史上最も成功したスポーツビジネス
種子田 穣 本庄 俊和
この本ではNFLがいかにアメリカ国民にとっての文化となりえたか、そのためのブランディング戦略について書かれている。ブラックアウトやマンデーナイトフットボールといった、日本のプロ野球やJリーグでは行われていないNFL独自のものが紹介され、大変興味深い。
本の中で、強い感銘を受けた点はNFLが、ブランディングやスポンサーシップの獲得に際して、アメリカンフットボールというスポーツの持っている要素を、商品やサービスに込められたコンセプトと結びつけて考えている点だ。たとえば、ボールを敵陣に運ぶために戦略や情報を用いるというアメリカンフットボールの特性を物流企業のコマーシャルに提供するといったことを行っていたり、フラッグフットボールのキットを日本各地の中学校に寄贈し、スポーツが苦手な子でも戦略を考える役ができるといったようなアメリカンフットボールの特性を提供したりしている。日本人選手がNFLに誕生するのはまだ先のことと見るや、日本人でNFLチームに所属するチアの方のドキュメンタリーをつくり、異国での生活や家族との葛藤を描いたりしている。
スポーツ団体にとって、そのスポーツを普及させるために行っていることは、そのスポーツがいかに面白いかを訴えているケースが多い。しかし、NFLは、アメリカンフットボールの面白さを訴えるだけではなく、世の中にNFLというブランドの持つ価値を投げかけている。
このように、スポーツを通じた何かで社会に訴えるという点が日本には欠けており、野球やソフトボールが五輪競技に復活できなかった理由もこの点に一因があるのではないかと私は考えている。スポーツビジネスを勉強している方だけではなく、スポーツを普及させたいと願っている方にもぜひ読んでもらいたい。
(松本 圭祐)
出版元:毎日新聞社
(掲載日:2011-12-10)
タグ:スポーツビジネス NFL アメリカンフットボール
カテゴリ その他
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史上最も成功したスポーツビジネス
種子田 穣 本庄 俊和
はっきり言って歴史の違い
私の蔵書の中に「THE PICTORIAL HISTORY OF FOOTBALL」というのがある。要するに、アメリカンフットボールの歴史を写真で追ったものだ。そして、この本の最初に「CAMP」なるタイトルのついた章があって、そこには口ひげをはやし、左手を後ろに回して直立姿勢で立っている男の写真が大きく掲載されている。
その男こそが現在のフットボールの原型となるルールを確定したウォルター・キャンプその人である。その写真の説明には「ウォルター・キャンプは1878年にエール大学のキャプテンとなった。彼は革新的なアメリカンフットボールのルールを背景に、大いに活躍した」と記されている。
1878年は、日本で言うと明治11年である。この年、日本では明治新政府の立役者であり、版籍奉還や廃藩置県を断行した参議兼内務卿の大久保利通が東京紀尾井町で刺殺されている。まだまだ国の存亡ままならぬ状況の中で、ましてスポーツなんぞという時代であった。
1892年、米国ではアメリカンフットボールは人気スポーツとなり、初のプロプレーヤーが誕生したと本書に書かれている。日本では明治25年に当たる。この年日本には本格的テニスコートが東京・日比谷の英国公使館の中庭にでき、これをきっかけにテニスが盛んになったという。でも、フットボールではないのだ。
日本で初めてアメリカンフットボールの試合が行われるのは、それから43年後の1935年(昭和10年)。東京・明治神宮外苑で横浜選抜と在日外人チームの試合が第一戦であった。そのころ、米国では現在のNFLは既に組織されていたし、1934年にはNBCラジオで全国向けに初めて放送が行われたという。そして、1935年には現在も行われているドラフト制度ウェーバー方式を導入したという。やはり、はっきり言って歴史が違うのだ。
スポーツと体育の違い
本書は、新市場開拓の原則として次の2つを挙げている。
(1)ファンデベロップメント、即ち顧客の開拓、(2)メディア展開、即ち如何にしてメディアへの露出度を増やすか。
両方とも納得だが、特に(1)の顧客の獲得には大変な時間を要するという。
つまり「特にプロスポーツの場合、人々がファンとなるスポーツは、自分が過去にプレーしたことのあるスポーツであることが多い」という。
これも納得。つまり、日本の場合、過去におけるスポーツ経験とはイコール学校体育でのスポーツ経験となるので、NFLジャパンでは現在日本でのNFLファン獲得作戦の一環としてフラッグフットボールという安全で誰もがフットボールゲームを楽しめるプログラムを全国小学校に展開中という。これも納得。
因みに、何を隠そう私もこのフラッグフットボール経験者の一人で、年齢、男女混合チームでゲームをやる気分は格別です。 読者諸君、一度経験すべし。
閑話休題。しかし、これらのNFL顧客獲得作戦には大事なものが抜けている。それは、スポーツはやるものと同時に観るものだとういう視点だ。残念ながら、今までの日本のスポーツ教育には、ここが決定的に欠けていた。つまり、教育・教材としてのスポーツ、体育だったのである。
