動作の意味論 歩きながら考える
長崎 浩
動作に関わる本である。しかし、普通の運動生理学や医学の本というより、哲学的な視点から人間の動作を理解するための本という感じである。正直に言うと、内容や文章で用いられている語句は難しい。私見ではあるが、自分が身体を動かすときにはこんなことを考えて動く必要はないideaばかりなので、アスリート自身が読むような本ではない。どちらかというと、身体運動を研究したり分析したりする必要のある、運動指導者や医療関係者が読むための書籍である。
具体的には、神経系と運動器系がどのように人間の運動・動作・行動を成しているのかについて、エビデンスを用いたり、過去の著名な研究者の文献などを引用しながら広く書かれている。ただ、初めに言ったとおり、哲学的な内容になっているため、普通の身体に関する本として読むと理解に苦しむ部分がある。運動生理学や医学的な知識を得るためではなく、もっと根本の「動作とは何か」という部分で見識を広めるために読むとよいと思われる。
個人としては、第7章の「脳は筋肉のことなど知らない」と第8章の「日常動作が壊れるとき」が興味を引いた。普段、医学的知識を得ることが常の私にとって、「中枢神経系が筋肉のことを知らない」という観点は非常に独特であったし、8章に登場するブルンストロームやボバースの評価と治療についての内容はとても勉強になった。
時間を見つけ、何度も何度も読んで理解を深めるのもよし、自分の興味のある章のみを読むのもよしの作品となっている。
(宮崎 喬平)
出版元:雲母書房
(掲載日:2011-12-13)
タグ:運動 哲学 運動生理学
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:動作の意味論 歩きながら考える
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
動作の意味論 歩きながら考える
e-hon
武道的思考
内田 樹
武道の本旨は「人間の生きる知恵と力を高めること」であり、「他人と比べるものではない」と述べる筆者。そして「比べていいのは『昨日の自分』とだけだ」とも述べている。
本書の中で何度も出てくる「武道が想定しているのは危機的状況で、自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることができない状況」というフレーズに象徴されるように、現在の日本にとって非常にタイムリーな内容になっている。
(磯谷 貴之)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2012-01-18)
タグ:武道 哲学
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:武道的思考
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
武道的思考
e-hon
スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
シェリル・ベルクマン・ドゥルー 川谷 茂樹
タイトルに入門とある通り、スポーツ哲学のトピックが網羅された労作だ。とくに現代社会におけるスポーツの価値や、ドーピングなどの倫理的問題について多くのページを割いている。すぐに目を通せる分量でも、結論を得られる分野でもないが、スポーツに関わるなら知っておくべき内容ではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ナカニシヤ出版
(掲載日:2012-08-03)
タグ:スポーツ哲学 倫理 ドーピング
カテゴリ スポーツ社会学
CiNii Booksで検索:スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
e-hon
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 今福 龍太 西谷 修
スポーツ史、文化人類学、哲学というそれぞれ異なる分野から、スポーツの果たしてきた役割について語り合うもの。複数回のシンポジウムでの発言をもとに書籍化している。メディアとの関係性、世界情勢の影響をどのように受けるかなどが立場が違う分、広がりを見せている。
「近代スポーツは、すでにその役割を終えているのではないか」といった指摘もあり、興味深い。エッセイ的なコラムや、各人の思い出として語られた部分から、考える手がかりは身体そのものにあるということが読み取れる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:平凡社
(掲載日:2010-01-10)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
e-hon
スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
シェリル・ベルクマン・ドゥルー 川谷 茂樹
タイトルに入門とある通り、スポーツ哲学のトピックが網羅された労作だ。とくに現代社会におけるスポーツの価値や、ドーピングなどの倫理的問題について多くのページを割いている。
