フットサル 攻略マニュアル 100
須田 芳正
最近のランニングブームが示すように、身体を動かしたいという願望が多くの人にあることは間違いない。ランニングブームは、場所を問わずに、ひとりで手軽に始められることがその要因である。ランニングのように手軽に始めることができる集団スポーツがフットサルだ。
1チーム5人という少人数で、バスケットボールコート程度の広さがあれば、あとはゴールとボールを準備すればプレーできる。フィジカルコンタクトも厳しく制限されているスポーツなので、大人から子どもまで、男女関係なく気軽に楽しむことができる。一方で、Fリーグというプロ・フットサルリーグのチームが国内に10チーム存在する。1989年からはワールドカップも開催されている。開催回数もすでに6回を数え、2008年の前回大会では予選を勝ち抜いた本戦に20カ国が参加している。参加国がこれからますます増えていく世界的なスポーツだ。
この本を読めばわかるが、フットサルは単純なサッカーのミニ版ではない。フットサルは、バスケットボール、ハンドボール、水球を応用してルール化したスポーツである。戦術的にもバスケットボールにとても近い。ディフェンスの考え方などはバスケットボールそのものだと言ってもよい。またアイスホッケーのように、交替は試合中に自由に何度でもできるので、登録メンバー全員が試合に出場できるチャンスがある。実際の試合では、選手の組み合わせでチームカラーをつくり、戦術を立て試合を行っていく。プレーも切り返しが早く消耗が激しいので、交替なしの試合は考えにくい。戦術が勝敗を分ける知的スポーツでもある。
フットサルは足でボールを扱うという特異性はあるが、他のスポーツをしている人でも始めやすいスポーツである。最近は、各地に人工芝の専用フットサル場も増えてきた。また、フットサルをプレーできる体育館も増えてきた。そのような場所で行えば、よりいっそう雰囲気も楽しむことができ、天候に左右されることも少ない。
低予算でできるフットサルは、地域を活性化するためのスポーツになりやすい。「多種目」「多年代」を掲げている総合型地域スポーツクラブの種目としても導入しやすい。世界的には、サッカーチームをつくるほどの予算はないが、フットサルチームなら運営することができる、といった町が多く存在する。フットサルが盛んで小さな町の小さなクラブのほうが、ビッグクラブのフットサルチームよりも強いことも珍しくない。
この本はフットサルをこれから始めたい、すでにプレイをしていて一層のスキルアップを目指す人の技術書としてうってつけである。また、フットサルがどんなスポーツか知りたい人や世界のフットサル事情を知ることもできる。技術書としてだけでなく、スポーツを楽しむ人を増やすツールとしてのフットサルを知ることができる本だ。
(服部 哲也)
出版元:日本放送出版協会
(掲載日:2011-12-13)
タグ:フットサル 技術 入門 地域スポーツ
カテゴリ トレーニング
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生老病死を支える
方波見 康雄
北海道空知郡奈井江町の開業医である方波見(かたばみ)医師が書いた本。40年にわたって地域医療に尽力してきた経験を織り交ぜながら、奈井江町による開業医診療所と町立病院の連携による開放型共同利用や自身の老いについての考え方、病気体験などを綴っている。副題は『地域ケアの新しい試み』。
方波見医院では、82歳で亡くなったある患者が残した「子どもを嫌うな/自分も来た道じゃ/老人をきらうな/自分も行く道じゃ」という書を外来待合室に掲げている。本書では、この言葉を紹介したうえで「わたしたちは、世代別に分断された人生を生きていて、うかつにも自分とは違う人生の段階(ライフステージ)を見知らぬふりをして暮らしているのである」と記し、忘れがちな人生の継続性と全体における自分自身の位置づけについて再考を促す。
一読するだけで、方波見医師の患者本位の姿勢とその熱意がひしひしと伝わってくる。“このような医師に診てもらいたい”と思わずにはいられなくなる。
2006年1月20日刊
(長谷川 智憲)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-10)