事実、全国の小・中学校のグラウンド、体育館に観覧席が用意されている学校が何校あるか? あるのはスポーツをやるためだけの施設ばかりだろう。私自身、もう10年以上前になるが、娘のミニバスケットボールの試合を体育館の外から、狭い出入り口に沢山群がる他の保護者に混じって立ちながら応援したのを覚えている。
観覧席があったら、もっと楽しめただろうに。
NFL関係者の皆さん、そんなに史上最もビジネスを成功させた余力があり、あくなきビジネス精神の元、さらに日本、そしてアジアとビジネスチャンスを目論むなら、全国の小・中学校に観覧席を寄付して下さい。
そうすれば、必ずや日本人はスポーツを観る楽しみを理解します。そして、アメリカのように、会場近くでバーベキューパーティーもやるようになります。なんせ、史上最もマネがうまい国民ですから。
(久米 秀作)
出版元:毎日新聞社
(掲載日:2002-12-10)
タグ:スポーツビジネス NFL アメリカンフットボール
カテゴリ その他
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スポーツ選手のためのキャリアプランニング
Petitpas,Al. Champagne,Delight Chartrand,Judy Danish,Steven Murphy,Shane 田中 ウルヴェ 京 重野 弘三郎
「メダルがとれたら、もう死んでもいい」
こんな言葉で始まる「訳者まえがき」が秀逸だ。本書の内容をさしおいて「まえがき」が秀逸という書評もないだろうと訝る声も聞こえてきそうだが、実は本書が訳本だけに、ある種読者に持たれがちな対岸の火事的非現実感を、いっきにわが国においてもきわめて現実的な問題であることに気づかせてくれるのがこの「まえがき」なのである。これによって、その後に続く本編の内容がぐっと現実味を帯びて読者に迫ってくる。
この「まえがき」を書いたのは、翻訳者のひとりである田中ウルヴェ京さん。ソウルオリンピック・シンクロナイズドスイミング・デュエットの銅メダリストである。彼女は「ソウルオリンピックで晴れて銅メダル。至福のときだった。(中略)『自分は大きな功績を果たしたのだ』と思ったら、なんともいえない幸福感と達成感に満ち溢れていた」そうだ。しかし、ほどなく彼女はあることに気づく。「オリンピック自体は人生の通過点に過ぎないこと。それが私には分かっていなかった。」その後、彼女は深い人生の闇の中に吸い込まれていく。「もう死ねたらどんなにラクだろう。本音だった」。
そんな彼女を救ったのが米国留学先で学んだスポーツ心理学。そのカリキュラムの教科書のひとつが本書である。多分、彼女は本書の内容に自分自身を投影させたに違いない。そして、自分と同じ苦しみを後輩に味合わせてはいけないとも感じたに違いない。
もうひとりの訳者は、元Jリーガーの重野弘三郎氏。彼もまたスポーツに専心してきた一人である。そして、田中氏同様引退時に深い闇の中をさまよった経験を持つ。「多かれ少なかれ、ひとつの競技に専心してきたスポーツ選手、そして(結果を残した)エリート選手であればあるほど、引退時に抱える心理的問題が存在する」。強い日差しに曝されればそれだけ、樹木はその反対側に黒々とした陰をつくるようだ。
キャリア・トランジションとコーチング
本書のキーワードのひとつに“キャリア・トランジション”という言葉がある。これは、“人生の分岐点”という意味の言葉である。「人は誰でも、人生において分岐点を迎えるものである。これを『トランジション』と呼ぶ。(中略)高校から大学へ移行するとき、あるいはジュニアからシニアのレベルに移行するときがそうである」。そして、人は進学のような予想可能なトランジションだけではなく、予想不可能なトランジションも経験する。たとえば、スポーツ選手がケガによってそのスポーツを継続することが不可能になったときなど。このような場合、選手は突然自分の今まで積み上げてきたキャリアを放棄せざるを得ない状況に陥るわけで、尋常な精神でいられないことは想像に難くない。このような選手を苦しみの淵から助け出すのがコーチの役割でもある。「現役活躍中にキャリアプランを立てることにはいくつかの利点がある。まず第一にスポーツのパフォーマンスによい影響をあたえる。(中略)引退後の方向性をつかめる。(中略)自己についてより深く学べる」。スキルを教えることだけがコーチの仕事ではない。子どもたちに“未来”を教える、おこがましいかもしれないが、これもコーチの大切な仕事と考えたい。
本書の最後に翻訳者お二人の対談が収録されている。「私たちのキャリア・プランニングから」と題した対談では、お二人の引退後の葛藤とそこから抜け出したいきさつが正直に語られていて好感を持つ。是非とも「訳者まえがき」と「訳者あとがきにかえて」を読んでから本文に進むことを、本書の読み方としてお薦めしたい。
A・プティパ他 著、田中ウルヴェ京、重野弘三郎 訳
(久米 秀作)
出版元:大修館書店
(掲載日:2005-11-10)
タグ:キャリア セカンドキャリア 引退
カテゴリ 人生
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スポーツ選手のためのキャリアプランニング
