近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 今福 龍太 西谷 修
スポーツ史、文化人類学、哲学というそれぞれ異なる分野から、スポーツの果たしてきた役割について語り合うもの。複数回のシンポジウムでの発言をもとに書籍化している。メディアとの関係性、世界情勢の影響をどのように受けるかなどが立場が違う分、広がりを見せている。
「近代スポーツは、すでにその役割を終えているのではないか」といった指摘もあり、興味深い。エッセイ的なコラムや、各人の思い出として語られた部分から、考える手がかりは身体そのものにあるということが読み取れる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:平凡社
(掲載日:2010-01-10)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
e-hon
「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
渥美 一弥
身体運動の文化的側面
人が生活していく中で行う身体運動には、いくつかの側面がある。
一つには、生命を維持するための行為で、ひとまずここでは “自然(nature)的身体運動”と呼ぶ。もう一つには、人々が構成する“社会”の慣習が反映された中で成り立ってきた側面があって、ここではこれを “文化(culture)的身体運動”と呼ぶこととして話を進めたい。
たとえば、食物を摂取するという行為。これは、食物を咀嚼したり、嚥下したり、消化・吸収(これは運動というより活動か)するなど、“経口的に栄養物を摂取する”という行為そのもので、命を保つために必須の“自然的身体運動”であるといえよう。
しかしこの“食物摂取”という表現を“ご飯を食べる”という表現に変えてみるとどうだろう。何を、どのように(調理して)“ご飯”として食べるのか、さらにその“ご飯”をどうやって(行儀や作法)食べるのか、などということが加味されてくると、話はややこしくなる。それはもはや“生命維持”のためだけでない、なにか別の価値観が加わった“文化的身体運動”ということになり、挙句は、ご飯の食べ方が悪い(つまり、お行儀が悪い)と“親の躾がなっていない”などと、本人ばかりでなく親まで引っ張り出され罵倒される(“社会”の最小構成単位は“家庭(家族)”だからだ)顛末となる。
身体運動に現れるもの
では、“歩く”、“走る”、“跳ぶ”、“投げる”といった身体運動は、どちらに分類したらいいのだろう。
何かに驚いて飛び退く、あるいは危険から身を護るため走ったり跳んだりして逃げる。これは、自然的身体運動だろう。では、狩猟という行為はどうだろう。獲物を捜し歩き、走って追いかけ、石を投げて仕留める。これは原始の社会では命を支えていくための行為ではあるが、狩猟の背景には文化の気配が濃厚にある。次に、歩きながら種を蒔くなど農耕に関する身体運動、これはどうか。これは“culture”の訳そのものだから当然、文化的身体運動ということになるだろう。さらには、スポーツのような身体運動や、踊る・舞う・演ずるといった表現活動は、明らかに文化的身体運動であるといえよう。
このように考えると、人の身体運動はそのほとんどが文化的なものであって、そこには人それぞれの文化的背景が反映されているということになる。換言すれば、身体運動を見れば、その人となりがわかる、つまり“運動には人が出る”と考えることもできる気がするのである。
人が運動する姿には、それぞれの個性が凝縮されて具現化する。たくさんの言葉を重ねるより、走る姿を一度眺めるほうが、よほど深くその人のことがわかるような気がするのである。
このような身体運動の捉え方について、長いこと感覚的には気づいていたものの言葉では考察することができずにいたところ、大きなヒントを与えてくれる人が現れた。
捉え方が変わる
さて、今回は『「共感」へのアプローチ 文化人類学への第一歩』である。著者の渥美一弥は、同じ職場に身をおく文化人類学の教授だ。あ、また内輪の書籍を取り上げているとお咎めの声も聞かれそうだが、仕方ない。面白いのだ。
渥美は、「カナダ西部の美しい森と海岸線に沿って居住する集団(人類学では一般に『北西海岸先住民』と呼ばれる)の一つであるサーニッチの人々の文化復興運動と民族的アイデンティティの関係の研究」を専門とし、長いこと在野で研究を行ってきた文化人類学者である。私たち(いわゆる体育系の人間)とは明らかに異なる文化的背景をもって世の中を眺めている人である。
だから、渥美との会話は刺激に満ちている。
