語感トレーニング 日本語のセンスをみがく55題
中村 明
言葉というものは不思議な二面性を持ちます。細部に至るまでのキメの細かいルールにのっとって用いられる厳格な面もあれば、あいまいな部分や流行によって変化するという柔軟な一面もあります。とりあえずは文法に従って定型的な表現をしていれば、ある程度の意思伝達は可能になります。しかしながら言葉には奥行きの深さがあり、機械的な意思伝達に留まらないことは私たちも知っています。ちょっとした単語の選択や使いまわし1つによって同じ意味でも微妙なニュアンスの違いが生じます。またそれにより言葉を受け取る相手方が受ける印象が違ってくるから不思議でもあり、また難しくもあります。
私たちが日常何気なしに使う日本語という言語も、その使い方がうまい人とそうでない人がいますが、それは言葉を選ぶセンスによりその違いが出てくると説明されます。同じ意味の言葉を話しても(書いても)細かいニュアンスまで正確に伝えることができたり、こちらの心情を理解してもらえたらと願うと同時に、最低限誤った言葉の使い方をしたくないと考えます。
本書の目的は、そういった言葉の選択を的確にするトレーニングや意識付けであるといえましょう。堅苦しい感じはなく、クイズ番組を見ているような気軽な気持ちで読み進めることができるところに著者のセンスのよさを感じてしまいます。単語、文、文章をセンスよく使える人は作品全体にもセンスのよさがにじみ出てくるようにも思えます。
筆者は「言葉のにおい」という表現を使いますが、言葉を生き物として捉えておられるのがわかります。生き物である以上、それぞれの言葉には性別や年齢もあれば性格まで持ち合わせていることを教えられました。
社会で生きる私たちにとって自分の考えていること、感じていることを相手に正確に伝えるということはよりよく生きる上でとても重要な事柄です。言葉のトレーニングにより語感が高まり、的確な表現が身につけば素晴らしいことです。
日本語がこんなにも豊かな言葉であったことに感動を覚えました。正しく使ってみたい言葉です。
(辻田 浩志)
出版元:岩波書店
(掲載日:2011-12-13)
タグ:コミュニケーション 言語 語感 トレーニング
カテゴリ 人生
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繁盛する治療院の患者の心をつかむ会話術
岡野 宏量
この書評をお読みになるような方々には賛否両論の内容であるかも知れない。
「治療技術がよければ患者は来てくれる」は大きな間違い、という切り口。サブタイトルが「儲かる治療院がやっている接遇・コミュニケーションのコツ」ということで割り切って読むことで治療院が稼ぐための手段、技術になると思う。
治療院の会話の目的は? と聞かれたとき、さまざまな答えがあるかも知れない。本書では会話の目的を一貫して「患者さんに通院してもらうこと、リピートしてもらうこと」として施術時の会話の基本、共感と信頼を得る話し方、ニーズを聞き出す質問方法、患者との人間関係の築き方について伝えている。
治療技術があるなしにかかわらず乱立する接骨院、治療院。治療家の数が少ない時代は、治療家は「メーカー機能」だけを持っていれば十分だったのが、治療家の数が増えてきて、どこでもそれなりの治療ができるようになると「販売機能」が必要になってくる。そして治療家には信頼されるため治療以外の勉強も必要になってきている。
コミュニケーション下手、会話がうまくできずに困っている治療家の方々は本書を読むことで成功につながるかもしれない。
(安本 啓剛)
出版元:同文舘出版
(掲載日:2012-02-15)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ 人生
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叢書 身体と文化
野村 雅一
1996年8月、まず第2巻『コミュニケーションとしての身体』が刊行され、1999年に第1巻『技術としての身体』が刊行されたが、第3巻『表象としての身体』(写真)がついに今年7月に出て、全3巻が完成した。野村雅一、市川雅、菅原和孝、鷲田清一氏らが編集、執筆は数多くの研究者らが担当している。
