自分を守る患者学
渥美 和彦
副題は「なぜいま『統合医療』なのか」。著者はヤギを使った人工心臓の実験で世界記録を作ったことで広く知られている。東京大学医学部医用電子研究施設の教授、施設長を歴任、退官後の平成10年に「日本代替・相補・伝統医療連合会議」を設立。現在もその理事長で、平成13年には「日本統合医療学会」を設立し、代表を務めている。
この略歴で、本書のアウトラインが掴めた人もいることだろう。Complimentary and Altemative Medicine(相補・代替医療)という言葉をすでに見聞きした人は多いだろう。長いので通称CAMとも表記される。何に対して相補・代替なのかというと「西洋医学」である。いわば現代の西洋医学以外の医療がCAMになる。例を挙げると、中国・インドなどの伝統的東洋医学、ハーブ、鍼灸、瞑想、音楽、指圧、あるいは手かざしまでも含め、あらゆる医療行為がCAMに含まれる。
著者は、特に日本ではCAMについてあまりにも身近であることもあって、諸外国に比較し、国としての取り組みも国民の意識も遅れている点を指摘している。すでに欧米はCAM導入に積極的で、それが医療費抑制にもつながっている。また、曖昧なものも多いので、研究にも熱心で、効果があると判断されたものをリストし、それについては保険が適用される点も指摘している。
さらにこのCAMにとどまらず西洋医学と伝統医学との融合、「統合医療」を提唱し、「なによりも患者さん一人ひとりに最も適した医療とは何かを指向する道程」を急いでいると言う。医療をもう一度冷静にみる本。
新書判 192頁 2002年3月1日刊 660円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:PHP研究所
(掲載日:2002-04-15)
タグ:代替医療
カテゴリ 医学
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ハーバードの医師づくり
田中 まゆみ
副題は「最高の医療はこうして生まれる」。著者は、京都大学医学部、同大学院などを経て、マサチューセッツ総合病院(MGH)とダナ・ファーバー癌研究所でリサーチフェロー、MGHで内科クラークシップを経験した。
この本、名にし負うハーバードの話と、あまり深く考えないで読み始めたが、どんどん引き込まれ、読んだあとは、「どうも、倫理自体もアメリカに教えられるようになったか」と思った。
ことは医療の話である。「医師づくり」と書名にあるが、書かれていることは医療をどうするかという問題にほかならない。これはアメリカの医療、その教育システム改革の話と言ってもよい。「医師づくり」つまり、教育とその教育を支える理念、またその倫理感の徹底ぶりがすごい。「教授」は権威や権力を振りかざすことなく、教えること、相手が学ぶことを大切にする。患者にはすべてを正直に話す。ミスを犯したら、「私たちはミスをしました」ときちんと説明する。いかなる患者もいかなる理由でも差別されない。その他、様々なことを知っていくにつれ、ここまでやるかと思う。
だが、ハーバードやMGHも過去はそうではなかった。すべては変革の努力の結果である。またよりよい医療を提供する努力が今もなされている。世界一力のある国が医療の分野で何をしているのか、この本は医療関係者にはぜひとも目を通しておいていただきたい。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:医学書院
(掲載日:2002-06-15)
タグ:海外情報 ハーバード 医療 医師教育
カテゴリ 医学
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病院の内側から見たアメリカの医療システム
河野 圭子
著者は、日本の薬学部を卒業後、製薬会社に勤務したのち、ワシントン大学大学院医療経営学部を卒業、病院経営のプロとしてアメリカで様々な経験を積んだ。その経験から書名通りの内容を記したのが本書である。
日本は多くのことをアメリカに学んできた。現在でも、経済や政治はもちろんスポーツでもアメリカが最大の情報源であり、「お手本」にもなっている。