身体運動の捉え方について、感覚的には気づいていたものの言葉で考察することはできずにいたことに、様々な切り口で見るヒントを与えてくれるのである。己の肌感覚だけで分かっていた(と自己満足に浸るしかなかった)ことを“文(章)化”することで、人に伝えることができる醍醐味に気づかせてくれるのである。
さらに言えば、本書を読むと、自然(nature)と文化(culture)という用語が、実はもっと深い意味を持って考察されるべき言葉であったことがわかる。
“身体運動”とは何か、その捉え方が昨日までと変わること、実に愉快である。モノの考え方が変わると、世の中が違って見えるからだ。
“運動には人が出る”ように、“文章には人が出る”。一語一語、噛みしめるように丁寧に綴られる本書には、渥美の人となりが凝縮されているようだ。日頃の付き合いの中で、分かったような気になっていた勘違いを恥じ入るとともに、この人の本質が垣間見ることができたようで嬉しい(これも早とちりかもしれないが)と、本書を読んで思うのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2016-06-10)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
e-hon
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 西谷 修 今福 龍太
一見、スポーツ科学の専門家が科学的な見解から書いている著書だと思いきや、著者は文化人類学者、フランス文学者、外国語大学のスポーツ史学者といった文系の専門家が近代スポーツとその向かう方向性について討論した内容が載っている本であった。
1章は「スポーツからみえる世界」、2章は「オリンピックからみえる世界」、3章は「21世紀の身体」、4章は「グローバリゼーションとスポーツ文化」と、幅広いテーマで語られているが、討論形式である為、各章のタイトル以外にも様々な点について言及されており、読者の世界をどんどん広めてくれる構成といえる。
私は従来、トレーナーとして、また医療従事者として、身体を科学し、クライエントや患者の抱えている問題を解決し、目標を達成させる立場にある。つまり、かなり理系の思考回路をもって人の身体やスポーツを見つめてきた。しかし、この明らかな文科系の第一線級の著者たちは、全く違う考え方でスポーツや人の身体を捉えており、彼らが論じたスポーツや人の身体の世界は、私に新たな考え方を提供してくれた。
とくに、近代化、科学的根拠に裏付けられ過ぎたサイボーグのような近代アスリート、勝ちにこだわり過ぎたことでエンターテイメント性を失った戦略、スポーツが本来持つべきナショナリズムや政治性をはき違えた放映の仕方をするメディア、平和性や安全性を高めすぎた結果のリアリティ喪失について、危機感を持つ考え方は非常に新鮮であった。
本書はスポーツ観戦をもっと楽しむためのアイデアだけでなく、この国のスポーツ産業活性化のヒントを与えてくれている。スポーツに関わる様々な職種(トレーナー、スポーツマーケティング関係者、監督、政治家など)の人にぜひともお勧めしたい。
(宮崎 喬平)
出版元:平凡社
(掲載日:2018-01-15)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
e-hon
はみだしの人類学 ともに生きる方法
松村 圭一郎
ひとをどんな存在としてとらえるか? それが、世界の成り立ちを理解することであり、現在直面している問題を考えることでもある。この問いを出発点にして、本書は始まる。
ひととひとがいれば、そこには関係が生まれる。これを「つながり」とする。さらに「輪郭が強調されるつながり」と「輪郭が溶けるつながり」のふたつに大別する。
文化人類学は、どちらかといえば後者を大切にしてきた、と著者はいう。自分が揺さぶられ、境界線がわからなくなり、自分自身の変容を迫られる。とくにフィールドワークで異なる文化圏に長期参与する場合は、そうでなければ生活できない、と。
他者に開かれていること。自分を維持しながらも、他者との出会いによって新しい自分が引き出され、つい境界線をはみだしてしまうような関係性、それが正しい、というのではなくて、その方が生きやすいのでは? と著者はいう。
細胞膜を、思い浮かべた。細胞膜は半透膜だ。通すものと通さないものが、条件によって変わる。あるいは、膜の一部とともに物質を出し入れしたりもする。その働きによってホメオスタシス、つまり生体の恒常性は維持される。一定に保たれる、というより、ある範囲でゆらいでいる、というイメージの方が近い。細胞は常に外部と接触し、しなやかな境界面を変化させながら、場合によっては異物を内部に取り入れ、途方もない時間をかけて進化してきた。