ほぼ10年前からの仕事である。96年というのは阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こった翌年、身体や精神、信仰などへの関心が高まった頃でもある。とくに阪神淡路大震災では、わが身のみならず、互いの「からだ」を思いやる状況が自然に生まれ、生きているからだをいつくしむ気持ちの一方で、「透明なぼく」という表現は身体のありかが不明になっている状態も示していた。この時期から、「身体論」が多く世に出るようになった。
この叢書では、第1巻で人間の感覚の様態そのものから身体技術のさまざまな断片とそれらの社会的・文化的な意味について、第2巻で社会・文化的脈絡のなかで身体がおびるコミュニケーションとしての働きとそれを構成する秩序と構造について、第3巻でさまざまな文化の中で身体がどう解釈され表現されてきたかについてそれぞれ解明・検証している。
総じて論じるのは無理があるが、読者は今生きている私の身体を取り巻くものがあまりにも多く、深い層からなっていることに気がつくだろう。楽しみつつ考えつつ、読んでいただきたい。
野村雅一ほか編
第1巻:1999年6月1日刊、第2巻:1996年8月10日、第3巻:2005年7月1日刊、各4,200円
(清家 輝文)
出版元:大修館書店
(掲載日:2012-10-10)
タグ:身体 文化 コミュニケーション 技術
カテゴリ 身体
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間の取れる人、間抜けな人 人づき合いが楽になる
森田 雄三
「コミュニケーションが大切だから」「もっとコミュニケーションを取って」云々という言葉をよく耳にするのは私だけではないだろう。が、そもそも世の中で大安売りされているこの“コミュニケーション”とは一体何だろう? ただ単に“会話”や“対話”と同じ意味で用いられているような場合も少なくないのではないだろうか?
試みに辞書でcommunicationという単語を引いてみる。「伝達、通話、文通、交通」といった意味がずらりと並んでいる。さらにその語源をインターネットで調べてみると(これもまた現代ならではの“コミュニケーション”ツールである)、「分かち合う、共通の」もしくは「交わる」といった意味のラテン語が元になっていることが分かる。すなわち、communicationとは本来、双方の認識を共有しそれらを相互伝達する(しようとする)ということにほかならないわけで、そう考えると別個体のヒトの間でそれを成し遂げようとすることがいかに難しいことか、安易なフレーズの中で乱発していい単語かどうか、ということまで改めて考えさせられてしまうのである。
本書は「間」というものを1つの切り口としながら、ともすればステレオタイプ化しがちなその“コミュニケーション”というものの捉え方に対してプロの演出家がさまざまなアンチテーゼを示してくれる一冊である。曰く、「コミュニケーションとは本来、言葉にしにくいもの」「コミュニケーションは沈黙をメインとした空気のやり取り」といった身も蓋もないような小見出しをはじめ、間や沈黙に腰を据えることや小さな共同体の中で分を知ることなど、現代ではネガティブなものとして避けられがちなこれらの要素こそがコミュニケーションの真の要であるということを、素人をたった4日間の稽古で舞台に上げてしまう自らのワークショップや、盟友イッセー尾形氏の一人芝居を例に取りながら具体的に解説してくれている。
コミュニケーション、コミュニケーションと安易に口にするなかれ。…などと自らを戒めながら、文字通りの「コミュニケーションのプロ」による著作に触れてみるのも秋の夜長にはいいのではないだろうか。
(伊藤 謙治)
出版元:祥伝社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:間 コミュニケーション
カテゴリ その他
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他人を許せないサル
正高 信男
最近「ガラケー」という言葉を初めて聞きました。「ガラパゴス携帯」の略語だそうで、他の地域とは独自の進化を遂げた動物が多く生息するガラパゴス諸島をもじり、他国にはない日本独自の進化を遂げた携帯端末のことを言うそうです。どうして日本の携帯電話だけが世界から孤立したような携帯電話ができたのか? 本書では日本人の持つ独特の社会性や対人関係を分析することにより、私の疑問を解消してくれました。元々は通話をするための機械を持ち運びできるようにしたものだったのが、メール機能がつき、カメラまでがついたと思ったら、インターネットやテレビ、果てはクレジットカードの役割まで付いた生活必需品にまで昇華しました。そのニーズは日本人独特の社会観にあると指摘します。