すぐに目を通せる分量でも、結論を得られる分野でもないが、スポーツに関わるなら知っておくべき内容ではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ナカニシヤ出版
(掲載日:2012-08-10)
タグ:哲学 倫理
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
スポーツ哲学の入門 スポーツの本質と倫理的諸問題
e-hon
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 西谷 修 今福 龍太
一見、スポーツ科学の専門家が科学的な見解から書いている著書だと思いきや、著者は文化人類学者、フランス文学者、外国語大学のスポーツ史学者といった文系の専門家が近代スポーツとその向かう方向性について討論した内容が載っている本であった。
1章は「スポーツからみえる世界」、2章は「オリンピックからみえる世界」、3章は「21世紀の身体」、4章は「グローバリゼーションとスポーツ文化」と、幅広いテーマで語られているが、討論形式である為、各章のタイトル以外にも様々な点について言及されており、読者の世界をどんどん広めてくれる構成といえる。
私は従来、トレーナーとして、また医療従事者として、身体を科学し、クライエントや患者の抱えている問題を解決し、目標を達成させる立場にある。つまり、かなり理系の思考回路をもって人の身体やスポーツを見つめてきた。しかし、この明らかな文科系の第一線級の著者たちは、全く違う考え方でスポーツや人の身体を捉えており、彼らが論じたスポーツや人の身体の世界は、私に新たな考え方を提供してくれた。
とくに、近代化、科学的根拠に裏付けられ過ぎたサイボーグのような近代アスリート、勝ちにこだわり過ぎたことでエンターテイメント性を失った戦略、スポーツが本来持つべきナショナリズムや政治性をはき違えた放映の仕方をするメディア、平和性や安全性を高めすぎた結果のリアリティ喪失について、危機感を持つ考え方は非常に新鮮であった。
本書はスポーツ観戦をもっと楽しむためのアイデアだけでなく、この国のスポーツ産業活性化のヒントを与えてくれている。スポーツに関わる様々な職種(トレーナー、スポーツマーケティング関係者、監督、政治家など)の人にぜひともお勧めしたい。
(宮崎 喬平)
出版元:平凡社
(掲載日:2018-01-15)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
e-hon
哲学的フットボール
マーク ペリマン Mark Perryman 見田 豊
「哲学」と「フットボール」をマッチメイクした面白い試みの本である。内容は、ポジションの特徴にそれぞれ哲学者のパーソナリティを当てはめていきながらゲームが展開されていくというもの。メンバーの思想なり主張なりをあらかじめ頭にインプットしてから、読み始めることをお勧めしたい。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:日経BP
(掲載日:2000-01-10)
タグ:哲学 フットボール
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:哲学的フットボール
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
哲学的フットボール
e-hon
哲学な日々 考えさせない時代に抗して
野矢 茂樹
哲学とは
フィールド種目(陸上競技の)体質なので、トラック種目のようにピストルの“ドン”に合わせてスタートさせられるのはどうも苦手だ。どうして他人の都合に合わせて走り出さなければならないのか。その点、フィールド種目は、制限時間の範囲内であればいつ試技を始めてもいいのだ。自由じゃないか。
こんな話を、トラック種目が専門の同級生としていたら、妙な答えが返ってきた。
“あれは、自分で鳴らすんだよ”。さらに、“フィールドの方こそ、いつ自分の番が回ってくるか分からないのにどこが自由なんだ。”と言った。
つまり、トラック種目はスタート時刻が決まっているからタイミングが図りやすい。場合によってはその時刻に、あたかも自分が引き金を引くがごとくピストルを鳴らす、と考えることもできる。それに比べフィールド種目は“パス”することもあったりして、他の選手の都合によって、試技は名簿順に回って来るとは限らないから、どうやって集中を高めたらよいかわからないじゃないか。というのだ。なーるほど。
先日、あるトップスプリンターの話を聞く機会があったので、そのあたりのこと、つまりスタートラインに立ったとき何を考えているのか、どんな集中方法をとっているのか質問してみた。
返ってきた答えは、“ピストルの音に合わせなければならない、という条件は皆一緒だから仕方ありません。気にしないように努めています”、また、“あまり自信が持てるほうではないので、スタートはできるだけ開き直ることにして、「自分」に集中するようにしています”というものだった。
は? どういうこと?
