慢性腰痛は3日で治る
高林 孝光
「“触れる筋肉”と“触れない筋肉”」「治らないのは、触ってないから」
本書は始めから終わりまで一貫して、このテーマにつきる。
この一冊には、生理学・解剖学的な内容から「“触れる筋肉”と“触れない筋肉”」「なぜ痛みが出て、なぜ治らないのか」が説明され、さまざまな治療法・手技方法や著者が“触れない筋肉”へのアプローチとして推奨している電気療法の紹介から「“触れない筋肉”にアプローチするにはどうしたらいいか」が明確に示され、最後には“いい筋肉”をつくるためのストレッチ法(セルフケア)などがイラストを使ってわかりやすく紹介されている。
全体的に読みやすく、著者が、著者自身の経験や実績に裏づけされた独自の哲学・理論を用い、どのように患者と向き合ってきたかなどが記されている非常に内容の濃い一冊になっている。
(藤井 歩)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2012-01-18)
タグ:ケア 解剖学 腰痛
カテゴリ スポーツ医科学
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疲れたときは、からだを動かす!
山本 利春
スポーツ医学の分野でよく知られた山本氏による一般向けの疲労回復のコツを示した本。副題は「アクティブレストのすすめ」。アカデミズムの代表的出版社である岩波書店から出たのだが、硬い本ではないので、気軽に読める。
全体的に、スポーツ選手の疲労回復法を紹介し、それを一般の人にわかりやすく、実施しやすいように紹介したものである。
スポーツ選手なら多くの人は経験しているだろうが、からだがだるいときに、休んでいるより、ジョッグなど軽い運動をしたほうが、調子がよくなる。これは「積極的休養」と呼ばれ、「休養日」であっても、何もしないのではなく、からだを軽く動かしたり、著者が記しているようなプールなどを使ったアクアエクササイズなどが効果的である。もちろん、試合後も同様。コンディショニングの一環としてのアクティブレストの例も本書ではいくつも紹介されている。
それは一般人でも同じというのが、本書の主張である。スポーツ現場の例を出し、実験結果も示し、ストレッチング、筋力トレーニング、入浴法(せっけんマッサージ、交代浴など)、ウォーキング、そしてアイシングについても触れられている。
2006年9月26日刊
(清家 輝文)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-11)
タグ:アクティブレスト ケア ストレッチング アイシング トレーニング
カテゴリ アスレティックトレーニング
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ようこそ、これからのSkin Careへ
上田 由紀子
“SkinCare”と聞いて、男性(もしくは女性の中にも…)は“自分には関係ない”“興味がない”なんて思う人もいるかもしれない。
しかし本書には、そんな人も気軽に読めるように1月〜12月と季節毎にテーマを変えたり、対談形式にすることで読みやすさを増している。
量的には少し多いと感じる部分もあるが、細かいセクションに区切られているため興味を持ったセクションだけを見ることができるし、スポーツとスキンケアの関係や、男性の髪やヒゲの悩みについてのセクションもあるため、男性も十分楽しめる内容となっている。
(藤井 歩)
出版元:奥村印刷
(掲載日:2012-10-15)
タグ:スキンケア 皮膚
カテゴリ スポーツ医科学
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ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと
村上 靖彦
著者は冒頭でこう言う。
「本書では、身体医学と精神医学を連続的に扱い、医療や福祉、ピアサポートなども連続的に扱う。さらには、心と身体と社会も連動的に語られることになる。特に身体については、医療行為の対象となる『臓器』としての側面ではなく、私たちが内側から感じるあいまいな〈からだ〉としての側面にクローズアップしていく。
内側から感じる〈からだ〉の感覚や動き、好不調、気分といったものは、日常的に『心』と呼ばれているものと混じり合う。つまり、私たちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる『臓器』ではなくなり、心と〈からだ〉の区別はあいまいになっていくのだ。」
あいまいなものはとかく排除されがちだと思う。とくに、客観的な指標が重視される現代医学では、画像で表れないもの、数字で示せないものは、「無い」に等しい。しかし、その原因がどうしたってわからないものでも、症状があるという状態はある。とすると、指の隙間からこぼれ落ちるもの、それはささいな、取るに足らないことかもしれないが、見逃すべきではない。
人が発するどんな表現であれ、キャッチする人がいて初めてサインとなる。それは「SOS」として聴き取る人にとってのみ、サインとしての機能を果たし、そしてしばしば、聴き取ることそのものが、ケアとなる。
それは存在を認める、という応答なのだろうと思う。
責任:responsibilityは、レスポンス(反応)するアビリティ(能力)を持ったひとが負うものだと、聞いたことがある。
イヴ・ジネストによって提唱されたユマニチュードという認知症ケアの技法では「目を合わせること」を重要な要素としている。なぜかというと、相手を見ない、ということは、「あなたは存在しない」というメッセージを送ることになる。「あなたは、ここにいるのですよ」というメッセージを送ること、これがユマニチュードの原点だという。