日本人の社会観の源流は「世間」という単位であり、それが農業共同体から発生したものであり、世間では横並びの平等という欧米にはない独特の価値観をもつといいます。また所属する人々は世間の中で「ぬくもり」や「ふれあい」を得ることにより安心感を見いだすという日本人独特の情緒もふまえて的確に表現しています。中でもマルクスがこういう風土を「アジア的生産様式」とう表現したというくだりにイデオロギー的な興味を覚えました。
ITという新しい表現環境にあって、そこで構築された社会は皮肉にも古来の農業共同体から発生したコミュニティーと同質の「世間」であり、それを「IT世間」と名づけ日本人の昔とかわらない社会性、さらにはそこに属する個人の心理にまで言及しています。
このような昔ながらの価値観を持つ日本人の間で急速に広がった携帯電話を中心としたIT世間における弊害も具体的に指摘はされていますが、やや強引な印象を受けてしまいました。携帯やインターネットなどのオンライン上でのコミュニケーションに振り回され、支配されているとの指摘には納得できる面も多いのですが、戦後の日本人において変化しつつある社会性や価値観などその他の原因についても考えるべき点もあるのではないかとも思うのです。
それにしても日本独自の進化を遂げた携帯電話。使いこなしているのか? あるいは使われてしまっているのか? 自問自答せずにはおられません。また掲示板・ブログ・チャット・SNS・プロフ、最近ではツイッターに至るまでオンライン上でさまざまな情報伝達やコミュニケーションの手段が生まれました。われわれはそこで何をしたいのか? あるいは何を求めるのか?
もう一度見直してみたくなりました。将来のコミュニケーションについて考えさせられる一冊です。
着眼点の面白さ、目まぐるしく進化を遂げるIT技術の中でも昔と変わらない日本人の気質、流れる川の中で木の葉の行方を見ているかのような話の展開。一気に読んでしまいました。
(辻田 浩志)
出版元:講談社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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聴き上手が人を動かす
清水 隆一
多くの人は上司や指導者といった立場の人から、経験や価値観を考慮しない「押しつけ」をされたことがあるだろう。私自身もそうした経験談をよく耳にする。
本書では「観る」「聴く」「行動を促す」を「人を動かすための三つの法則」と位置づけて、部下や選手、子どもたちに「押しつけ」の指示を与えて管理するのではなく、「意欲を引き出して、能動的にし、創造的でチャレンジ精神旺盛な人を育てること」へとつながるコミュニケーション法を具体例とともに紹介している。
私自身も、後輩・部下として上司や先輩の指導を受けた経験があり、最近はトレーナー・上司として選手や後輩の指導に当たることもある。それぞれの立場で相手に対して「なんでこの人は?」と疑問や不満を感じることも少なくない。
本書の内容を実践し、上下関係に限らず周囲とのコミュニケーションを改善するための手引きとしたい。
(西澤 隆)
出版元:ベースボール・マガジン社
(掲載日:2012-11-02)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ 指導
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「言語技術」が日本のサッカーを変える
田嶋 幸三
監督としてU-17日本代表を率いていた田嶋氏。海外のサッカー代表チームの立ち居振舞いを見て「瞬時に『勝負あった』と思ったとある。この強烈な危機感から、エリート教育の場を用意するという構想が生まれた。
本書はJFAアカデミー福島設立に向けてどのような試行錯誤が行われたか、またそこで行われている教育内容と、自立に向けての寄宿舎生活、その生活の中で自分の考えを論理的に表現する能力を養っていく様子をまとめている。なお、こうした若手育成で得られたヒントは、S級までの指導者向けライセンス認定のカリキュラムの中に、言語技術学習として導入されている。このような長期的視野に立った選手育成は、最終的には日本のサッカーそのものを育てていくことにもつながってくる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:光文社