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日本サッカーの未来地図
宮本 恒靖
外の世界を
もう20年余り前に通っていた鍼灸専門学校で使用していた解剖学の本。骨や筋を初めとする解剖学用語の横には手書きで英語の名前が記されている。ご丁寧に発音記号付きだ。医学書専門書店に何度も足を運び、学費を自分で稼いでいる身としてはその高額さにためらいながら手に入れた分厚いステッドマン医学大辞典を相棒に、アメリカ留学を目標に重ねていた準備活動の1つだ。アメリカでトレーナー分野のバイブルとされていたArnheim's Principles of Athletic Trainingを注文し、2カ月ほど待ってやっと手に入れたときには小躍りした。毎日ほんの少しずつしか進まなかったが、コツコツと読み込んだ。
インターネットの普及により、今ではそんな当時からは考えられないくらいに地球が小さくなった。皮肉にも留学生は減少していると聞くが、ネットにあふれる情報を前になんだかわかった気になってしまうのだろうか。人と少しでも違う存在になるために、外の世界を実体験するのは悪くないし、それを通じて母国に還元できることは少なくないようにも思う。
宮本氏の学びの軌跡
さて本書は、かつてサッカー日本代表を率いた宮本恒靖氏による「FIFAマスター記」である。FIFAマスターとは、「FIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)を初めとするスポーツ機関を支えていく人材の育成を目的に2000年から開設されたスポーツ学の大学院」である。日本人元プロサッカー選手として初めてこのコースを修了した宮本氏が「イギリス、イタリア、スイスを回って、10カ月間の課程でサッカーを中心としてスポーツの歴史、経営、法律を学」んだ過程が紹介されている。「イギリスにおいてサッカーがサッカー以上の存在感を持つ」ことを実感し、それはプレミアリーグの選手たちが「自分が社会的に影響力のある立場にいることを自覚し、サッカー選手の地位と責任を大事にしている」ことにつながると気づく。彼らが現役の間に関わる「社会貢献はセカンドキャリアにもつながる」ことを、もっと日本でも取り入れられないかと考える。やはり、身をもって気づき、感じたことで己が活性化される意義は大きい。
度重なるテストに苦労した様子や、初めてパワーポイントを使った話、グループでのファイナルプロジェクトのテーマが「ボスニア・ヘルツェゴビナの民族融和に向けてユーススポーツアカデミー立ち上げの是非」だったことなど、充実した日々のエピソードはどれも興味深い。「広い視点でサッカーを観ることができるようになった」上で語る日本サッカー界への提言も最後に語られる。「日本のサッカーを、サッカー以上のものに」し、「サッカーを文化にする」という今後の取り組みに期待が寄せられる。実は宮本氏引退後からこのFIFAマスター入学までの間に、私は彼の公演を間近で聴く機会に恵まれた。お馴染みのルックスのよさに加えて、うまく構成されてわかりやすく語られる話術から感じるスマートさ、参加していた少年たちへの優しい眼差し、惚れ惚れするとはこのことだろう。語られるエピソードも、自立心や考察力、決断力に溢れており、カリスマ性を持った存在感だった。
増えてほしい人材
こんな人材がスポーツ界にもっと増えて欲しい。スポーツをスポーツ以上の存在にするためには、よりよい文化とするためには、相応の人材が必要だ。宮本氏自身、FIFAマスターの入学審査の1つである6種の英語レポートの中で「スポーツを通して『人を育てる』という部分にもっとフォーカス」したいという内容を取り上げている。事実、彼がプロデュースするミヤモトフットボールアカデミーは「サッカーを通じて、子供達の人間的成長を目指し」すことをミッションにしている。「サッカーの『技』や『体』はもちろん、サッカーを楽しみながら相手を思いやる『心』も磨いていく」ことを重視しているのだ。「子供達が能動的にサッカーに取り組めるような環境を作る。その整備が『文化』を生み出す一つの手段になる」と信じて。
このようなスポーツ既存の枠を越える存在を生み出すためには、幼い頃からひとつの競技ばかりに打ち込む子どもを増やすことはマイナス要因もあるように感じる。一流選手にするために早々に競技を絞るより、複数の競技に触れる機会を持ち、勉学も決しておろそかにしない、スポーツを通じて一流人間を育てる試みがもっとあっていいだろう。宮本氏は今後サッカーという競技の世界で重要な役割を担っていくだろうが、できうるならその枠を越え、より大きくスポーツ界全体に影響を及ぼせる存在となってもらいたい。若い世代のスポーツ留学などがもっと盛んになれば、よりおもしろい人材が輩出できるのではないだろうか。
次の世代へ
私などは留学経験を活かしながらも目の前で直接関わる学生たちを育てることで精一杯だ。しかしトップアスリートたちの若い世代への影響力は計り知れない。