この人なら“自分で鳴らす”以上の、“オレサマ”的すごいことを言うんじゃないかとの期待も込めて尋ねたのに、あくまで謙虚、というよりむしろ新鮮だったのは、ネガティブな表現も厭わず使うその姿だった。
ポジティブな言葉で語ることが是とされる昨今、この、冷静で、ニュートラルな位置に身を置くこの選手の存在に、非常に“テツガクテキ”なものを感じた。哲学とは“気づき”の学問であると(はなはだ単純ではあるけれど)私は思うからだ。
スプリンターと論理の必要性
さて今回は、『哲学な日々』。著者の野矢茂樹は、「哲学は体育に似ている」という(ま、そう書かれた部分を私が引用しただけなんだけどね。しかし、「身をもって哲学を体験する」という表現も出てくるから、私の短絡も決して間違ってはいないと思う)。
たとえば野矢は、「論理の必要性」を説き、「ある主張を解説したり、その理由を述べたり、そこから何かを結論したりする。あるいはまた、主張を付加したり、補足したり、先の主張に反論したりもする」と言い、それを言葉で伝える訓練が重要であるとしている。
スプリンターにも、この力の必要性が当てはまるのではないか。
“スプリンターは生まれるもので、育てるものではない”という素質論的な考え方があって、強く異論を唱えるつもりはない。しかし一方で、10年におよぶ長い期間を日本の(世界の)トップスプリンターとして活躍する選手も近年では増えている。そういう選手は、だからこそ“才能一本”では決して走っていない。緻密なトレーニング計画(推論)のもとに、丁寧に丁寧に、才能に磨きをかけ、スプリンターとして自らを“育てる”作業を根気よく続けているように私にはみえるのである。
「論理的」とは「推論が正確にできること」だ。100メートルを速く走りたいという想い(「妄想」)を脹らませるだけでは、足は速くならない(「哲学にならない」)。100メートル走という古典的な種目ではあるけれども、「それを新しい見方、新しい考え方のもとに説明」し、しかも「その説明は、きちんと理屈の通ったものでなければならない」。また、そういった“論理的知性”の重要性は、100メートル走という、ある意味“単純な”種目だからこそ、より高いものが求められるに違いない。
今回、引き合いに出させてもらったトップスプリンター氏は、別の質問者による問いに対し、自身の身体的特徴を踏まえた上で考え抜かれたオリジナリティの高い(少なくともボルトとは全く異なる)観点から、自らの理想とする“走り方”について述べた。それは、謙虚であるけれども、確信に満ちているものであった。
彼のような選手が、新しい世界を切り拓き、日本の短距離界がさらに発展していくことを切に願う。
(板井 美浩)
出版元:講談社
(掲載日:2017-02-10)
タグ:哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:哲学な日々 考えさせない時代に抗して
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
哲学な日々 考えさせない時代に抗して
e-hon
池田晶子 不滅の哲学
若松 英輔
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。」哲学者の言葉を引きながら、ここでいう言葉は、色や形、音、芳香や、まなざしをも含めた「コトバ」であると著者の若松英輔氏はいう。
コトバは言語的形態として、たしかにある。しかし、それは一形態としてであって、苦しいとき、悲しいときに魂にふれ、寄り添うものはそれだけではない。
コトバを通じて他者と交わる。本を読むという行為もそのような営みにほかならない。
「書き手の生む言葉は、いわば可能性を秘めた炭素の塊に過ぎない。それに、読むという営みを通じて圧力を加え、固い、輝く石に変えるのは読者である。」
「私たちは小説を読むように、詩を読むように、哲学の文章を読んでかまわない。あるいは、音楽を聴くときのように、絵を見、彫刻にふれるときのようにヘーゲルの言葉を、あるいは池田晶子の言葉を「読む」ことがあってよいのである。」
そして、考える。池田は考えれば、悩むことはないという。悩まれている事柄の「何であるか」を、まず考えなければならず、「わからないこと」を悩むことはできない、というのがその理由。えー難しい。
考えることで、見えてくる地平とは如何に。
「旅先で、自分の魂のありかを教えてくれるような『場所』に出会う。人が固有名をもつのは、『場所』が地名をもつ意味においてである。固有でありながら、大地はどこまでもつながっている。それは異界にもつながっている。人も同じである。」
個に徹すれば普遍に通ず。哲学者と著者が共有しているのは、そんな確信に近い感覚だ。
考えて、わかる。では、わかるとは何か。
「『わかる』の経験において、自他の区別は消滅する。それは、対象が言語に表出された感情や観念である場合に限らない。未だ言語に表出されていない、すなわちまさしくいま『わからない』事柄を、『わかろう』とする動き、これが可能なのは、それを『わかる』と思っているから以外ではない。」