(掲載日:2008-01-10)
タグ:サッカー コミュニケーション
カテゴリ 指導
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子どもを輝かせる スポーツコミュニケーションスキル
山口 文子
本書で最初に出てくるのが「親の仕事とは」「指導者の仕事とは」である。叱ることと怒ること、またヘルプとサポートの違いについて触れながら、子どもがスポーツにおいて輝いていくためにはどのような姿勢でいるのがよいかが書かれている。選手や子どもたちが主役であることが一貫したメッセージとなっている。白井一幸氏(元日本ハムファイターズヘッドコーチ)との対談では、実体験に由来する深みのある言葉が出ている。また、著者が全力で聴く姿勢でいることもわかる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:体育とスポーツ出版社
(掲載日:2008-06-10)
タグ:子ども スポーツコミュニケーション
カテゴリ 指導
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世界をさわる 新たな身体知の探究
広瀬 浩二郎
皆と同じことで勝てるか
科学的トレーニングの目的の1つに“効率がよい”ということがある。一言で(誤解を恐れずに)言うならば“近道を探す”ということである。しかしながら、近道ばかりで成功する者がいた試しはなく、逆に、遠回りのように見える地道な基礎練習が実は効率的だったり、遠回りをしたからこそ今の成功が…、ということはよく聞く話である。
また、トレーニングが科学的であるためには実証的な数値や理論に基づいていることが求められる。そして、それが多くの人に当てはまり、誰にでも理解できる“言葉”でつづられていることが重要である。しかしながら、どの教科書を見ても書いてないとか、教科書に書いてあることが現場で直接応用できた試しなどないとか、カリスマが出てきて“ブワーッとやれ”と言われたらみんな納得したとか、という話もよく聞く(ような気がする)。
そもそも、皆と同じこと(教科書に書いてあること)をしていて未踏の境地へ達することなどできるはずないし、加えてこういう人はまた“○○ならでは”、“○○だからこそできること”という考え方(この“○○”には“天才”とか“最新機器”などといった有利な言葉だけでなく“地理的に不便(イナカ)”とか“胴長短足”といった、どちらかと言えばハンディキャップとしてとらえられる事柄も含む)ができる人なのである。
このような、科学的理論(一般性)と現実的課題(個別性)に加え、競技力の向上ばかりでなく“人としての成長”などといったさまざまな価値観も現場には導入されてくるから話はややこしくなる。そしてまた、このようなジレンマがあるからこそ現場は面白いのだ(と思いたい)。
「触常者」という、とらえ方
さて今回は『世界をさわる 新たな身体知の探究』である。
編著者の広瀬浩二郎は、国立民族博物館の准教授(日本宗教史・触文化論)で、「視覚に頼らない知的探求の手法として『さわる文化』の可能性を追求、提唱」し、「ユニバーサル・ミュージアム」構想の実現を試みている人である。
一般に博物館とは、「なかなか行くことができない海外の珍しい事物、先人の業績、あるいは肉眼ではとらえられない体内や宇宙の様子などを『目に見える形』で紹介する」ことが主な目的であるのに対し、「ユニバーサル・ミュージアム」とは「ユニバーサルデザイン」の「誰もが楽しめる博物館という意味」である。ひとつの特徴として「さわる」展示を行い、「聴覚と触覚の復興をめざして」いる。「視覚優位の現代社会にあって、あえて“さわる”にこだわることによって」「世の中には『さわらなければわからないこと』『さわると、より深く理解できること』がたくさんある」ことを理解することに眼目が置かれているのだ。
広瀬は「視覚障害者」を「『視覚を使えない』弱者」とはとらえず、「『視覚を使わない』ユニークなライフスタイル」を持つ者「触常者」としてとらえている。対して、視覚を持つ者のことを「見常者」と呼んでいる。言い得て妙。冒頭で、「時に触覚は言語を超えたコミュニケーションのツールとなる」と表現されていることには深く共感した。しかもそれを表現するには“言葉”で言い表すよりほかないという、相反する作業を同時にこなす知力には脱帽した。