私の知るラグビートップリーグの選手には「ラグビー伝道活動」と銘打って、忙しい中学生や児童相手の普及活動に精を出しているものもいる。彼らはラグビーの普及のみならず、ラグビーを通じて子どもたちが健やかに育ってくれることを願いながら活動しているのだ。競技記録だけでなく、大きな報酬だけでなく、十分な教養とグローバルな視点を持ち、スポーツという文化を担える人の育成に一役買う力を持った選手が今後ますます増えることを期待している。
(山根 太治)
出版元:KADOKAWA
(掲載日:2014-07-10)
タグ:サッカー セカンドライフ
カテゴリ その他
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近くて遠いこの身体
平尾 剛
どのように共有するか
著者は元ラグビー日本代表で、現在は大学の講師。スポーツ教育学と身体論が専門で、「動きを習得するために不可欠なコツやカンはどのように発生するのか、そしてそれを教え、伝える(伝承する)にはどうすればよいかについて思索しています。」とのこと。タイトルにも惹かれて本書を買ったのだが、残念なことに、これについて全くと言っていいほど触れられておらず、著者自身の回顧録のような内容である。オビの推薦文にあるように、本書の内容(=著者の経験知)が「パブリックドメイン」として共有できるとも思えない。感覚も身体の動きも人によって千差万別。たとえトップ選手の感覚であっても、それを共有し、他人が自分の経験知とすることができるものなのだろうか。
「身体能力を高めたい僕たちが本当に知りたいことは、そこに至るにはどうすればよいかという方法論である。でも残念ながらそんな方法論は存在しない。自らが試行錯誤しながら身体を使い続けるなかでの体感を、ひとつ一つかき集める以外に、そこに至る方法はないだろう。」と本文にある。ということは、結局、自分であれこれ試してみるしかないということなのだ。そこに先人の経験知を共有していれば、その試行錯誤の方向性が定まりやすいということはあるかもしれない。だが問題は、それをどうやって共有するか、ということだ。
伝えるために必要なもの
本書で、漫画「バガボンド」について触れられている。吉川英治著『宮本武蔵』を原作とする人気長編漫画である。著者曰く「身体論の研究にはもってこいの書」だそうだ。そこで私は、司馬遼太郎著『北斗の人』を連想した。
幕末に隆盛を誇った「北辰一刀流」の開祖・千葉周作が主人公の歴史小説である。司馬曰く「北辰一刀流がなければ、幕末の様相も多少変わっていただろう」というほどの革命的な流派だそうだ。「『他道場で三年かかる業(わざ)は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る。五年の術は三年にして達する』という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町さきまできこえわたって空前の盛況をきわめた」というほどであり、その特徴は「凡才でも一流たりうる」という独特の剣術教授法であった。そして千葉は、剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場で新しい体系をひらいた人物なのだそうだ。
一方、武蔵が開いた「二天一流」は幕末期には衰退していた。武蔵が記した「五輪書」にも刀の持ち方とか足さばきとか、具体的なことが書いてあり、摩訶不思議な言葉を並べているわけではない。たとえば「太刀の取様は、大指人さし指を浮けて、たけたか中くすしゆびと小指をしめて持候也」という具合である。しかし、この違いはなんだろう。時代背景も違うし、流行が流行を呼んだということもあるかもしれない。そもそも2人の剣豪を比較するつもりもないのだが、ここで私が考えたいのは「凡人でも一流たりうる」ためのコツやカンを、他人に伝えることは可能なのかということである。
本書にあるとおり「言葉を手放し、『感覚を深める』という構えこそが、運動能力を高めるためには必要」であり「『感覚』を拠り所にすれば、そこには努力や工夫の余地が生まれる」のだとしても、その感覚や経験知を伝えるためには結局言葉や方法論が必要なのではないか。
ブルース・リーは映画『燃えよドラゴン』(1973)で「Don’t think! Feel!」と有名なセリフを言ったが、実際には「感じろ!」だけではコツやカンを伝えることはできない。もっとコツやカンとは何ぞやということを掘り下げないと、それをどう伝えるかも考えられない。
本書に紹介されているエピソードに興味深いものがある。ラグビーの強豪ニュージーランドの20歳以下の代表チームと対戦した際に著者が経験した「狩るディフェンス」だ。わざと走り頃のスペースを空けて走りこませ、挟み撃ちにするのだ。ニュージーランドのラグビーの中でその技が伝統として継承されているという。メンバーの入れ替わる代表というチームで、阿吽の呼吸が必要なこういうプレーがどのように伝承されているのか。イメージなのか感覚や経験知なのか。ここにコツやカンとは何か、どう伝えるかというヒントがあるように思う。とても興味深いテーマに挑んでいる平尾氏の続編を期待したい。
(尾原 陽介)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2015-04-10)