アメリカに偏りすぎるという批判が多く出てきているが、アメリカの医療システムを学ぶことは日本の医療を考えるとき必ず参考になる。「病院の内側から見た」というところがミソで、「医療においてアメリカはどうなっているのか」という疑問を持つ人には、とても面白く、ためになる本である。
(清家 輝文)
出版元:新興医学出版社
(掲載日:2002-12-15)
タグ:医療 アメリカ
カテゴリ 医学
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医学は科学ではない
米山 公啓
医療費抑制の文字が新聞やテレビで頻繁に流れる。「抑制」はわからぬでもないが、「削減」と言われると、必要でも削るというニュアンスが生じ、それでよいのかと思わせられる。その医療費抑制に「科学的根拠」が乏しいものに医療費は使えないという考え方がある。いわゆるEBM、科学的根拠に基づく医療というものである。これに対して首をかしげる人は多い。科学的根拠があるに越したことはないが、それだけで医療は成立するだろうか。そこに現れた本書。いきなり「医学は科学ではない」ときた。新書なので、あっという間に読めるが、医学、医療、科学について、医師でもある著者がかなりはっきりと書いている。「医学という科学的に十分確立できていない、不安定な科学といえる学問では、病気というものを十分にはとらえきれず、それが患者に不安を抱かせるのだ」(第5章医学を科学と誤解する人たち、P.132より)。
医療は患者のためにあるのだが、医学は誰のためにあるのだろうか。
2005年12月10日刊
(清家 輝文)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-10-10)
タグ:医療 科学 医学
カテゴリ 医学
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生老病死を支える
方波見 康雄
北海道空知郡奈井江町の開業医である方波見(かたばみ)医師が書いた本。40年にわたって地域医療に尽力してきた経験を織り交ぜながら、奈井江町による開業医診療所と町立病院の連携による開放型共同利用や自身の老いについての考え方、病気体験などを綴っている。副題は『地域ケアの新しい試み』。
方波見医院では、82歳で亡くなったある患者が残した「子どもを嫌うな/自分も来た道じゃ/老人をきらうな/自分も行く道じゃ」という書を外来待合室に掲げている。本書では、この言葉を紹介したうえで「わたしたちは、世代別に分断された人生を生きていて、うかつにも自分とは違う人生の段階(ライフステージ)を見知らぬふりをして暮らしているのである」と記し、忘れがちな人生の継続性と全体における自分自身の位置づけについて再考を促す。
一読するだけで、方波見医師の患者本位の姿勢とその熱意がひしひしと伝わってくる。“このような医師に診てもらいたい”と思わずにはいられなくなる。
2006年1月20日刊
(長谷川 智憲)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-10)
タグ:医療 地域医療
カテゴリ その他
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貧乏人は医者にかかるな!
永田 宏
過激なタイトルと感じた方がいるかもしれない。しかし日本の未来はもっと過激なものかもしれない。
副題にあるように焦点は医師不足が招く医療崩壊。日本の医師不足は、地方における病院で2000年前後を境に叫ばれるようになり、ここ2~3年では都心部においても医師不足は問題視されるようになった。しかもアルバイト医師が急激に増えている現状がある。
そもそも医師はなぜ不足していると言われているのか。厚生労働省が主催する検討会でまとめられた2005~2006年度の報告書ではこうある。2004年で、医師の勤務時間を週48時間として必要医師数を計算すると医療施設に従事する医師数が25.7万人。それにたいしての必要医師数は26.6万人とある。つまり2004年の時点で9,000人の医師が不足の状態にあるのだ。現場での実感としては数万人不足しているという感覚。だが現時点の結論として(医師の需要の見通しとしては平成34年(2022年)に需要と供給が均衡し、マクロ的には医師数は供給されるという。
本書を読み進めていくと、国が考える医療の問題点は医師不足とはどうやら別のところにあるようである。今医療はさまざまな点で転換期にある。