本書の中で「さわって楽しむ宇宙の不思議」を担当した嶺重慎(天文学)の言葉が印象深い。「今、『業績』とか『効率』とかいうことばが、社会にあふれています。そこでは『数』がものをいいます。しかし、『数』にとらわれると、目の前にいる『一人の人』が見えなくなります。目の前の人が見えないと、自分も、見失ってしまいます。私たちの行っている活動は、今の社会の価値観に逆行しているようですが、一人ひとりの魂と向き合い、大切にし、ともに感じる感性を育む活動は、時間がかかっても、確実に世に広がっていくものと思います」。
この言葉は“体育”の現場でもそのままあてはまるものとして、常に念頭に置いて一人ひとりの学生と向き合っていきたいと思う。
(板井 美浩)
出版元:文理閣
(掲載日:2015-02-10)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ 身体
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感じがいい「そのひとこと」の言い方
今井 登茂子
特別なことではない、ごく常識的かつ基本的な「そのひとことの言い方」というものが乱暴だったり、あるいは忘れられてしまったりすることで、コミュニケーションがうまくいかないことがある。「そんなときどう言ったらよいのかわからない」という人のために、コミュニケーションのプロが著した本。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:講談社
(掲載日:2000-07-10)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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その気にさせるコーチング術 コーチと選手のためのスポーツ心理学活用法
高畑 好秀
「スポーツ心理学」を活用して、コーチと選手のコミュニケーション、意識改革、実力を発揮させるための環境づくり、試合中の心理作戦、あるいは選手のこころのケアまで、幅広い内容をテクニックとして著した。これらに付随して、最近注目されつつあるスポーツ(メンタル)カウンセリングについても触れられている。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:山海堂
(掲載日:2001-05-10)
タグ:コミュニケーション スポーツ心理
カテゴリ メンタル
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科学コミュニケーション 理科の〈考え方〉をひらく
岸田 一隆
科学的な知識を身につけることが容易な人と、そうでない人がいる。そして、理系と文系の間には深い溝があるというのである。筆者は、物理学がなぜ難しいのかについて、日常感覚でとらえることが難しいほど高度に抽象化されているためであると言う。そして科学は蓄積によって進んでいくために、前提となる知識が膨大になってしまっていることもある。ここに科学コミュニケーションが求められる理由が浮かび上がってくる。本書では、共感・共有の科学コミュニケーションを実現するために対人コミュニケーションの力とエピソードの力を総動員して伝えることの大切さと、その方法について丁寧に言葉を重ねている。
ここで指摘されていることはスポーツ医科学の分野においても当てはまる部分がある。むしろ筆者としてはサッカーの指導に学ぶところがあると述べている。知っている側からの押し付けにならず、知りたい側が自発的に知識を得るためにはどうすればよいかという模索は続くようだ。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:平凡社
(掲載日:2011-11-10)
タグ:コミュニケーション 指導
カテゴリ その他
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心が揺れがちな時代に「私は私」で生きるには
高尾 美穂
この本を手に取る方は、きっとこのタイトルに答えを欲していると思います。産婦人科医でスポーツドクターで産業医で、ヨガの指導者という多くの肩書をもつモヒカン医師、高尾美穂先生がコロナ禍で始めたラジオ「高尾美穂からのリアルボイス」にて配信した内容をまとめた一冊。
・「私らしい私」をつくるには?
・つらい気持ち、不安とどう向き合う?