タグ:身体感覚 ラグビー 教育 コツ カン
カテゴリ 身体
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近くて遠いこの身体
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コンカッション
Jeanne Marie Laskas 田口 俊樹
コンカッション。日本語で脳震盪を意味する。
脳震盪と言えば一昨年、フィギュアスケートの羽生結弦選手が大会前の直前練習で中国人選手と衝突。その時に脳震盪を起こしていた可能性があり、直後の大会に出場したことの是非について議論を呼んだことは記憶に新しい。
この本はノンフィクションである。主人公であるベネット・オマル氏へのインタビューをもとに彼の視点から描かれている。物語はナイジェリア移民で監察医であるオマル氏が、偶然にもホームレス姿で遺体となって発見された元NFLのスター選手、マイク・ウェブスターを司法解剖することに端を発する。直接の死因は心臓発作であるが、彼の晩年を聞くに及び、ふと彼の脳組織を調べてみることを思い立つ。そうしてみてみたところ、認知症でしか見られない‘黒いシミ’を発見する。引退後、なぜ彼は記憶障害に苦しんだのか。なぜ奇行に走り人格が変わってしまったのか。このせいで彼はすべての財産を失い家庭は崩壊、ホームレスになり、最後は遺体となって発見された。オマル氏はこれを激しいタックルによって起こる脳震盪が原因だとして論文を学術誌に発表するが、これを認めないNFLは論文の撤回を要求するなどオマル氏の排除を画策する、…という風にストーリーが展開される。
かくもスポーツの商業主義ここに極まれり、という感がする。アメリカンフットボールは激しいタックルプレーが一つの売りになっている側面がある。NFLがオマル氏の主張を受け入れるということは、プレーに規制がかかってファンが減少することや、ウェブスターと同じような健康被害を訴える選手たちから集団訴訟を起こされかねないリスクをはらむ。NFLのような全米随一の巨大組織ですら利益のためなら正義に反する過ちを犯すのである。
来月、これを映画化したものが日本で公開される。主演はあのウィル・スミスである。ちょうどいい機会なので、この本と映画を見比べてみることをお勧めしたい。原作とどこが違うのか。まず実在のベネット・オマル氏はウィル・スミスほど二枚目ではない。それに非常に上昇志向が強く、性格的にひと癖ある人間である。しかし、ウイル・スミス演じるオマルと同じく、オマル氏本人も正義感と強い信念の持ち主である。
それから大事な点がもう一つ。原作本も映画も主人公はオマル氏であるが、現実では彼は蚊帳の外に追い出されてしまった。告発者であるにもかかわらずにだ。これはNFLの‘オマル外し’がある程度功を奏したのかもしれない。また功名心欲しさに随分と横やりが入った。そして米国社会の根底に黒人に対する根強い差別感情があるということが伺える。この本にも書いているが、もしオマル氏が白人だったら、今頃違った人生を歩んでいるかも知れない。結局NFLは糾弾されたが、オマル氏自身の待遇については、おそらく本人は納得していないだろう。
さて、映画はどんな感じに仕上がっているだろうか。スクリーンの前に座るとしよう。
( 水浜 雅浩)
出版元:小学館
(掲載日:2016-09-17)
タグ:脳震盪 アメリカンフットボール
カテゴリ スポーツ医学
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コンカッション
Jeanne Marie Laskas 田口 俊樹
言葉すら知らなかった
頭を強くぶつければ危険だということなど誰もが知っていることではないか。しかし弱小高校ラグビー部員だった頃の私は、頭をぶつけるなどラグビーでは当たり前のことだと考えていた。脳振盪という言葉すら知らなかった。脳を激しく揺さぶるのに、頭をぶつけることが絶対的な条件ではないことも認識がなかった。友人が死にかけるまでは。
試合で頭をぶつけた彼は、頭痛に悩みながらも練習を続けていた。1週間以上経った早朝に彼は意識不明に陥り痙攣を起こし、緊急開頭手術を受け生死の境をさまよった。幸い後遺症もなく回復したが、そのことは私がトレーナーを目指す原体験となった。だがその危険性を知った後も私はラグビーをやめようとは考えなかった。そして今までに自身も数回意識を失うような重度の脳振盪を経験した。大学卒業後の専門学校時代、国家試験を3カ月ほど先に控えた時期、クラブチームの試合で重度の脳振盪を起こした。試合会場で自分のカバンや車が認識できなかった。そしてその後しばらく本が読めなくなった。書かれているものが何かの記号としか思えず、意味が全く読み取れなくなった。危険を身をもって学んだ。ラグビーはやめなかった。頭を強くぶつければ、いや脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていることではないか。そのリスクを負うか負わないかは自分の判断だ。
長いエピローグ