池田晶子の「月を指す指は月ではない」というコトバから著者(若松氏)は、この月を観る目を、魂と呼ぶ。ソクラテスによれば、生きることとは「魂の世話をすること」だ。生きることとは、月を観る眼を養うこと、こう言い換えても、差し支えないだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:トランスビュー
(掲載日:2022-11-14)
タグ:哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:池田晶子 不滅の哲学
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
池田晶子 不滅の哲学
e-hon
語りきれないこと 危機と傷みの哲学
鷲田 清一
東日本大震災のことを主題として、語ること、聞くこと、待つこと、の重要性を指摘する。それはとくに有事の際、危機的状況の中で、より際立つのだという。
なにかしてあげたい、そう誰しもが思う。しかし、悲しみや絶望の渦中にあるひと、底知れぬ闇を抱えたひとに、なにができるだろう。よかれと思ってすることが、裏目に出てしまうことも、ケアの現場では多いのではないかと思う。反面、ただ一緒に居てくれるだけで、救われることもある。
かつてイヴァン・イリイチは、ケアのプロのことを「ディスエイブリング・プロフェッショナルズ」と呼んだ。ケアのプロから提供される高度なサービスと反比例するように、市民一人ひとりが、命の世話をする力を失っていくさまを、揶揄した言葉だ。
医療や教育の現場を、ビジネスの指標で測るといけないのは、この「間」をこそ、もっとも大事にしなければいけないからではないだろうか。余白を埋めるような効率化の概念が塗りつぶしてしまう、いきいきとした生。イリイチが脱学校、脱病院と言ったのもその意味だったように思う。
とはいえ、いろいろなものに依存しなければ生きていけないのが現実だ。著者は、相互に支え合う関係(インターディペンデンス)を他者と築くことを勧める。抱え込むことなく、押し付けあうでもない、持ちつ持たれつの関係性といえばいいのだろうか。
前提として、お互いのことをある程度わかっていること、さらに損得を基準にしないこと、などは含まれるのだろうと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2023-02-07)
タグ:哲学 ケア
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:語りきれないこと 危機と傷みの哲学
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
語りきれないこと 危機と傷みの哲学
e-hon
反哲学史
木田 元
『反哲学史』といういささか奇妙な表題を掲げる本書は、一見するだけでは何を目的として書かれたものなのかが了解できない。著者も冒頭において、それが哲学史に対する反=アンチ(つまり、反-哲学史)であるのか、それとも哲学に対する反=アンチの歴史(つまり、反哲学-史)のいずれであるのか、と問われることだろうと述べている。しかし、著者曰く「反哲学史」はそのどちらでもない。それではいったい、著者はどのようなことを想起しつつ、この表題を掲げたのであろうか?
この点について、著者は次のように述べている。「私のねらいは、哲学をあまりありがたいものとして崇めまつるのをやめて、いわば『反哲学』とでもいうべき立場から哲学を相対化し、その視点から哲学の歴史を見なおしてみようということ」である(p.9)。つまり、反-哲学史でも反哲学-史でもなく、それは「反哲学的観点からの哲学史」を描こうとする試みなのである。
「反哲学」という言葉の由来は、20世紀の哲学者(少々ややこしいので、著者は「思想家」と呼んでいる)たちが行ってきた思想的営みにあり、彼らは自らの営みを「哲学」とは表現せず、むしろ「哲学の解体=脱構築(déconstruction)」を目指していたことが述べられる(pp.10-11)。それは、「『哲学』というものを『西洋』と呼ばれる文化圏におけるその文化形成の基本原理とみなし、この西洋独自の思考様式を批判的に乗り越えようと」する克服の運動なのである(p.10)。このような視点に連なる系譜として「反哲学史」を記述することが可能なのであり、著者の試みは、そのような観点から哲学史を再構成することへと向けられているのである。
それでは、本書の内実はどのようなものとして語られているのだろうか。まず本書は、ソクラテスの思想という「哲学」の誕生の場を振り返ることから始まっている。そこでは、彼は愛知者(ho philosophos)であり、アイロニストであったことが語られる。そして、彼のアイロニーは「無限否定性」とでも呼ぶべきものだったことが明かされる。しかし、彼の哲学は、その無限否定性の故に新しいものを持ち出すことはできなかったのである。