・こんなコミュニケーションが望ましい
・女性の体について知ってほしいこと
・人には聞けない性の悩みに答える
・これからの家族とパートナーシップのあり方
・人生とキャリアの歩み方
・私が人生でしていきたいこと
・高尾美穂から「妹たちへ」
と、9つのチャプターに分けて様々な質問に答えたり、アドバイスをしたりしています。
女性のココロとカラダを熟知した先生の言葉は、多様性やジェンダー問題が問われるこの時代の人生にとって、ちょっとしたヒントになりました。私自身の不安や悩みだけでなく、仕事上、相談を持ちかけられることも多々あるので、答え方や言葉の選び方という点で、非常に勉強になった一冊です。
(山口 玲奈)
出版元:日経BP
(掲載日:2022-02-25)
タグ:女性 身体 コミュニケーション 性
カテゴリ 人生
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聞く技術 聞いてもらう技術
東畑 開人
ひとの話を「聞く」ということの難しさ、に悩むひとは多いのではないか。ではまず「聞いてもらう」からはじめたら? というのが著者の提案。なぜなら「聞く」は「聞いてもらう」に支えられている、話を聞けないのは、話を聞いてもらっていないからだという。
印象に残ったのは、孤独と孤立の違いに関しての部分。孤独は、心の中に部屋があるとして、そこに内から鍵をかけ、ひとりになれる空間を持つこと。たいして、孤立というのは、その部屋に、嫌なひと、怖いひとがひっきりなしに入ってくる状態をいう。孤独には安心が、孤立には不安がある。ひとは孤独になってはじめて、ひとの話を聞くこともできる。
話す、聞くというのはとても日常的な行為だ。しかし、だからこそわからなくなる。
ケアというのは圧倒的に民間セクターの割合が大きいという(ヘルス・ケア・システム理論,クラインマン)。しかし、民間の世間知だけで対応できないものもある。そういったとき、専門知を持つ専門職のひとが、そのひとが今どういう状態かということを見立てることで、周りもそのひとに配慮することができる。
あるアメリカの先住民の間では、悩みや悲しみを周りに話せる状態は正常、ひとりで抱えるようになると病気とみなされるらしい。
とくに一緒にいることが多いひとのことは、話さなくてもわかっている、と思いがちだ。毎日顔を合わせていると、だからこそ見えなくなってくる部分がある。
話を聞いてもらうこと、聞くこと、その塩梅に正解はないかもしれない。でもとにかく、身近なひとが気になったら「なにかあった?」と声がけすることを大切にしたい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-11-15)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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他者といる技法 コミュニケーションの社会学
奥村 隆
昨今の“グローバリズム”というのが大変難しい概念に思えてならない。ロシアによるウクライナ侵攻はじめ、昨年度にはイスラエルによるガザ地区への過度な攻撃などの世界各地での争いごとや、毎年生まれる新たなエンタメ作品など、我々は長方形の片手サイズの電子機器を通して見聞きする。加えてどこかの国の大手エンターテインメント会社の会長のスキャンダルが自国のメディアではなくBBCの報道により世に広まるというお粗末な世界線も存在していた。
そんな一個人の身体を大いに飛び越した情報の濁流にのまれることにより暇がない日々を送っている現代人にとって、今一度“コミュニケーション”について考えるというのはそこまで無駄な営みではないように思える。どれだけ長方形の電子機器とにらめっこしていても、目の前にいる生身の”他人”との時空間の共有は避けられない。まぁbitの単位としての“他人”という存在もあるが、どちらにせよ“他人”っていうのが生きていくうえでは厄介にならざるを得ないのは、これを読んでいるあなたにも理解できるだろう。
しかし“コミュニケーション”と一口にいっても様々な文脈がある故、いまいちピンとこないと思っていた矢先に今回題材とする本書を見つけた。
本書は序章~第六章構成となっている。
第一章では、「思いやりとかげぐちの体系としての社会」というテーマで、社会の「原形」をモデリングし、その中で起こる困難さを描いている。奥村は存在証明という視点から、他者による承認の体系を論じそこから派生せざるを得ない葛藤の体系を描出する。この「承認と葛藤の体系としての社会」を「原形」とし、この「原形」が抱える問題を解決する体系として、「思いやりの体系」を論じる。しかし「思いやりの体系」も同様に体系自身が作り出してしまう問題があり、それを解決するために「かげぐちの領域」があると展開する。このような「承認と葛藤の体系としての社会」というモデリングを基点とすることの良し悪しを大局的に描いている。