もし細胞膜が、硬直した構造と機能しか持たなかったら、いきものは存在しない。そんな、ちょっと飛躍したことを考えた。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2022-08-02)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:はみだしの人類学 ともに生きる方法
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
はみだしの人類学 ともに生きる方法
e-hon
二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学
キム テウ 酒井 瞳
2024年が始まってから数カ月が経ち、ほんのりと温かい日差しを肌で感じるようになってきた頃、私はとある身体上の不調を理由に、病院(正確には「診療所」)へと赴くことになった。しかし、病院にまだ向かってすらいないにもかかわらず、私は既に四苦八苦していた。というのも、私は病院という空間が非常に苦手だからである。注射が怖いとかそういった子供じみた理由でないということを予め断っておきたい。基本的には、あの空間に感じる独特な「何か」が苦手なのである。大抵は白だったり薄い水色だったりクリーム色だったりする壁に囲まれた空間、いかにも「ここは衛生的ですよ」と言いたげに清潔感を演出する空間、働いている人みながパリッとしたピンクや黒、多くは白の制服を身に纏っている空間、そして日常生活ではあまり耳にしない語彙が飛び交う空間、あるいは番号がモニターに表示され、それに従って行動する空間、そこに何かしら過剰な同一性を感じるのだ。それは決して「病院」という空間に限ったことではないだろう。学校や会社といった空間も同様に、私としては居心地がよくないと感じている。行ったことはないのであるが、おそらく刑務所といった空間も同様であろう。しかし、病院という空間ほどそれを強く意識させられる場所は他にないと言ってもよいほどなのである。
そんなことをあれやこれやと考えながら病院へと向かう道すがら、ある考えが私を襲ってきた。それは「なぜ病院に行こうと思ったのだろう? なぜ、あそこではなくここ、つまり整骨院や鍼灸院、カイロプラクティックの施術所やその他民間療法と呼ばれる類いの治療が受けられる場所や教会などといった宗教的空間などではなく、他でもないこの『病院』というところに行こうと思ったのだろうか」という考えである。それと共に、なぜ病院はこうなっているのであって、ああではなかったのか、という疑問もあった。つまり、なぜ医師はこのように語り、このような語彙を使用し、このように検査し、このように治療するのだろうかという疑問である。これに対して「それが効果的だと実験で確認されたからだ」と答えることは、この疑問を些かも動揺させないと私は考えている。それについても「なぜそうなのか」と問うことが依然として可能であり、この問題はそっくりそのまま残っているからである。このような説明で満足できるのは、合理的に展開される歴史という一つの神話を前提せずには不可能であるという思いも私を襲っていたのだ。
一度気にかかると歯止めが効かない質である私としては、病院の前についたときも、初診だということで問診票にある空白を一つ一つと埋めていっているときも、受付の方に呼ばれて診察室に入ったときも、医師による早口の説明を聞いた後に検査室に案内されたときも、検査結果と医師の病態把握が説明されているときも、受付で会計を待っているときも、薬が手渡されたときも、常に「なぜああではなく、こうなのか」という疑問が私の頭を埋め続けていた。このときの私を襲っていたのは「歴史の天使」(ベンヤミン)の眼差しであると言ってもよいかもしれない。私はある意味では、過去に目を向けていたが故に、他でもありえたかもしれない現在に思いを馳せていたのである。そのような眼差しを内面化した私に対して、歴史は多くの「謎」をその顔に浮かべながら近づいてくることとなった(大澤真幸)。この問いに対する答えは一筋縄にはいかないだろう。いやむしろ、この問いそのものを問いに付すことさえも必要となるかもしれない。普段、何気なく生活しているときには気にも留めないもの、でも、何らかの機会に顕現し、目線を逸らすことを拒むような何か、それらにこそ注目すべきなのではあるまいか。当たり前とされ、そのことがあるということの偶然性が覆い隠されて不可視になったそれをこそ、問いに付すべきなのではあるまいか。そんな思いに駆られていた。