2007年10月22日刊
(三橋 智広)
出版元:集英社
(掲載日:2012-10-12)
タグ:医療
カテゴリ その他
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医療の限界
小松 秀樹
まず本書を手にとる前に知ってもらいたいことは、この本は医療事故そのものについて語られるものではなく、事故の報道に関する論理について語るものである。
昨今、医療をめぐる事故がメディアで大々的に取り扱われるようになった。それを機に社会の医療に対する態度が大きく変化してきたと小松氏は語るが、それら医療を一方的に非難する社会のあり方についても「人間の死生観が失われた」と危惧する。つまり現代は不安が心を支配し、不確実なことをそのまま受け入れる大人の余裕と諦観が失われたと、この本では書かれている。実際に医療の現場では、こうした社会背景を受けて勤務医や看護師が現場を離れつつあり、現場と患者との軋轢は医療崩壊を招いている。
また現代社会は医療崩壊だけでなく学校崩壊まで叫ばれ、それは根本に、現場だけに原因があるのではないと改めさせられるだろう。今1つの問題に対して、社会はどのような姿勢でいればよいか。
2007年6月20日刊
(三橋 智広)
出版元:新潮社
(掲載日:2012-10-12)
タグ:医療
カテゴリ 医学
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いのちを救う先端技術
久保田 博南
副題は「医療機器はどこまで進化したのか」。冒頭、著者は、「医療機器」とは何か基本的なことが理解されていないと言う。「医療機器とは病院や診療所で使われている機器がその主軸を占めるもの」であるが、「医療機器」という言葉はやっと最近になって一般化したとのこと。法律用語としては「医療用具」と言われる時代が長く、政府が名称を変えたのは2005年4月。また「医療機器」は「薬事法」という法律のもとで規制されている。薬の中の小さな項目ということになるか。妙な話ではある。
さて、著者は工学部出身で、医療機器メーカーなどを経て、現在は医療機器開発コンサルタント。サイエンスライターとして著書も多い。
この本に登場する医療機器は、人命探査装置、心電図、ホルタ心電計、心磁計、血流計、脳波計、脳磁計、痛み測定装置など多数あるが、血圧計、体温計も実はそう簡単でないことがわかる。また、百円玉くらいの大きさのチップを貼るだけで連続して体温が計れるようになったそうだ。これは病気だけでなく、スポーツでも使えそうだ。貼った部分の体温をずっとみることができる。いろいろ貼って運動すると、またわかることも多いのではないだろうか。
多数の装置や機器には歴史もあり、発見もある。「医療機器」という冷たい世界が、何か人間味のある温かい世界に見えてくる。おすすめの一冊です。
2008年9月2日刊
(清家 輝文)
出版元:PHP研究所
(掲載日:2012-10-13)
タグ:医療技術
カテゴリ 医学
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いのちを救う先端技術
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医の倫理と法 その基礎知識
森岡 恭彦
体で育む、体育
体育は“体で育む”と読みたい。そのほうが“体を育む”より生命の根源に近いところに触れられそうな気がするのである。
そもそも人が運動をするのは、そこに“心地よく感じる”何かがあるからだ。競技での成功を目指して、健康のため、あるいは痩身を決意してなどなど、運動やスポーツを行う目的や動機は人それぞれだろう。しかし1つ“気持ちよい”という身体の感覚が、もっと根本的な動機として皆にあるのではないだろうか。
汗を流してスポーツすることだけではない
この“快感”という身体感覚を頼りに、“体で育む”ことのできることは何かと考えてみると、せっせと汗を流してスポーツすることだけが体育の範疇(本質)ではないということに考えがたどり着く。もっと多様な身体活動、あるいはもっと幅広い身体状況の(たとえば何らかの理由により動くことが困難な)人たちを対象にできる可能性が体育にはあって、たとえば“伸びをする”ことや“触れてみる”ことだけでも、体育の授業は成り立つのではないかとさえ私には思えるのである。