それでは、彼はなぜこのような無に立脚した否定性を自らの哲学的手段としたのだろうか? それは、この否定性が「新しいものの登場してくる舞台をまず掃き清める」ための武器だったからである(p.63)。そこで清掃されたのは、「当時のギリシア人がものを考え、ことを行う際に、つねに暗黙の前提にしていたもの、つまり彼らがありとしあらゆるもの、存在者の全体を見るその見方だった」(p.63)。したがって、次に疑問となるのは「古いもの」としての初期ギリシア哲学者たちが問題としてきた「存在者の全体を見るその見方」である。それは、「自然(physis)」という概念に注目しながら、次のように述べられている。「彼らにとって自然とは、人間や、神々をさえもふくめた存在者すべてのことであり(...中略...)より正確には、そうしたすべての存在者の真の本性、つまりすべての存在者をそのように存在者たらしめている存在のことなのであって、彼らの思索はまさしくこの存在がなんであるかを究めることにむけられていた」のである(pp.69-70)。しかし、本性としての「フュシス」は仮象としての「ノモス」との緊張関係の中に置かれることとなり、ソフィストにあっては、もはやフュシスは祭りあげられてしまい、そこで目を向けられるのは人間社会としてのノモスだけであり、このような堕落した形で自然的存在論は引き継がれることになった。ソクラテスがアイロニーの刃で切り裂こうとしたのは、まさにこのように堕落した存在論だったのである(p.80)。
その後、プラトンからアリストテレスを経る西洋哲学の歴史が記述されていくのであるが、ここで専ら問題となるのは「新しい存在論」を巡る議論の歴史であり、そこから明らかにされる「形而上学的思考様式」である。これが本書において、非常に重要である。なぜなら、「その超自然的原理、形而上学的原理は、その時どき『イデア』と呼ばれ、『純粋形相』と呼ばれ、『神』と呼ばれ、『理性』と呼ばれ、『精神』と呼ばれて、その呼び名を変えてゆきますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して承け継がれ、それが西洋文化形成の、いや少くとも近代ヨーロッパ文化形成の基本的構図を描くことになる」からである(p.114)。ヘーゲル哲学において完成される(と本書においては考えられている)この「形而上学的思考様式」こそが、西洋を一貫して支えてきた文化的根源なのであり、このような思考様式を解体=脱構築し、根源的自然=フュシス的存在の生成力を復権しようとする運動こそが、後期シェリングの哲学からキルケゴールの実存哲学、マルクス、ニーチェの哲学に脈打ち、20世紀の思想家たちが継承した「反哲学」なのである。そこから、いわば逆照射した結果、本書が描く「形而上学的思考様式」が垣間見えてくるのであり、そのような相対化された視点を用いて哲学史を眺めてみることは、非常にスリリングな試みである。
また、このように前景化された形而上学的思考様式は、それと並行して形作られてきた文化としての「西洋医学」、あるいは西洋的な知の様式をその始原とする「科学的思考様式」とも決して分離することはできないのであって、私たちのような医療・スポーツ関係者が本書から学び取れるのは、そのような西洋的伝統を一旦は相対化し、汝自身がいったいどのような地点にいるのかを把握することであり、本書の試みはその手段の一つとなるであろう。その意味で、哲学史(さらには、反哲学的観点からの哲学史)を学ぶことは、非常に有意義なことである。そのための入門書として、比較的平易な言葉で語られる本書は最適な門であるだろう。
(平井 優作)
出版元:講談社
(掲載日:2024-01-26)
タグ:哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:反哲学史
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
反哲学史
e-hon
水中の哲学者たち
永井 玲衣
「わたしの問い」からはじまる「手のひらサイズの哲学」、それは「大哲学」みたいな大それたものではなく、「なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学」だ(5-6頁)。優しく、美しく、柔らかく、そして曖昧でとても魅力的な文章の数々。それでいて、思わずハッとさせられる文章にも出会う。私はこの本を読み始めると共に、すぐに永井さんの世界に引き込まれていた。
とにかく、まずは一旦落ち着いて、本の表紙でも眺めてみよう。白と水色を基調とした美しい装丁の中にある「水中の哲学者」という言葉が目につく。私はふと、ヴィトゲンシュタインの名を思い浮かべた。この20世紀を代表する偉大な哲学者は、「水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ」とよく言っていたようだ(ノーマン・マルコム)。このエピソードに「たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いとともに生きつづけることを、私は哲学と呼びたい」という永井さんの言葉が共鳴する(116頁)。たとえ水面に浮かび上がろうとも、それでも潜り続ける努力を止めたくない。それは、ときに苦しいかもしれない。しかし、それでもなお…。