第二章では、「『私』を破壊する『私』」というテーマで、第一章に引用していたR・D Laignの統合失調症についての議論を用いて、「存在論的不安定においての他者による承認によってもたらされる“危機”に対する戦術」について論じられている。そこからそもそも「存在論的不安定」な状態に置かれるコミュニケーションパターンとは何かという問いから“家族という存在”について展開していく。
第三章は、「外国人は「どのような人」なのか」というテーマ。“異質性”を前にしたとき私たちはどのような「技法」を身につけているのかという問いから始まる。朝日新聞と週刊誌の記事から「外国人─女性労働者・留学生、就学生」というジャンルで分析をし特徴を紹介した後、それらから抜き出せたマスメディアのラベリングの特徴を「客体−主体・ネガティブ−ポジティブ」のマトリクス表で整理。そこから「異質な他者のまま」その”主体”と向き合う技法は何かと展開していく。結語としては、その技法が何かはマスメディア分析では見つからなかったが、考えていくべき対象であることには違いないというものだった。
第四章、「リスペクタビリティの病」は、社会学者ブルデューの高級ホテルでの振る舞いから見る階級別の特徴から、中間階級の病である「いまある私」と「あるべき私」のズレを論じた話を、同じく社会学者のホックシールドの「The managed mind」の感情管理における「表層演技」「深層演技」に繋げて、「リスペクタビリティ(きちんとしていること)」から陥る病を繋げて論じるというダイナミックな展開であった。また、リスペクタビリティのもう一つの病として、リスペクタビリティを他者に強いることを挙げ、歴史学者のMooseがナチズムと関連づけて展開しているものを引用していた。
第五章、「非難の語彙、あるいは市民社会の境界」では「自己啓発セミナー」に関する週刊誌の記事分析から我々の持つ技法と「社会」を編成する様式を検討するというものであった。セミナー記事の語彙分析から、「過剰な効果」として非難する傾向と、「過小な効果」として非難する傾向を見出した。それらを踏まえて、現在の「私」をつくる技法が「コントロール不可能性」を基軸とするのか「コントロール可能性」を基軸にするのかという問いを考察する展開があり、「市民社会」という概念を巡るエリアスの議論を用いて「コントロール不可能なもの」を処理する空間についても考察していた。最後に「自己啓発セミナー」に対する非難の性差について言及していたが、データの偏りや不十分さからあくまでの仮定の話をしたに過ぎなかった。
そして第六章。「理解の減少・理解の過剰」。「他者といる技法」というタイトルを見て購入を検討した人はこの章を読めば満足できるだろう。「他者と共存することはいかにして可能なのか」という大きな問題を「理解」という技法に限定して展開している。議論のたたき台としてアルフレット・シュッツの「理解」についての構図を紹介した後に、他者を理解することの構造や「理解の過小・過剰」による苦しみ、それらと「暴力」「差別」の関係を考察していく。その過程で他者と「共存」するためには「理解」という技法にとらわれず別の技法、「わかりあえないままいっしょにいるための技法」について検討する必要性を論ずる。そして最後その技法について述べていく。
大まかな構成はこのような感じだ。各章はそれぞれ独立した文章を基にしているため、どこから読み始めても問題はない。筆者のコミュニケーションにおける大局的な視点が十分に盛り込まれている書籍となっている。
各章毎に疑問に思ったことや言いたいことはたくさんある。しかしこの世の中は各個人毎の欲望で成り立っているわけではないことはあなたも重々承知だろう。
各章の外面を書きだすだけで一杯になってしまった。そこで最後の悪あがきとして、第六章で「わかりあえないままいっしょにいるための技法」として筆者から提示された、「話しあう」について思ったことを垂れていく。
筆者はこの技法は、「いま『理解がない場所』にお互いがいることをはっきりと認めることなしに始まらない」(p294)と述べる。これを前提として「話しあう」というのはある2つで構成されているという。
1つは「尋ねる・質問する」。これは「わからなさ」に付き合っていこうとするときにのみ開かれる。もう1つは「答える・説明する」。これは相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか始まらない。この2つで構成されている「話しあう」は、わかりあうという「理解」を進めるための時間ではなく、「わかりあわない」時間の過ごし方についての技法であると筆者は述べる。
「わかりあわない」というのは「他者」を「他者」のまま発見するという回路が開かれているというもので、居心地は良いとは言えないがたくさんの発見や驚きを与えてくれるとも述べていた。