体力には限界があり、命にも限界がある。体力をつけるため、あるいは維持するために運動をすることはQOLの向上に望ましいというのを否定するつもりはさらさらないが、人はいずれ老化し、不可逆的な病に罹ることさえある。失われていく機能を取り戻すことに限界はおのずと存在するのである。
しかし、たとえ歩けなくなったとしても、家族と手を握り合うことで、あるいは介護者の優しい手技や言葉に触れることで“気持ちよい”を体感することは可能であろうし、またその身体感覚をとおして互いの“体で”何かを“育む”ことができるのではないだろうか。それゆえ体育とは、命をより積極的に生きるための手助けができるもので、人は命ある限り体育を行うことが可能であると考えることもできよう。
そんなことを考えながら体育教師として日々学生と接しているわけだが、しかしながら“命ある限り”などといいつつ、そもそも何をもって生命の始まりとし、何をもって生と死を区別するのか、あるいはまた、自らの意思を表すことや外界からの刺激に反応できなくなってしまった人、いわゆる「植物状態」や「脳死状態」になってしまった人に“体育”は成り立つのだろうか、実は明確な解答を持つまでに私は至っていない。
ときに求められる厳しい選択
私の担当する学生たちは、いずれ医師となって地域医療の現場に立つ使命を背負っている。場合によって、いわゆる山間へき地や離島と呼ばれている地域で医師一人の診療所に派遣され、村一つ、島一つの命を支えなければならない状況におかれることもある。
医師とは「人の命を直接的に扱う」ことのある職業である。それだけに医師にはとくに「倫理的に厳しさが求められる」のである。「『倫理』(ethics)とは簡単にいえば『人の行うべき正しい道』ということ」であるが、しかし「医学が進歩しその力が増大するにつれて社会に大きな影響を及ぼすようになり、また医学や医療についても国際化が進行してきたこともあって」「倫理は国や民族などで異なっており、特に人々の持つ文化や宗教、国家のイデオロギーなどの影響に左右されていて複雑なところがある」。とはいえ「医療の現場ではしばしば相反する倫理的原則のいずれかを選択しなければならない事態がおこる」のであるから、心して学生時代を過ごしてほしいと願っている。
ともあれ「医の倫理と法」と銘打ってはあるが、生命の始まりや、生と死の境目の話題などは医師だけでなく我々体育を生業とする者にとっても、また一市民の立場でも関わり深いところであり多くのヒントを与えてくれ、一読の価値がある。
なお、著者の森岡恭彦は昭和天皇の執刀医としても知られる。その文体は簡明であるが揺るぎなく、周到に押し進めていく力強さには読後の“心地よさ”を感じずにいられない。
(板井 美浩)
出版元:南江堂
(掲載日:2010-10-10)
タグ:医学 医療
カテゴリ 医学
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医療の限界
小松 秀樹
日本の医療は崩壊の危機に瀕しているという筆者。筆者が主張する問題とは「医療をめぐる事故や紛争の大小」ではなく、「医療自体に対する国民の態度の変化」だという。
医療行為を行う医師に責任があるのは間違いなく事実であるが、社会の側にも問題があることを問いかけている。日本人を律してきた考え方の土台が崩れている。
「死生観の喪失」
「生きるための覚悟がなくなり、不安が心を支配している」
「不確実なことを受け入れない姿勢」
安心・安全神話が社会を覆っているからこそ、患者も医師もリスクを負うことを恐れる。その結果双方の間に軋轢が生まれるだけなく、本当に医療を必要としている人にさえ被害が及ぶ。医療だけでなく、教育問題、社会問題の原因にもつながる内容がリアルに載せられている一冊である。
そもそも「絶対」など存在しないのだ。今生きていることさえ、明日は絶対ではないのである。それを頭でわかっても心で受け止めきれないことが、医療崩壊にもつながっていると言える。医療だけでなく、現代社会に対してのメッセージが込められた一冊に感じた。
(磯谷 貴之)
出版元:新潮社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:医療
カテゴリ その他
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医療の限界