ケアするひと、ケアラーには一般には考えられないほど、感覚の鋭敏性が光る。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親を看病する川口さん(逝かない身体)の場合を、著者はこう書く。
「母親の身体は動かないが、娘は代わりに身体の発汗や熱を〈からだ〉のサインとして読み取る。〈中略〉発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を〈からだ〉からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との〈出会いの場〉を開き続けている。」
ある本で、ALSの患者さんを数人で介助しているグループの対談を読んだ。印象に残っているのは、介助している人たちの「発声の仕方」が、静かにお腹から声を出している、というインタビュアー側の感想だった。
受信モードに徹する介助者には、自身の声でサインをかき消してしまわないように、という配慮が板についている。
ケアの視点で見たときに、身体医学と精神医学を区別する必要は必ずしもない。本書で用いてきた〈からだ〉という概念は身体と心の双方にまたがる経験だ。心身の区別は、そもそも西欧医学が学問的に導入した人為的なものにすぎない。
不眠に悩んだり自傷行為に走る女性たちが、ボディワークとグループセッションによって、身体性と過去のプロセスを再確認し、自らの言葉を獲得する例や、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」によって、悩みを思い浮かべたときの身体感覚に着目し、言語表出することで、イメージが変容し、実際に身体が楽になる、という例などは、心と身体は分けられないということを示している。
著者はケアについてこう語る。
「ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない。未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、『独りでは生存することができない仲間を助ける生物』として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。」
紹介しきれなかったが、ミルトン・メイヤロフのin place、ドナルド・ウィニコットのホールディング、熊谷の、自立は依存先を増やすこと、など、ケアを読み解くヒントとなるキーワードが溢れている。
(塩﨑 由規)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2022-06-06)
タグ:ケア
カテゴリ その他
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語りかける身体 看護ケアの現象学
西村 ユミ
「見る者、関わる者の見方によって、その存在の在り様が異なってしまう植物状態患者との関わりにおいては、彼らをどのような存在として捉えるか、あるいは彼らとどのように関係しようとするかが大きな問題となる。つまり、看護師の態度によって、あるいは看護師の見方によって、患者へのケアが大きく左右されてしまうのである。」
これが筆者の問題意識だ。生理学的研究やグラウンデッド・セオリーアプローチという方法で、研究を始める筆者だが、どうにも客観的な抽象に傾き、「いきいき」とした具体を取りこぼしているような感覚に襲われる。そこで筆者は「現象学」的アプローチに活路を見いだす。
「現象学は、科学的な認識以前の『生きられた世界』に立ち返ること、すなわち『世界を見ることを学び直すこと』を大切にする。〈中略〉知覚された経験を、それ自体として存在するものではなく、『それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること』として捉える。世界とはわれわれの知覚している当のものだとメルロ=ポンティはいう。」
前意識的な層、理論化以前の層、あるいは、原初的地層と表現される、主客未分化で、混沌とした世界に分け入り、答えを探すために著者は、植物状態患者を担当する看護師にインタビューを行う。
「メルロ=ポンティによれば、知覚の主体としての〈身体〉を顧みるには、主体・客体といった二項対立を越え出なければならず、そのために『見つけださなければならないのは、主観の観念と対象の観念のこちら側にある、発生段階での私の主観性の事実と対象とであり(略)原初的地層なのである』としている。ところがこの『原初的地層』は、意識に立ち昇ってくる手前の『思考よりも古い世界との交わり』であるため、このような前意識的な層は『直接われわれの意識に開示されることはないし、他方、いうまでもなく、外的知覚によっても全く届きえない』〈中略〉こうした目でものを見る、つまり視覚が対象をとらえる機能として働き出す手前の未分化な知覚のことを、メルロ=ポンティは原初的地層における『共感覚』と言っている。そして、音を見たり色を聴いたりする感覚の交差というのは日常的に現象していることであり、むしろ『私の眼が見るとか、私の手が触れるとか、私の足が痛むなどと言うが、しかしこれらの素朴な表現は、私のほんとうの経験をあらわしてはいない』とし、『われわれがそれと気づかないのは、科学的知識が【具体的】経験にとってかわっているから』であるという」
言葉、知識というものによって、より抽象的な事柄を思考することができるようになった。他方で、スパッと裁断してしまった枠組みの「あわい」に広がる世界には、目が向きにくいのかもしれない。
名を知ることと、わかることは違うが、感じることはもっとずっと手前にある。奥にあるように思えるのは、やはり言葉と、それにひっついてまわる観念に惑わされているからかもしれない。