本書は「他者といる技法」をビジネスライクに呈示する易しいものではなく、我々が普段何気なく行っているコミュニケーションパターンを概念を通して再認識かつ再検討していく構成となっている。そしてその過程でいかに我々が「理解」という技法に固執しているか。というのが本書の核心であり、そうでない技法について考えていく土台となるような意図が込められている。そのため、タイトルに吸い付いた私みたいな輩は「話しあう」というのが展開されたときポカンとするだろう。
しかし、コミュニケーションというのはそんなものなのかもしれない。私と他者の間に何か強力な装置をおいて進歩していくものではないのだ。
本書でも述べられているように、「理解」における“原理的”な基準と、“実践的”な基準は全くもって異なる。アルフレット・シュッツが言うように、コミュニケーションは原理的には不可能だが、実践的には不都合がないのだ。だからこそ「わかりあえなさ」を忘れて「理解」の沼にとらわれてはいけないのだ。私と他者の間の谷は大股で跨げるようなものではないのだ。それを数百ページにわたってちゃんと考えさせてくれる書籍であった。
(飯島 渉琉)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2024-05-14)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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他者といる技法 コミュニケーションの社会学
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運動部顧問・スポーツクラブコーチのための ベストパフォーマンスを引き出すコーチ力
高畑 好秀 小林 雄二
少しずつスポーツの世界が変わろうとしています。選手だけではなく指導者も環境も変わりつつあります。パフォーマンスの向上や試合に勝つという目的のためという理由は変わらないのかもしれませんが、選手と指導者の関係の変化が本書の根底にあるのではないでしょうか。むかしは「師弟関係」という主従関係に近い関係性がスポーツにも持ち込まれ、鍛錬(練習)のみならず、考え方までも弟子に継承するという日本古来からのシステムから、合目的的な観点から組織をマネジメントするという関係性にシフトチェンジしつつあります。さらにスポーツ医科学の発展が必須要素となった現代では座組を変えざるを得ないところまで来ているように見受けます。
さて本書は冒頭で指導者の意識改革を声高に訴えていますが、これは逆に30年40年まえの意識で指導されている方々の多さを表しているのでしょう。スポーツの世界だけではなく指導者は自身の経験があり、それにのっとった指導をされるのがフツウでしょう。しかしながら現役の選手の意識や考え方、技術的な変化、医科学の発展などが変化する以上アップデートができないと多くの面でギャップが生まれます。筆者の考え方は今風の考え方を取り入れるというよりも根底から変えるくらいの意識改革を訴えておられるように感じました。
チームのコンセプトを明確にし全員で共有すること第一に挙げられていますが、特定の一部の選手を育てるという発想と真逆の考え方です。おそらくそういった考え方を具現化するためにコミュニケーションの取り方を細かく解説しているようです。自分の常識が他の人に当てはまらないのが前提となります。考え方が違う人間が多数集まったチームという集団を、同じ方向、同じ考えに導くコミュニケーションはきめが細やかです。驚いたのは寝坊でよく遅刻をするプロ野球選手と話し合ったら、目覚まし時計を使えばいいという結論に至ったというくだりがありました。プロ野球選手といえば最高レベルのアスリートになりますが、そんな人でも目覚まし時計に意識が向かなかったというのは笑えないお話です。スポーツの能力が高くてもそれ以外の意識が低いなんてことはありがちなのかもしれません。意思の疎通は徹底的にやるという筆者の執念みたいなのを感じました。それでいて長い説教はしない。自分の意見を押し付けない。むやみに相手を否定しないなど会社の管理職の人にも読んでいただきたい内容です。
このような接し方を基礎にして選手のモチベーションを上げたり、間違っているときは叱ったりと、これからの時代の指導者は大変な役割を担います。「黙ってオレについてこい」では選手がついてこない時代にお嘆きの指導者もいらっしゃるでしょう。今や指導者が先頭に立って引っ張っていくのではなく、時には先頭に立って時には選手の輪の中に入って、時には最後尾から選手を押して支える。八面六臂の活躍を要求される立場に変わってきたのかもしれません。
(辻田 浩志)
出版元:水王舎
(掲載日:2024-09-04)
タグ:コーチング コミュニケーション
カテゴリ 指導
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