「宇宙のバランス」を気にかけて「いや、でもさ」とばかり言ってしまい友人から怒られ、逡巡した挙句「ごめん、すぐアウフヘーベンしたくなっちゃって」と「意味不明な言い訳を」してしまう永井さんを、私はとても素敵だと思った(223頁)。考え続けることはときに苦しいが、どうしても考え続けてしまう人というのが世の中には一定数いる。そういう人は「哲学病」を患っているなどと言われたりもするが、その人たちが病に侵されているのではなく、世界の方が、あるいは生の方がどうかしてるのではないか? 気がついたときには既に世界があり、ほかでもないこの私が生まれてしまっている。ほんの少し何かが違えば、広大な宇宙の中の一つの惑星である「地球」は存在していなかったかもしれないし、私の先祖の誰かが1人でも早く死んでしまっていたら、私は存在していなかったかもしれない。いや、もっと脆かったであろう現在の存立、あのとき、あの先祖が、あの場所に行かず、あの人に出会っていなかったら、という無数の可能性、途方もない偶然性、そして、ここで「あの」と呼ばれている何かの存在それ自体の脆さ。明日、突然世界中のテレビがハイジャックされて「明日で地球サービスは終了します。よって、地球上に存在しているあらゆる存在は12時間後に消滅します」なんて放送が、宇宙人によって流されたっておかしくない。映画『トゥルーマン・ショー』のように、私を取り巻く全ては作り物かもしれない。全くもってめちゃくちゃだ。でも、めちゃくちゃなことの想定よりも、さらにめちゃくちゃなのがこの世界、この生なのかもしれない。それについてどうにか考え、無理しながらも言葉にしてみる。そうしたら、どうしても言葉は曖昧で、意味不明なものになってしまうかもしれない。それでも、なんとか語ってみる「手のひらサイズの哲学」。全てのことが論理的一貫性を持って語れるのか。世の中は、そういう論理、いわば「健やかな論理」を求めている。人類は、それに手が届くと信じてもいる。でも、もし世界そのものが病んでいるのだとしたら? そしたら、それを語れるのは「病んだ論理」の方なのでは? なんて、そんなことも考えてしまう始末。
私は本書の中で、永井さんの祈りに触れた。「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる」(125頁)。皆が同じ方向へと邁進する社会。コスパ、タイパが志向され、無駄なものは排除されていく。ついには、その魔の手は人間という存在にも忍び寄る。その一方で、加速していく社会の中で、どうしてもその速度に追いつけない人たちというのもいる。皆がせかせかと働き、何か目的を持って行動しているような世の中で、そういう人たちは一々何かに引っかかっては、波に乗ることができないでいる。本書は、そういう人たちに寄り添う優しさを持った本でもある。そういう人たちと共に、世界をゆっくりと眺めまわしてくれる。こんなにもめちゃくちゃな世界を一緒に鑑賞して、「ヤバすぎない?」と嘆き合ってくれる。そして、共に頭を悩ませてくれる。
「衝撃的な他者性の告知こそが、哲学対話の醍醐味なんだと信じている」(241頁)。その「衝撃的な他者性の告知」によって、私は破壊される。新たな問いを抱えざるをえなくなる。しかし、それは決して不幸なことではない。むしろ、それは他者との出会いの証左であり、哲学であると私は言いたい。かつてメルロ=ポンティが言ったように、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」のならば、まさに「衝撃的な他者性の告知」は哲学のはじめにこそ置かれるべきものなのかもしれない。
本書の文字通り最後には、「このめちゃくちゃで美しい世界の中で、考えつづけるために、どうか、考えつづけましょう」と書かれている(265頁)。これが本書が最後に語った言葉である。これを読んだとき、わたしは「なんてめちゃくちゃな文章なんだ」と思ったと同時に、「なんてこの本らしく、素晴らしい文章なんだ」とも思ったのであった。考え続けるためには、問いを持ち続けなければならない。安住していても、新たな問いとは出会えない。対話へ、他者のもとへ、勇気を持って一歩を踏み出そう。ポケットに本を突っ込んで、街中に出かけよう。人類初の月面着陸を成し遂げた、あのアームストロング船長が言っていた言葉が頭に響く。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」。そんな励ましの声が、この本からも聞こえてくる。
ノーマン・マルコム, 板坂元.(1998).『ウィトゲンシュタイ 天才哲学者の思い出』, 平凡社, 70頁.
(平井 優作)
出版元:晶文社
(掲載日:2024-06-15)
タグ:哲学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:水中の哲学者たち
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
水中の哲学者たち
e-hon
暴力をめぐる哲学
飯野 勝己 樋口 浩造
私は電車に乗っていると窓から見える風景を見たくなってしまう。それが使い倒している路線だとしてもだ。自分の内側と外側の“天気”によって、眼に入ってくる景色が折々の表情をするのが面白いからだ。