「私は触わりつつある私に触わり、私の身体が『一種の反省』を遂行する。私の身体のうちに、また私の身体を介して存在するのは、単に触わるものの、それが触わっているものへの一方的な関係だけではない。そこでは関係が逆転し、触わられている手が触わる手になるわけであり、私は次のように言わなければならなくなる。ここでは触覚が身体のうちに満ち拡がっており、身体は『感ずる物』、『主体的客体』なのだ。」
「ケアを行なう者にとって『この世界で他の人と実際にかかわっている』という感覚、つまり触れ合っていることがいかに大きな意味をもっているかは、メイヤロフによっても述べられている。この感覚は、ケアの実践によって自分が『場の中にいる(in-place)』こと、つまり世界の中に『自分の落ちつき場所』を得ているということであり、またこのような場を与える『対象(他者)』は、『私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれる』のである。ゆえに、この他者は『私とその対象をともに肯定するという意味で、自分の一部』なのであり、私と『補充関係にある(appropriate others)』呼ばれることになる。そして『場の中にいるということは、私と補充関係にある対象への私のケアによって中心化され、全人格的に統合された生を生きること』となる。」
触わるものが、触わられる。ケアするものが、ケアされる。という逆転が現場において起こっているのではないか。
このin placeは他書では「しっくりくる」とも訳されている。
インタビューにおいて、ひとつひとつ細かく分析するのではなく、芋づる式に言葉が出てくるように、対話したという。そうすることで、筆者と看護師の主客未分化な状態、一つの間身体性から生成された言葉を、拾い上げた。
写実主義のなか、エスキスだ、未完成だと揶揄され、評価されなかった印象派の画家達、しかし彼らは、光、空気、雰囲気を描き続けた。それが紛れもない「ほんと」だと思ったからだろう。カバーの「星月夜」は、そうともとれるが、果たしてどうか。
(塩﨑 由規)
出版元:講談社
(掲載日:2022-06-15)
タグ:ケア 現象学
カテゴリ 身体
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「ユマニチュード」という革命 なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか
イヴ・ジネスト ロゼット・マレスコッティ 本田 美和子
ユマニチュードとは人間らしさを意味する言葉であり、ユマニチュードと名づけられたケア技法は、徹頭徹尾、目の前の人間の存在を認め、尊重するということを大切にする。
慣習として行われてきたケアの方法は、医学の権力によって、患者の主体性をないがしろにしてきた。ひとを救う(あるいは介助、またはケア、キュアなど)という名目のもと、そのひと自身の気持ちを無視してきた、と。その反発として認知症高齢者が暴れたり、叫んだり、言うことを聞いてくれなかったりするのだという。背景として、無意識の宗教的価値観が関わっているという考察が面白い。
おもに西洋の修道院で行われてきた、他者への奉仕は、辛く苦しい、単調で退屈な仕事だった。しかし、だからこそ自分の救済への道がひらける。苦なくば、楽はなし。no pain, no gainということになる。その意味ならば、悲劇のヒロインに付き合わされて、いい迷惑だ、という構図なのかもしれない。
だけれどケアは本来、する側も、される側も心地よく、楽しいものだというのが著者2人の主張。ひとの目を見て、手を触れ、言葉を交わし、できるだけ立位で、動かせる部分は動かしてもらう。決してどちらか一方通行ではない、依存ではない自立は、交換つまりコミュニケーションから始まる。
人間関係抜きの技術論では、容易にひとはモノ化される。そこから悲劇は起きてきたと、革命家たちが獅子吼する。
(塩﨑 由規)
出版元:誠文堂新光社
(掲載日:2022-07-04)
タグ:ユマニチュード ケア
カテゴリ 人生
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語りきれないこと 危機と傷みの哲学
鷲田 清一
東日本大震災のことを主題として、語ること、聞くこと、待つこと、の重要性を指摘する。それはとくに有事の際、危機的状況の中で、より際立つのだという。
なにかしてあげたい、そう誰しもが思う。しかし、悲しみや絶望の渦中にあるひと、底知れぬ闇を抱えたひとに、なにができるだろう。よかれと思ってすることが、裏目に出てしまうことも、ケアの現場では多いのではないかと思う。反面、ただ一緒に居てくれるだけで、救われることもある。
かつてイヴァン・イリイチは、ケアのプロのことを「ディスエイブリング・プロフェッショナルズ」と呼んだ。ケアのプロから提供される高度なサービスと反比例するように、市民一人ひとりが、命の世話をする力を失っていくさまを、揶揄した言葉だ。
医療や教育の現場を、ビジネスの指標で測るといけないのは、この「間」をこそ、もっとも大事にしなければいけないからではないだろうか。余白を埋めるような効率化の概念が塗りつぶしてしまう、いきいきとした生。イリイチが脱学校、脱病院と言ったのもその意味だったように思う。
とはいえ、いろいろなものに依存しなければ生きていけないのが現実だ。著者は、相互に支え合う関係(インターディペンデンス)を他者と築くことを勧める。抱え込むことなく、押し付けあうでもない、持ちつ持たれつの関係性といえばいいのだろうか。
前提として、お互いのことをある程度わかっていること、さらに損得を基準にしないこと、などは含まれるのだろうと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2023-02-07)
タグ:哲学 ケア
カテゴリ その他
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