本書は、年間80億ドル規模を動かす組織でありながら、アメリカンフットボールというコリジョンスポーツで脳に強い衝撃が加われば危険だということを認めず、選手たちに対して負うべき責任を真摯に受け止めてこなかったNFL(NationalFootballLeague)にまつわるノンフィクション小説である。
日本未公開とはいえ映画化された作品である。だからといって、ここに描かれている全てのことが全ての側面から真実だなどとは思わない。ただ、NFL側が推定10億ドル(約1090億円)を支払うという和解にまで至った集団訴訟の引き金になったストーリーはドラマチックである。主人公は、禁断の箱を開けてしまったナイジェリア移民の黒人監察医、ベネット・オマル氏である。
冒頭部分では、オマル氏の家族やナイジェリアの内戦など、彼がアメリカにたどり着くまでの生い立ちが描かれている。メインテーマに至るまでのこの長いプロローグは、その必要性に疑問を持ちながら読み進めることになるだろう。
しかし、アメリカの価値観の中で育ってこなかった異文化の黒人でなければ、アメリカンフットボールという競技はもちろん、それがアメリカの人々にとってどんな意味を持つのか全く知らないナイジェリア移民でなければ、彼が発見したタブーを確固たる決意を持って白日のもとにさらすことはなかったのかもしれない。そしてこのことで、後に彼が物語の中心から「隅っこ」に追いやられることを考えると、父の死にまつわる後日譚であるエピローグとともに理解しておかなければならないように感じる。
知っていたはず
物語の核心は、元NFLピッツバーグ・スティーラーズのスーパースター、「アイアン・マイク」ことマイク・ウェブスターが2002年の9月に心臓発作で亡くなり、オマル氏が検死することになったところから始まる。
彼が死ぬ前にとっていた異常行動を聞いて、オマル氏は脳を検査しようと思いつく。かくして50歳という若さで亡くなったウェブスターの脳には、アルツハイマー患者に見られるような神経原線維変化、タウ蛋白の蓄積が見つかった。
脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていることではないか。脳振盪は、テキストに書かれているような一過性の脳機能障害ではないのだ。NFLを引退した選手の中に「正気を失っていく男たち。妻をぶん殴り、自らの命を絶つ男たち」がいることと頭を何度も何度も強くぶつけてきたことと、結びついていなかったわけがない。
私がアメリカに留学していたのは1995年から99年にかけてだが、自らの経験から脳振盪についてはかなり調べ込んだ。事実、段階的復帰のガイドラインやセカンドインパクトシンドロームのことなど、その頃すでにたくさんの文献を見つけることができた。そう、「米国神経学会(AAN)は脳震盪を起こしたスポーツ選手が競技に戻る際のガイドラインまで作成していた」のだ。
しかし、脳外科や神経病理学の門外漢であり、しかも後に判明する経歴詐称をしていた医師をトップにしたNFL軽度外傷性脳損傷(MTBI)調査委員会は不都合な論文の撤回を図るなど、「ほんとに選手たちはこれで大丈夫なのか?」という疑問を「調査結果に不備がある」と打ち消す役割を果たしていたのだ。「複数回脳震盪を起こした選手は臨床的鬱病にかかるリスクが三倍になる」「繰り返し脳震盪を起こしたNFL選手は、軽度認知症(アルツハイマー病の前段階)になるリスクが五倍になる」「引退したNFL選手がアルツハイマー病を患う確率は、通常の男性に比べて三七パーセントも高い」といった調査報告を否定し続けていたのだ。
科学をカネで買おうとする「茶番」だとは誰も思わなかったのか。「アメリカンフットボールのプロ選手は、日常的かつ頻繁に繰り返し脳を強打されているわけではない」などという発表に、えらいセンセイ方がそうおっしゃるなら間違いないと皆思っていたのか。特別番組でフットボールが消耗性脳障害を引き起こす可能性について、ただ「ノー」「ノー」「ノー」と答え続けたMTBIのドクターに、一体いくらもらってるんだと思わなかったのか。いや、脳に強い衝撃が加われば危険だということなど誰もが知っていたはずだ。ただ、それこそがアメリカンフットボールという競技の醍醐味だったというだけだ。
オマル氏は、若くして不幸な死を遂げたNFLの元選手たちに見られた脳の異常を慢性外傷性脳損傷(CTE、chronictraumaticencephalopathy)と命名し、「マイク・ウェブスターは疾患の脳組織分布を通して、私たちに語りかけていた」ことを信じ、この障害に苦しんでいる人を助けたいと活動を続ける。しかし、オマル氏の意図をよそに、別のさまざまな奔流がさまざまな場所から巻き起こっては流れ込み、大きなうねりとなって6000人の集団訴訟となる。「80億ドル規模の組織でありながら、選手たちに対して負うべき責任を真摯に受け止めてこなかった」NFLは、「上限のない和解案」として、今後65年の間に約10億ドルの賠償金を支払うことで合意した。ただし、これに合意しない家族の訴訟はまだ続いている。見えなくさせるものCTEを患った引退選手、そして彼らの家族をも巻き込んだ数々の悲劇には本当に心が痛む。いくら激しいぶつかり合いが競技の本質だと言っても、選手の安全は出来うる限り守られなければならない。当然だ。しかし、頭をぶつけ、脳を揺らし続けて、選手たち自身は本当に問題ないと思っていたのだろうか。「アンフェタミンもステロイドも多種多様なサプリメントも、効き目があるといわれるものは何でも試した」というアイアン・マイクを始め、引退後に異常行動に至った選手たちは、それら全てが起こしうるリスクを、本当に疑っていなかったのだろうか。