しかしそんな私の観察を目の前に座っている人間は知りもしない。その人からしてみれば、私は「ジロジロ見てくる若造」にしか映らないだろう。実際過去に目の前に座っていた外国人に「こっち見るな!」と語気荒く言われたことがある。他人というのは外見だけではよくわからないものだ。こうしてあらゆる争いが始まるのかもしれないなと思う。こうした出来事から「暴力性」について考えているなかで、タイトルに釣られてこの書籍に触れた。
この書籍はある勉強会で集まった様々な分野の研究者たちが「暴力」というテーマで議論して形にしたものである。
序章〜第9章までそれぞれの専門分野から分析した論稿が記載されている。といってもランダムに散っているわけではなく、大まかに3部にわかれている。
第1章〜第3章では暴力の根源的ありようについて。第4章〜第6章では具体的な社会状況で起こった暴力の語られ方について。第7章〜第9章では言葉や表現といった構造的暴力と物理的な暴力の違いから再度根源的な暴力について考察されている。
私の備忘録かつまだ本書を手に取っていない方のために各章毎の要約をすることは一定の範囲においては有益なのかもしれないが、本書の出版社ならびに蔵書している書店さんの利益への微々たる影響を気にして(という盾に面倒な気持ちを隠して)、本ページでは編著者である飯野勝己先生(以下飯野)が書かれた序章と第7章に焦点を当てていく。
序章において飯野は哲学的問題としての暴力について2つ挙げる。
1つは「“ただそうなっているだけ”の世界から、人間的な“この世界”が立ち上がる一契機としての暴力」(p.5)。我々が蟻塚のアリを観察するかのようなメタな視点で暴力的な行動を見ようとしたとき、それは自然のうねりの力としての「ただ、そうなっているだけ」と捉えることができないだろうか。
では我々が想起する“暴力”が立ち上がったのはなぜか。その段階として飯野は「心の理論」の発達へのアプローチや「内面の誕生」を論ずる思索的探索などを挙げる。他人に心や意図を認めないなら暴力にならないのではないかと。他者がいるから暴力があり、暴力があるから他者がある。そのように捉えることができるのが1つ目の哲学的問題。
2つ目は、一般的な「力(force)」の観点からの暴力。様々な「力」がバランスを保ちほどよく安定している場所、それが「私たちの世界」であると飯野は述べる。「暴力が暴力として際立つ背景条件として、“大筋のところの安定”があり、特異点としての“暴力”は、背景であるNormalな秩序との連続性にある」というのが2つ目に挙げた哲学的問題だ。
飯野は建物を例に挙げて説明する。静かに佇む建物には絶え間なく力がみなぎり動いている。しかし地震のようなイレギュラーな事態が起こると潜在的な力が顕在化する。このような構造が個人間のコミュニケーションにおいても、社会制度においてもあるのではないか。
この2つの哲学的問題をまとめると、暴力は私たちの世界に深く食い込み、繋がっているといえる。そして表象されている暴力に対する対処は単純ではない。暴力の根深さ、多様性、概念的多層性、これらをリアルに捉えることは簡単ではないからだ。そのような探求の実践が本書の内容となっている。
第7章「ひとつの暴力、いくつもの暴力ー「場所への暴力」試論ー」で飯野は、哲学・社会思想の領域での暴力を巡る思考には「国家論−法論的枠組み」が貫徹していると述べる(p.217 命名は飯野)。WeberやBenjamin、Eliasらを挙げ、私戦や決闘などがあった中世的世界から暴力の独占と集中管理が進展した近現代の国家がどのように生成してきたかを辿る研究の営みを紹介する。「国家論−法論的枠組み」の大枠として挙げているのが「暴力の独占」。物理的暴力の圧倒的優位性、むきだしの暴力を「法」という正当性という装いで見えにくくする。その力は領域内の時空に張り巡らされ、人々のふるまいに合法/違法の線引きをほどこす。
我々の平穏な日常のなかでは、わかりやすい暴力が見えにくい。普通の暮らしをしていれば法に触れることはない。しかしもとを正せばその“普通”の水準を定めているのは、「特段の正当性なしにただ事実として独占された暴力なのである。」(p.219)。国家は暴力から切り離せないし、暴力は国家から切り離せないのだろう。
では国家が独占している暴力とはなにか。Weberらの議論から、あくまで国家が独占しているのは「物理的・実力行使的な暴力である」(p.220)。集団の内に対しては逮捕や死刑などの正当化された力、外に対しては戦争行為などの正当化された力を排他的に独占する。しかし、そこに「言葉の暴力」などの抽象的なものは入らない。
国家を支える暴力は抽象的なあれこれを含むことのない物理的な暴力であるから、暴力一般の概念も物理的なものに限定して考えるというある種の「一元論」が展開される。 「国家論−法論的枠組み」は真正な「ひとつの暴力」だけがあり、「暴力のようなもの」は抽象であり比喩であり、意味の拡張に過ぎないというのが見方となる。
しかし、近現代国家のシステムにおいて物理的な暴力が減少してきた我々の生活に立ち返ってみると、「言葉の暴力」や差別などの物理的な暴力以外の暴力が顕在化していると直感的に思われる。 「国家論−法論的枠組み」での一元論とは対照的に暴力の「多元論」、「いくつもの暴力」が知覚されるのだ。第7章では「いくつもの暴力」の視点を掘り下げ、底のところで「ひとつの暴力」に繋がっているのではないかと論じる構成となっている。 「いくつもの暴力」のありようの描き方として飯野は、暴力の典型例にそなわる5つの概念層を挙げる。「危害」「危害への意図」「人為」「責任」「身体の動作」。