こういう問いは、これまでにも私の注目を集め続けてきたのではあるが、今回、このような問いに対する一つの語りが世に出たと知り、私はすぐにそれを手に取った。それが本書、『二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学』である。本書は、医療という実践がなされる様々なフィールドへと「旅」を行ってきたキム・テウ氏による旅行の記録、いわば「旅行記」である。旅をするとは、異なる空間に身を置くことである。現地の空気を感じることである。そして、他者に出会うことである。それはまさに、キム氏が述べる「人類学」の営みそのものである。本書が人類学的研究の実践を「旅」と呼ぶのは、そのような意味においてである。それは、他なるものに対する想像力を養ってくれることにもなるかもしれない。
本書の特質は、言葉に対する慎重な態度だと言っても間違ってはいないだろう。キム氏は「語ること」に慎重である。本書の最後に「付言 用語解説、または用語解明」という項目が独立して設けられていることが、そのことを端的に表している。そこでは、言葉と知の繋がりが主題とされている。これは非常に重要な視点だと言って差し支えない。
現代の日本社会においては、西洋近代医学なるものが支配的である。故に、鍼灸に代表される東洋医学的なるものは、どこか怪しい雰囲気を帯びたものとして眼差されている。ともすれば、それは非科学的なものとして糾弾されることもあるだろう。それは、非合理的なものとして扱われることもあり、容易に打ち捨てられることにもなりかねない。しかし、本書はそのように安易に事態を投げ捨てることを拒む言葉で埋め尽くされている。そこには、同一性を追求する実践ではなく、差異に目を向ける実践が積み上げられているのだ。
本書を読むと、医療について問うことの意味の広大さを再認することができる。医療について問うことは、単にそれだけには収まらない射程を秘めているのだ。なぜなら「医療は人間の存在に対する根本的な問いとつながっている」からである(33頁)。医療は、人間の存在論的な土台である身体と繋がり、そこ身体の理解は身体の外にある世界の理解と接続されている。つまり、「さまざまな医療に対する人類学の議論は、各文化が積み上げてきた人間の存在と、世界に関する多様な理解をひも解く機会を与えてくれる」(35頁)のであり、「医療は、健康のための知と行為の体系以上の意味を持つ」のだ(39頁)。このことを理解する機会を提供してくれているというだけでも、本書が「ある」意味は小さくない。そこには、閉じている空間を開くことの可能性が現前している。実のところ「医療のあいだには差異がある」のである(204頁)。近年は、東洋医学の西洋医学的解釈が流行となっている。東洋医学的実践が西洋化されつつあると言ってもよいかもしれない。それは東洋医学的実践を、西洋医学的な語彙でもって語ることである。差異を自ら解体し、西洋的なるものに同一化しようとする動きが活発化しているのだ。本当にそれで良いのだろうかという疑問はありえるが、本書はそのような東洋医学の西洋化に待ったをかける停止線ともなるだろう。東洋医学は、今一度自身の差異に目を向ける必要があるのかもしれない。
そんなとき、「医療が一つでなければ身体も一つではなく、身体につながっている存在も二つ以上なのだ。したがって世界も一つではない。複数の世界で私たちも、また異なるノーマルを実践することができる」と声を上げる本書は良き伴走者となってくれることだろう(227頁)。それは、医学的実践が、必ずしも一である必要はないことを確認させてくれる。同一性の確保に躍起になるのではなく、差異を引き受けることを推奨しているのだ。本書は、アネマリー・モルに代表される「存在論的転回」以降になされた医療人類学的研究の結果であり、「多」へと目が向けられている。医学的実践が一となるとき、それは他の実践を排除することになるだろう。もはや起源の偶然性は忘却され、それだけが唯一の歴史となる。そこにおいては、西洋医学の政治的な全面化が果たされている。本書は、そのような画一化を拒絶し、多様にありうる「異なるノーマル」に目を向けさせる。一ではなく多に目が向けられるとき、医療実践には決定的な変更が迫られることだろう。そのような可能性の追求は、決して意味なきことではない。しかし、注意せねばならないのは、ここでは優劣が志向されているわけではないということである。西洋医学的な視点から東アジア医学を見ることは、ときに植民地主義的な志向性を内包する。本書は、そのような視点を拒絶し、両者の特質を明らかにせんとしているのだ。
同一性から差異へのシフト、優劣の二元対立ではなく、異なる多の体系への志向性、そういったものの可能性が追求されているのが本書である。キム氏の旅行記を読むことで、異なるものに出会い、その空気を感じ、自身の外へと逸脱する機会が与えられる。是非とも読者の皆様にもその言葉を、その語りを感じていただきたい次第である。
(平井 優作)
出版元:柏書房
(掲載日:2024-09-06)
タグ:人類学 東洋医学
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学
e-hon