タグ:医療 地域医療
カテゴリ その他
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寄りそ医 支えあう住民と医師の物語
中村 伸一
役に立つ機能から離れて
体育とは“体で育む”と読みたいものだと、しばしば本コラムでは述べてきた。体育の本質がそうあってほしいからである。“からだ”で表現し、“からだ”を見つめ、“からだの声”に耳を傾けるといった身体感覚に気づき、人と人との間に“体で”何かを“育む”ということは“体を育てる”こと以上に大切なことだという考えが頭に浮かぶ。いったい何を育むのだろう。それは“愛”であったり“信頼関係”であったり、要するに“絆”を互いの体を通して育むことだ。“からだ”をみつめるということは、“いのち”を見つめること通じることであると思うのだ。
そもそも人が体を動かすのは“心地いい”と感じる何かがそこにあるからだろう。その上に、たとえば競技での成功を目指したり、自己実現のため、健康増進・維持のため、あるいは美容ダイエット(減量)を決意してなどなど、さまざまな動機を乗せて運動やスポーツを実施している人が多いことと思う。そして、それらの運動を安全に、効果的に行うための役割を“体を育てる”体育は担っている。
このような“体を育てる”体育が重要であることは論を俟たないところであるが、この考え方に重きを置きすぎると、何らかの理由(高齢・病気・事故)で歩くことが困難になった人や、あるいは寝たきりになった人に対して“体育”は成り立たなくなってしまう。人の体力には限界があり、命にも限りがあるからだ。
いっそのこと、さまざまな“役に立つ機能”を取り払ってしまい、“心地いい”というエッセンスだけを“体育”の場に残してみると、マッサージをすることや、手を握ること、究極的には近くに身を寄せることだけでも互いの体から発せられる信号を感じ合い、その場に“体で育む”体育が成立するといえるのではないだろうか。
“寄りそう”医師
さて、本書「寄りそ医」である。私の勤める自治医科大学の卒業生、中村伸一の手になるものだ。本学は“医療の谷間に灯をともす”(校歌より)ため、へき地での医療や地域医療を支える目的で、1972年に開設された大学である。中村は、その12期生として卒業し、福井県の名田庄村(現おおい町名田庄地区)の診療所で一人常勤医師として、医師としてだけでなく包括的に村の医療を支え続けている「アンパンマン」である。
専門医が「さっそうと現れて難しい手術をこなす」「かっこいい外科医」のような「ウルトラマン」的存在だとすると、総合医は「人の暮らしに寄りそう地域医療者」であり「医療スタッフはもちろん、ジャムおじさんのような村長やカレーパンマンみたいにパンチの効いた社協局長、メロンパンナちゃんを思わせる看護師や保健師、介護職に支えられる、アンパンマン」的存在だ。しかし、「うまく連携することで両者の特性が、より活きる」ものなのである。
地域の診療所では、患者を「看取る」割合が都市部の病院に比べ高い。しかも「家逝き看取り」の割合が、この名田庄村では全国平均より圧倒的に高い。これは医師の力のみでなく、地域の福祉体制や、住民の意識などの条件がよほど揃わないと叶わないことである。医者が患者を診るという関係より、互いに“寄りそい””寄りそわれる”関係で日々の診療がなされていないと、こうはなりそうにない。
高齢者がガンなどの疾病や老衰により比較的静かに亡くなっていくとき、中村は医師として“医学”的手段を振り回すのでなく、“医療”者として(今は亡くなっている)患者とその家族に静かに“寄りそう”のである。家族もまた中村に“寄りそう”姿は、悲しくも崇高な場面である。
学生(医学部に限らない)という、生身の体を相手にする体育教師の仕事ってなんだろう。やはり“体で育む”体育の場をつくることがまず基本なのだと思う。そしてその基本を実践するためには、“寄りそう”ことがスタートであり、ゴールでもあるような気がしている今日この頃である。
(板井 美浩)
出版元:メディアファクトリー
(掲載日:2012-04-10)
タグ:体育 地域医療
カテゴリ 人生