暫定的な作業仮説として、これらの5つの概念層からあれこれ抜いてみた暴力の描写を試みている。これらの描写の試みから、飯野は以下のことを述べる。「すなわち暴力とは単純な概念ではまったくなく、様々な概念層がからみあってようやくある行為や出来事に帰属される複雑な概念であり、もしくは評価観点ではないか」(p.230)。
このように「ひとつの暴力」から「いくつもの暴力」に軸足を移すと、「暴力はどんな形態であれ、白黒くっきり線引きできるものではなく、”暴力性”の濃淡さまざまなグラデーションを描くものであり、物理的なものもその他のものも、そのグラデーションのどこかにそのつど位置づけられる」(p231)というのが見えてくる。飯野はこの試みの中で「危害」という概念層に手をつけなかった。
では「危害」抜きの暴力というのは存在しないのだろうか。強靭な体をもつ人にパンチをしても暴力とはならないのか。罵詈雑言を浴びせられた人が強い精神力をもっていたら暴力とならないのか。
直接的危害とは「別の危害」について「ヘイトスピーチ」を例に取り上げる。
ヘイトスピーチの法的規則を主張する法哲学者のジェレミー・ウォルドロンの「安心」という概念を引用して展開する。「何か明示的なもの」(警察など)にあからさまに頼らなくていい、意識的に確保する必要がないというあり方自体が安心の重要な構成要素として考えられるが、ヘイトスピーチはこの安心を脅かすという。標的となるマイノリティだけでなく、第三者にも苦痛(怖い、嫌な感じがする、こんなもの見たくないなど)を与える。この第三者や環境を傷つけるヘイトスピーチ、言葉の暴力は「場所への暴力」という性格を持つ。実際ヘイトスピーチの中にも「ここはお前たちの“居場所”じゃない」などという文言なども見受けられるケースが多い。この「場所への暴力」が「いくつもの暴力」と「ひとつの暴力」の底をつなぐものとなる。
では、なぜ“場所への危害”は個々人への危害に直結するのか。「それはもちろん私たちが物理的かつ身体的な存在であり、この世界に存在するためには否応なくどこかの場所に居なければならない境遇だからである。」(p.236)と飯野は述べる。 「ひとつの暴力(物理的な暴力)」は様々な形態の暴力に、比喩や抽象ではない真正な性格を与える。「ひとつの暴力」から「場所への暴力」を介して「いくつもの暴力」が多元論的に現出すると、飯野は展開した。
ここまでが序章と第七章のざっくりとした内容である。
今回飯野の文章を書評の中心に置いた理由は、「暴力」について考える際に立ち返らざるを得ない地点がハッキリするからだ。
今こうして私が静かな住宅街の中で快適な温度の部屋の中でタイピングしている傍ら、海の向こう側では理不尽とも取れる爆撃が起こっていて、それを巡っての激しいnegotiationが起こっている。それは私のような日々を過ごしている人にとっては“暴力的な異常な状態”と見えるのだろう。
しかしもし我々の国がそのようなある種の戦争行為をせざるを得ない状況にあるとしたらどうだ。手垢まみれの液晶画面内で完結していた情報が、自分の目の前で行われているという状況であったらどうだ。飯野が展開していた「物理的な暴力」。我々が物理的で身体的な存在である限り、このシンプルな暴力が我々の生に内包されていて、我々がその手段を何も考えずに行使することが出来るというのは世の理なのだ。自分が気に入らないと思った対象が目の前にあるとき、あなたはどのような選択をとるだろうか。逃げるか? 黙ってもらうように交渉するか? それともどちらかが死ぬまで戦うか? 加害者−被害者という二項を生むのが「暴力」なのか。
加害者を取り締まる“法”の暴力性についてはどう考えるか。“法”でも“神”でも何に頼ってもよいが、我々の一挙手一投足が誰の血にも染まらずにいられることをどう証明しようか。 誰の涙も流さないようにいられることをどう証明しようか。
本書の第3章でスティーブン・ピンカーの「暴力と人類史」が取り上げられている。そこに書かれているように、国家というシステムでは集団間での致死的暴力は先史時代の死体分析から推測される当時の集団間での致死的暴力の数よりも減少しているという示唆がある。
また集団間だけでなく個人間における致死的暴力の割合も減少傾向にあるという(p.104)。詳細な精微については一旦置いておく。人類全体的に致死的な暴力が減少しているというデータがある一方で、今日も誰かが暴力によって死んでいる。この当たり前を様々な視点で考えさせてくれる本書であった。
(飯島 渉琉)
出版元:晃洋書房
(掲載日:2024-08-30)
タグ:哲学 暴力
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:暴力をめぐる哲学
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
暴力をめぐる哲学
e-hon