウマ克服の心理療法
David Grand Alan Goldberg 久保 隆司
著者らはイップスやスランプなどのRSPP(反復性スポーツ・パフォーマンス問題)の研究を進めている。従来のスポーツ心理学でのアプローチは意識的なテクニックにより状態の改善に導くのに対して、ブレインスポッティングスポーツワークは無意識の原因を取り除く。PTSD治療のフレームワークを応用しており、別の言い方をすれば競技レベルや種目を問わず悩みを抱える人に適用が可能である。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:BABジャパン
(掲載日:2017-01-10)
タグ:イップス スランプ 心理療法
カテゴリ メンタル
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イップス スポーツ選手を悩ます謎の症状に挑む
石原 心 内田 直
イップスはよく聞かれる症状であり、著者も高校球児時代イップスに悩まされた経験があるという。にもかかわらず、治療法はまだ確立されていない。皆がほぼ同じように感じる痛みと違い、個々の感覚によるものだからかもしれない。メンタルの問題と捉えられがちだが、本書はタイトル通り、そんな症状にスポーツ科学を使って「挑む」。例を出しながら、まず症状を定義し、それが起こる仕組みを理論的に解いていく。そして具体的な治療法を紹介する。著者が研究してきた中で有効性が見られ、メニュー化したものだそうだ。もちろん他の種目にも応用可能である。イップスに悩む人はぜひ試してみてほしい。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:大修館書店
(掲載日:2017-05-10)
タグ:イップス
カテゴリ スポーツ医科学
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イップス スポーツ選手を悩ます謎の症状に挑む
石原 心 内田 直
イップス、それは自動化された運動に起こる。器質的な問題はないが、機能に障害がある状態。ハードウェアではなく、ソフトウェアの不具合によって、今まで当たり前にできていた動きができなくなる。
運動の習得は、認知、習熟、自動化という段階をたどる。動作を自動化することで、状況判断にリソースを割くことができる。たとえば、一挙手一投足を考えながら行っていては、ほかに何も考えられない。スポーツ以前に、日常生活でも私たちは運動の自動化を行っている。スポーツにおいては、緊張・不安などの刺激により、自動化された運動に過剰な運動調節が介入することで、円滑な運動が阻害されるというのが、イップスの病態のよう。
ボディワークによっては、むしろ動きを分解し、噛みしめるように感覚を味わう、そんな向きのものが多いが、イップスには有効なんじゃないだろうか。
ともあれ、イップスという事象が広く知られ、対策が講じられて、スポーツを嫌いになったり、辞めてしまったりするひとが減ればいいな、と思った。
(塩﨑 由規)
出版元:大修館書店
(掲載日:2022-06-25)
タグ:イップス 投球
カテゴリ スポーツ医科学
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図解でわかる! イップスの克服 個別メニュー作成と段階的トレーニングで治す
谷口 智哉
イップスに対する取り組みは様々な角度からなされているようですが、イップスの明確な定義や治療法は確立されているとは言えない状況です。むしろ問題なのはその不明確さゆえに曖昧な認識に立脚する対処法でさらに深みにはまることかもしれません。昨今、多くの研究者によりイップスの原因やパターン、そして克服の方法論が整理されつつあるのではないかと感じています。
本書はイップス研究家を名乗る筆者が独自の視点でイップスを論じています。幽霊の如く得体の知れないところにイップスの怖さがあるように感じていますが、論点を整理した上で解説をされているので本書を読むことで、「わからないものに対する恐怖や不安」というものが軽減するのではないかと思います。
「イップスとは何か?」「イップスのメカニズム」「具体的な例」「イップスのレベル」「克服するためのメニュー」と順に解説され、理解が容易な点はイップスに悩むプレイヤーにとっては心強いでしょう。とりわけ視点が研究者の押し付け的なものではなく、プレイヤーに寄り添う感じで一歩ずつ前に進むような取り組みなので、イップスに悩むプレイヤーからの共感が得られそうです。
もっとも世間では様々な観点からの取り組みがありますので、筆者の意見が将来的にコンセンサスを得られるかどうかはわかりませんが、読みやすさやわかりやすさという点において読んでみる価値は十分あると思います。
(辻田 浩志)
出版元:BABジャパン
(掲載日:2022-07-13)
タグ:イップス 投球
カテゴリ 身体
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図解でわかる! イップスの克服 個別メニュー作成と段階的トレーニングで治す
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