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タイ式マッサージ タイ式伝統医療の理論とテクニック
Richard Gold 医道の日本社編集部
本書はタイの伝統医学のうち、身体的療法(ヌアッド・ボラーン)を取り上げている。
タイ式マッサージの特徴は、手技に足・膝・肘・前腕など術者自らの体の各部位を使う、マッサージオイルなどは皮膚に塗らない、ベッドではなく、床や低い台の上で行う、時間をかけてゆっくりと施術する、身体の治療を通じて肉体・精神・魂のバランスと調和をもたらす、などが挙げられる。
Section 1 ではタイ式マッサージの歴史や施術法に触れ、Section 2 では各部位・各体位・各手技を写真と禁忌の説明付きで詳しく解説し、治療への適用を学ぶことができる。Section 1 は割かれているページ数こそ少ないが、タイ伝統医学による患者へのアプローチ法やその思想について知ることができる。仏教の影響を受けたタイ式マッサージでは「愛に満ちた親切心」「慈悲」「人の身になって感じる喜び」「平静」の4つの神聖な心の境地を表現し、マッサージテクニックの多くは、瞑想やヨーガの実践を容易にするために開発されたという。
Section 2 は実際の手技やストレッチについて触れているが、解剖学などの説明はほとんどないので、全くの初学者が本書のみでマッサージをマスターすることは難しいと思われる。しかし、中級者以上が副読本としての位置づけで、施術の幅を拡げるためには大いに役立つだろう。
(西澤 隆)
出版元:医道の日本社
(掲載日:2013-10-25)
タグ:マッサージ タイ式マッサージ マッサージ 伝統医療
カテゴリ スポーツ医学
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寄りそ医 支えあう住民と医師の物語
中村 伸一
役に立つ機能から離れて
体育とは“体で育む”と読みたいものだと、しばしば本コラムでは述べてきた。体育の本質がそうあってほしいからである。“からだ”で表現し、“からだ”を見つめ、“からだの声”に耳を傾けるといった身体感覚に気づき、人と人との間に“体で”何かを“育む”ということは“体を育てる”こと以上に大切なことだという考えが頭に浮かぶ。いったい何を育むのだろう。それは“愛”であったり“信頼関係”であったり、要するに“絆”を互いの体を通して育むことだ。“からだ”をみつめるということは、“いのち”を見つめること通じることであると思うのだ。
そもそも人が体を動かすのは“心地いい”と感じる何かがそこにあるからだろう。その上に、たとえば競技での成功を目指したり、自己実現のため、健康増進・維持のため、あるいは美容ダイエット(減量)を決意してなどなど、さまざまな動機を乗せて運動やスポーツを実施している人が多いことと思う。そして、それらの運動を安全に、効果的に行うための役割を“体を育てる”体育は担っている。
このような“体を育てる”体育が重要であることは論を俟たないところであるが、この考え方に重きを置きすぎると、何らかの理由(高齢・病気・事故)で歩くことが困難になった人や、あるいは寝たきりになった人に対して“体育”は成り立たなくなってしまう。人の体力には限界があり、命にも限りがあるからだ。
いっそのこと、さまざまな“役に立つ機能”を取り払ってしまい、“心地いい”というエッセンスだけを“体育”の場に残してみると、マッサージをすることや、手を握ること、究極的には近くに身を寄せることだけでも互いの体から発せられる信号を感じ合い、その場に“体で育む”体育が成立するといえるのではないだろうか。
“寄りそう”医師
さて、本書「寄りそ医」である。私の勤める自治医科大学の卒業生、中村伸一の手になるものだ。本学は“医療の谷間に灯をともす”(校歌より)ため、へき地での医療や地域医療を支える目的で、1972年に開設された大学である。中村は、その12期生として卒業し、福井県の名田庄村(現おおい町名田庄地区)の診療所で一人常勤医師として、医師としてだけでなく包括的に村の医療を支え続けている「アンパンマン」である。