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ご飯が食べられなくなったらどうしますか? 永源寺の地域まるごとケア
花戸 貴司 國森 康弘
医師からの問い
「ご飯が食べられなくなったらどうしたいですか?」「寝たきりになったら、病院か施設に入りたいですか?」。逆説のように聞こえるが、これは「最期まで自分らしく生きるために必要な準備」を整えておくためにと発せられる、医師からの問いだ。
本書は「誰しも迎える必然の時である」“死”を、「命を受け継ぐ」ときとして「地域まるごと」の体制で見つめ、それぞれの「人生の最終章」をよりよく“生きる”ための手助けをしようとする診療所医師の活動の記録である。
上昇志向だけでは
若いころ私は、“子どもから大人まで”“一般健常者から競技者までを対象とした健康の保持・増進を目指す”といった内容で授業を行えば、“すべての人を対象にした”体育が展開できるのではないかと考えていた。競技での成功など人生の輝ける一幕に助力することや、いつまでも元気に動ける身体づくりに対する助力といった、“体を育む”ことは、確かに体育の重要な役割の1つではあるけれど。
しかし齢を重ねるうちに、体力には限界があり、命にも限りがあること、いずれ人は老化するし病気にかかることもあること、失われた機能を取り戻すことには限界があること等々、“上昇志向”だけでは人生は済まされないということなどを考えるようになった(何を今さら...だなあ)。
一方で、マスターズ陸上というベテラン選手ばかりが出場する競技会に出るようになって、絶対的な速さだとか高さだとかいった“記録”のほかに何か別の魅力があるように感じられてきた。真剣勝負(命の交歓)であるが故の美しさ、というようなところは一緒だが、何か普通の競技スポーツとは異なった、齢をとったからこその美しさが表現されているように感じられるのである。とくに60歳を越えると、記録がどうしたとかとは異なる魅力が湧き出てくる、あるいはベテラン選手としての“味”が増してくるように思え、マスターズ陸上とはある種“芸事”と同じなのではないかと考えるに至った。
価値観が変わると世の中が違って見えるものである。すなわちベテラン選手は齢をとることで記録が“低下する”ものとして映っていた世界が、実は、精進を重ね一味違うものに“変容する”世界だったのである。競技を通じて、記録だけではない何かを育んでいるのである。
このような感覚を通して、“体で育む”体育というものを考えてみた。すると大きな可能性が体育の授業に内包されているように思えてきた。
医学部の学生という、いずれは人の最期に直面するような職業に就こうとする人たちを前にして、“教養科目”の体育とはどうあるべきかなどと考えたとき、“体を育む”ことだけでは体育という科目に行き詰まりを感じずにはいられなくなっていたところに、一筋の光明が差した気分だった。“体で育む”体育は、身体を見つめ、身体の声を聴き、身体で表現することだ。歩けなくとも動けなくとも、介護者の手技や優しい言葉に触れること、家族と手を握り合うこと寄りそうことで、様々なことを体感することができる。身体を通して絆を育むことができる。
体育の授業とは、命を見つめるものでありたいし、よりよく生きるためのヒントを学ぶ場であることができたらいいなと思う。しかしまた、学生や卒業生の姿を見るにつけ、学ばせてもらっているのは私たち教員のほうかも知れないと本音では思ったりしている。
初めての学生の一人
本書の著者、花戸貴司は、私が初めて受け持った学生の一人だ。ラグビーを愛する、立派な体躯をした元気で優しい学生だったのでよく覚えている。先日、ほぼ20年振りに再会した。何とか私のことを覚えていてくれたようで、「あ、先生! お世話になりました」などと言う。いやいやそんなことはない、あなた方から学びのヒントを山ほどもらったお陰で体育を生業とすることができているんだ。むしろ感謝するのは私のほうで、それより当時の若気の至りの授業、思い出すだけでも恥ずかしく、冷や汗を隠すのが精いっぱいだった。
(板井 美浩)
出版元:農山漁村文化協会
(掲載日:2015-06-10)
タグ:医療 地域
カテゴリ その他
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