営利心や功名心が、それを見ようとさせなかったのではないのか。巨万の富を得ようとする欲が、誰もがうらやむ存在になりたいという欲が、自分の地位を守りたいという欲が、この競技に生きたいと願う欲が、脳に強い衝撃が加われば危険だと誰もが知っていることにも自ら蓋をしていたのではないのか。NFLという組織がそうしていたように。「心が知らないことは目にも見えない」のだ。危険なスポーツを続ける自分自身にも責任はあるはずなのに。
ボクサー認知症のような脳挫傷の痕跡も萎縮も見られなかったウェブスターの脳を薄い切片に切り出し、染色してプレパラート処理し、さらなる調査を決意したオマル氏の判断やその後の行動は、欲と相談したものではなかったように感じる。父の教えに従い、彼は「人々の生活をよりよくするために」「自分の才能と公正さを使わなきゃいけない」という信念をもとに行動したのだ。「知っているなら、進み出て述べよ」と。
彼に功名心や豊かになりたいという願いがなかったわけではないだろう。しかしそれは、化け物のように欲深い世界に生きる輩に比べればごくささやかなものだったろう。彼は自分の信念に基づき、自分が自分であり続けるために、やるべきことをしようとしただけだ。生きるために持つべき信念があるなら、私はオマル氏のようでありたい。
(山根 太治)
出版元:小学館
(掲載日:2016-07-10)
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カテゴリ スポーツ医学
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早稲田アスリートプログラム テキストブック 大学でスポーツをするということ
早稲田大学競技スポーツセンター
早稲田アスリートプログラム(WAP)は、大学創立150周年に向け、スポーツの価値を高めていくべく2014年度に開始された。なぜ「大学」でスポーツをするのか、一大学の取り組み例として読み進められる。内容は、地域貢献やチームマネジメントをはじめとした求められるスキル、そして生活管理やメディカルケアなどの持っておくべき知識のテキスト化がメイン。さらには、メディアとの関わり方やセカンドキャリアといった、部員をどうサポートするかにも触れている。勝利を追求するだけでなく、社会のリーダーたる人間になる、育てる。スポーツ界全体が目指すべき方向が浮かび上がるとともに、選手が関わる各領域、その中におけるスポーツ医科学の位置づけも再確認できる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:BookWay
(掲載日:2016-09-10)
タグ:アスリート 大学スポーツ セカンドキャリア
カテゴリ その他
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笑顔の習慣34 仕事と趣味と僕と野球
山本 昌
筆者の山本昌投手は実に記録に満ちた大投手です。実績から見ても50歳まで現役、32年間の実働と現役で中日一筋、219勝で殿堂入り、41歳でノーヒットノーランを達成されています。そんな山本投手が現役を引退して、セカンドキャリアを歩みながら現役時代を回顧しています。背番号にちなんで34個のエピソードがあり、丁度よい文章量で読みやすく構成されています。
32年間も現役を続けられた要因として、興味深い点を仰っています。それは、実はマイナス思考で緊張しやすい性格という点です。その不安を補うためにダンベルを毎日握って手首を鍛える小さな努力を継続しています。また、女房役である捕手のサインには首を振らなかったそうです。納得できなければ、あえてボールに外しています。それは、投手よりもバッターを間近で何試合も見ている捕手を信じているからです。そして、先発として序盤で打たれたとしても決して「投げない」(投げ出さない、あきらめない)と述べています。投げ出してしまうのは周りにいる選手にも失礼にあたります。何より一生懸命投げることが、219勝という結果につながっています。
また、出会いの大切さやピンチのときこそチャンスであったと回顧されています。入団後、なかなか選手としての目が出ずにドジャースキャンプに半年間参加した際、2人の恩師に出会うことができ、ここからブレークされています。
そして興味深い話として、強いチームの条件は、よい選手がよい習慣を行うと述べています。2016、2017、2018年とセ・リーグを3連覇した広島東洋カープの強さは、チームの土壌にあると解説されています。
また、それは落合監督時代に無類の強さを誇った中日ドラゴンズも同様です。ドラフトでよい選手、つまり「苗」を取ってきても、それを育てるチームである「土壌」がよくないとよい花は咲かないというたとえは納得の話です。