専門医が「さっそうと現れて難しい手術をこなす」「かっこいい外科医」のような「ウルトラマン」的存在だとすると、総合医は「人の暮らしに寄りそう地域医療者」であり「医療スタッフはもちろん、ジャムおじさんのような村長やカレーパンマンみたいにパンチの効いた社協局長、メロンパンナちゃんを思わせる看護師や保健師、介護職に支えられる、アンパンマン」的存在だ。しかし、「うまく連携することで両者の特性が、より活きる」ものなのである。
地域の診療所では、患者を「看取る」割合が都市部の病院に比べ高い。しかも「家逝き看取り」の割合が、この名田庄村では全国平均より圧倒的に高い。これは医師の力のみでなく、地域の福祉体制や、住民の意識などの条件がよほど揃わないと叶わないことである。医者が患者を診るという関係より、互いに“寄りそい””寄りそわれる”関係で日々の診療がなされていないと、こうはなりそうにない。
高齢者がガンなどの疾病や老衰により比較的静かに亡くなっていくとき、中村は医師として“医学”的手段を振り回すのでなく、“医療”者として(今は亡くなっている)患者とその家族に静かに“寄りそう”のである。家族もまた中村に“寄りそう”姿は、悲しくも崇高な場面である。
学生(医学部に限らない)という、生身の体を相手にする体育教師の仕事ってなんだろう。やはり“体で育む”体育の場をつくることがまず基本なのだと思う。そしてその基本を実践するためには、“寄りそう”ことがスタートであり、ゴールでもあるような気がしている今日この頃である。
(板井 美浩)
出版元:メディアファクトリー
(掲載日:2012-04-10)
タグ:体育 地域医療
カテゴリ 人生
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武術と医術 人を活かすメソッド
甲野 善紀 小池 弘人
とらわれない発想
私事だが、亡父の故郷に祖父が建てたという一家の墓がある。近くを流れる斐伊(ひい)川の上流だかで手に入れたという大きな楕円の墓石は、およそ一般的なそれに見えない。しかも「山根家之墓」ではなく「総霊」と刻まれているのだからなおさらである。手前味噌ながら、まだ父が小さなときに亡くなったその祖父のセンスが私は大好きである。「つまらない常識とかしきたりなんかどうでもいい。固いこと言わんと、入ってきたいモンはみんな入ってきたらいいのさ」というおおらかさが感じられるからだ。おおらかさの中にも俺はこうだよという自分の立ち位置を持っているところがなおいい。
いろいろと仕組みができ上がりすぎて、こうでなきゃならんという根拠に基づく常識とやらが跋扈し、どうにも型破りには生きにくいこのご時世である。そんな社会の恩恵をも感じる一方で、平々凡々たる我が身ながら人と違った自分の価値観を大切にしたいと感じるのはそんな血が関係しているのかもしれない。
新境地を切り拓く2人
さて、武術と医療と銘打たれた本書は、武術研究家である甲野善紀氏と、統合医療を推進する医師である小池弘人氏の対談録である。武術と医療の関係性を語っているのではなく、固定観念に囚われない柔軟な発想で新境地を切り拓く物事の捉え方、考え方を語り合った内容である。
冒頭で、甲野氏が自身で辿り着き磨いた技がスポーツ界になじまないことに疑問を呈す場面がある。その理由を、固定観念からの脱却を恐れ、伝統の縛りから抜け出せない指導者の不明と断じているが、このあたりには違和感を禁じ得ない。もちろんそんな側面があることも否定はしない。しかし、たとえば流れの中で多数対多数で戦うスポーツでは個々の技は活かしにくい上に、うまく工夫して取り入れようとしても単に他によりよい方法があるのかもしれない。スポーツの現場も常によりよくなろうとしているのだ。教条主義を否定しながらも、それゆえに教条主義の香りが漂う部分でもある。
己が信じる確固たる考えを持っている場合、その思いが強ければ強いほどそうなるのかもしれない。それが、わかりやすく整理された論理によって統合医療を説明しようとする小池氏によってごく自然に軌道修正される。
中盤から後半にかけては甲野氏の独創的な身体理論を基にした武術論や、その他の社会情勢に対する押し出しの強い持論と、懐の深い小池氏の「現代医療と相補代替医療の統合された医療体系」である統合医療の考え方が、相乗効果でうまくまとめられていく。対談の妙である。
覚悟が必要
「教条」から「折衷」へ、またこの先理想とする「多元」に流れをつなごうとする現代の統合医療は「患者さん中心の立場から、包括的・全体性を重視しつつ、個々の人にあった治療法ならびにセルフケアを自らが選択する医療」という側面も持つという。自分が鍼灸師であることも無関係ではないだろうが、この統合医療の考え方には共感する部分が多い。なによりこの医療は患者に甘えを許さない厳格なシステムだという見方もできる。自分の生き方、そして死に方に対して己自身の意志で覚悟を持って向き合うことにつながるのだ。これは周りの人たちとの横並びで納得できるものではないだろう。そして誇りを持って生き抜くためには、このことはそもそも避けては通れないことなのだ。
本書に哲学者西田幾多郎の「最も有力たる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一したものである」という言葉が引用されている。調和統一できる位置は人によってさまざまだろうが、それぞれの立ち位置を尊重しつつ己のあり方を自在に定める。まさに生き方の問題である。それにしても、さまざまな社会問題に翻弄されてはいるが、このようなことを考えられる余地のある社会に生まれたことはなんと幸運なことか。
己を定める鍛錬
再び私事ながら、干支が4周りするこの年に先駆け、昨春から長男坊を出汁に空手を始めた。幼稚園児や小学生が中心の道場で白帯を締め、汗を流して1年余りが経った。形を覚えながらも形に囚われず、力みすぎる傾向にある我が身をいかにうまく使えるようになれるか探求の日々である。目標はあれこれ技を駆使できるようになることでなく、拳の一撃を、蹴りの一撃を、どれだけ強く速く打ち込めるようになるかである。それでいい。それがいい。こんな些事が、己の立ち位置を定め、日々の暮らしを覚悟あるものにする手助けとなる。
(山根 太治)
出版元:集英社
(掲載日:2013-09-10)
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カテゴリ その他
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ご飯が食べられなくなったらどうしますか? 永源寺の地域まるごとケア
花戸 貴司 國森 康弘
医師からの問い
「ご飯が食べられなくなったらどうしたいですか?」「寝たきりになったら、病院か施設に入りたいですか?」。逆説のように聞こえるが、これは「最期まで自分らしく生きるために必要な準備」を整えておくためにと発せられる、医師からの問いだ。
本書は「誰しも迎える必然の時である」“死”を、「命を受け継ぐ」ときとして「地域まるごと」の体制で見つめ、それぞれの「人生の最終章」をよりよく“生きる”ための手助けをしようとする診療所医師の活動の記録である。
上昇志向だけでは
若いころ私は、“子どもから大人まで”“一般健常者から競技者までを対象とした健康の保持・増進を目指す”といった内容で授業を行えば、“すべての人を対象にした”体育が展開できるのではないかと考えていた。競技での成功など人生の輝ける一幕に助力することや、いつまでも元気に動ける身体づくりに対する助力といった、“体を育む”ことは、確かに体育の重要な役割の1つではあるけれど。
しかし齢を重ねるうちに、体力には限界があり、命にも限りがあること、いずれ人は老化するし病気にかかることもあること、失われた機能を取り戻すことには限界があること等々、“上昇志向”だけでは人生は済まされないということなどを考えるようになった(何を今さら...だなあ)。
一方で、マスターズ陸上というベテラン選手ばかりが出場する競技会に出るようになって、絶対的な速さだとか高さだとかいった“記録”のほかに何か別の魅力があるように感じられてきた。真剣勝負(命の交歓)であるが故の美しさ、というようなところは一緒だが、何か普通の競技スポーツとは異なった、齢をとったからこその美しさが表現されているように感じられるのである。とくに60歳を越えると、記録がどうしたとかとは異なる魅力が湧き出てくる、あるいはベテラン選手としての“味”が増してくるように思え、マスターズ陸上とはある種“芸事”と同じなのではないかと考えるに至った。
価値観が変わると世の中が違って見えるものである。すなわちベテラン選手は齢をとることで記録が“低下する”ものとして映っていた世界が、実は、精進を重ね一味違うものに“変容する”世界だったのである。競技を通じて、記録だけではない何かを育んでいるのである。