この話を読みながら、私もかつて優勝争いをしていた在阪球団の体力測定イベントのスタッフで施設内を見学したときに、大ベテランの選手が若手選手に交じって精力的に汗をかいていたのを思い出して腑に落ちました。
この書籍は、現役のアスリート選手やビジネスマンに読んでほしい一冊です。本書では、現役時代を振り返ってセカンドキャリアにおいて何が大切かについて述べられています。アスリートには必ず引退が訪れます。きっと、現役時代の経験を活かすヒントが見つかると思います。
(中地 圭太)
出版元:内外出版社
(掲載日:2020-04-09)
タグ:野球 投手 セカンドキャリア
カテゴリ 人生
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コツとカンの運動学 わざを身につける実践
日本スポーツ運動学会
個人に合わせた指導
アスレティックリハビリテーションとは、アスレティックトレーナー業務のひとつだ。アスリハと略して呼ばれることが多い。日本スポーツ協会の公認テキストによれば、日常生活レベル復帰を基準とするメディカルリハビリテーションを引き継ぐ形で、競技復帰までを目標とする過程として表現されている。しかし実際は、リハビリ初期から患部外のトレーニングや全身持久力トレーニングなどを組み合わせたアスリート向けのプログラムとなる。
競技復帰には体力因子や全身を協調させて体現する「わざ」の再獲得が必要だ。傷害の発生機序や発生要因を克服しながら、「わざ」の 「コツ」や「カン」を取り戻し発展させる必要がある。リハビリ開始時からこれを加味したプログラムであるべきで、個々のメニューはそれぞれの要素に分断されたものではなく互いに協調すべく全身の動きをイメージしてデザインされるべきである。そして、たとえ蓄積された知見に基づくプロトコルでも、対象となるアスリートによって指導の方法は全て異なるものになるはずだ。その道のりは、指導というよりむしろトレーナーとアスリートが協調し共感しながら進めるべき協働という方が正しいように思う。
実践のヒント
さて、日本スポーツ運動学会による『コツとカンの運動学』のサブタイトルは「わざを身につける実践」とある。子ども達の発達過程において「動きのわざ」をいかに育てていくのかを主軸として様々な知見が語られている。「わざ」は単に「動き」ということではなく、移り変わる状況に応じて「コツ」と「カン」を働かせて、最善の「動き」をするということだ。それを自分が「身体で覚える」だけでなく、それを学習者にいかに指導するかという実践のヒントが集約されている。だから、ここでいう「運動学」はキネマティクスとは一線を画している。キネマティクスを芯に、心理、言語、感覚、人間関係や環境整備といった様々な因子で包み込んで作られた領域と言うほうがいい。
日本スポーツ協会が推進するアクティブチャイルドプログラム(ACP)でも「動きの質」に注目するよう働きかけている。ACP とは「子どもが発達段階に応じて身につけておくことが望ましい動きを習得する運動プログラム」だ。ただ、どれだけいいプログラムでも、その「動きの質」向上のためには指導者の力量が問われる。個人差の大きい子ども達の指導では、画一的な指導は効果のばらつきを大きくするだろう。
学生に悩んでもらう
本書で説かれる「学習者の動き方を自らの体で感じ取りながら、わざの動感世界を共有する運動共感能力」や「指導者が自分の動きを詳細に分析してその動きが実際にできるようになるために、指導者が学習者に対して学習者自身の動きの感じに問いかけていくという借問」などの重要性は、アスリハの過程に通じると感じる。現場のトレーナーとして経験を積んだ人達はこの辺りのスキルは自然に練り込まれているだろう。負傷したアスリートの状態を的確に把握し、様々な視点から観える問題点を、当人とのコミュニケーションの中で修正しながら、段階的に進めていくことができるはずだ。
ところがアスレティックトレーナーを目指す学生達には、まだこの感覚をイメージしにくい者が散見される。そういった学生は、正解を欲しがる傾向にあるようにも思う。この場合はどうすればいいのか、マニュアルとしての答えが欲しいのだ。
模範解答としてのプロトコルを示してやればいいのかもしれないが、私の場合はヒントを小出しにしながら悩んでもらう方法を取っている。解剖学や傷害、評価法、そしてアスリハの基礎理論をもとに、対象となるアスリートのことを多角的に想像し、互いに協力して問題を解決すべく創造力を最大限に働かせることに取り組んでもらうのだ。そのためにはアスリハの勉強をしているだけでは足りない。JSPO-ATの実技試験対策でも、過去問題を紐解いてこの設問が出ればこのプログラムを覚えておいて指導せよといった方法では問題だと個人的には考えている。たとえ試験であっても、目の前にいるアスリート(モデル)に最大限の効果が出るようにカスタマイズされたものを即座に提案し、指導というより双方向の協働にできることを目指して欲しい。本書もきっといい参考書籍になるはずだ。
(山根 太治)
出版元:大修館書店
(掲載日:2021-03-10)
タグ:カン コツ
カテゴリ スポーツ医科学
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