このような感覚を通して、“体で育む”体育というものを考えてみた。すると大きな可能性が体育の授業に内包されているように思えてきた。
医学部の学生という、いずれは人の最期に直面するような職業に就こうとする人たちを前にして、“教養科目”の体育とはどうあるべきかなどと考えたとき、“体を育む”ことだけでは体育という科目に行き詰まりを感じずにはいられなくなっていたところに、一筋の光明が差した気分だった。“体で育む”体育は、身体を見つめ、身体の声を聴き、身体で表現することだ。歩けなくとも動けなくとも、介護者の手技や優しい言葉に触れること、家族と手を握り合うこと寄りそうことで、様々なことを体感することができる。身体を通して絆を育むことができる。
体育の授業とは、命を見つめるものでありたいし、よりよく生きるためのヒントを学ぶ場であることができたらいいなと思う。しかしまた、学生や卒業生の姿を見るにつけ、学ばせてもらっているのは私たち教員のほうかも知れないと本音では思ったりしている。
初めての学生の一人
本書の著者、花戸貴司は、私が初めて受け持った学生の一人だ。ラグビーを愛する、立派な体躯をした元気で優しい学生だったのでよく覚えている。先日、ほぼ20年振りに再会した。何とか私のことを覚えていてくれたようで、「あ、先生! お世話になりました」などと言う。いやいやそんなことはない、あなた方から学びのヒントを山ほどもらったお陰で体育を生業とすることができているんだ。むしろ感謝するのは私のほうで、それより当時の若気の至りの授業、思い出すだけでも恥ずかしく、冷や汗を隠すのが精いっぱいだった。
(板井 美浩)
出版元:農山漁村文化協会
(掲載日:2015-06-10)
タグ:医療 地域
カテゴリ その他
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ご飯が食べられなくなったらどうしますか? 永源寺の地域まるごとケア
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アフガニスタンの診療所から
中村 哲
著者は、アフガニスタンとパキスタンのあいだ、ティルチ・ミールというヒンズー・クッシュ山脈の最高峰に登るため、当地を訪れた。道すがら、病人をみた。しかし、必要な医薬品は手に入らず、著者いわく子どもだましの、診療のまねごとをしながら、病人を見捨てざるをえなかったという。それ以降もたびたび、アフガニスタンを訪れることになる。
1984年5月には「らい根絶計画」のため、ペシャワールに着任、86年、アフガニスタン難民問題にまきこまれ、JAMS(日本アフガン医療サービス)を組織、87年活動を国境山岳地帯の難民キャンプに延長、88年アフガニスタン復興の農村医療計画を立案、89年アフガニスタン北東部へ活動を延長し、今日に至るとある(執筆時)。
著者を駆り立てたのは、ヒンズークッシュ山脈を訪れたときの衝撃、あまりの不平等という不条理にたいする復讐だという。しかし、同時に、ただ縁のよりあわさる摂理、人のさからうことができないものによって当地に結びつけられた、とも。識字率や就学率は、都市化の指標にすぎず、決して進歩や、文化のゆたかさを、さし示すものではない。発展途上国を後進国としてみるなら、先進国を発展過剰国と呼ぶべきだ。私たちは貧しい国に協力に出かけたが、私たちはほんとうに、ゆたかで、進んでいて、幸せなのか。国際協力は、自分の足もとを見ることからはじめるべきだ、と著者はいう。
アフガニスタンと聞いてどんなイメージをもつか、人それぞれだと思う。しかし身近に感じるという人は日本では少ないのでは、と想像する。アフガニスタンという国は多民族国家らしい。複雑な民族構成や、歴史的な経緯については、残念ながら頭に入ってこなかった。人々の持つしきたりや習わしにも馴染みのないものが多い。ただ、その土地で文字通り生き死にした著者の目を借りれば、そこにいるのは泣き笑い、病み苦しむ、自分たちとなんら変わりのない人たちだと知れる。それだからこそ著者は、人々が置かれた環境の不公平さに憤然としたのではなかったか。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2022-07-26)
タグ:医療
カテゴリ 人生
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