身体感覚を取り戻す
斎藤 孝
1960年代、アメリカのカウンターカルチャーは日本にも大きな影響を与えた。
「大人がつくった社会の抑圧や管理から自分の肉体を解放していくというのが、カウンターカルチャーの軸であった。文字通りそれは、すでにある権威に対してカウンター(対抗)としての性格をもつものであった」(序章より)。
この世代が親の世代になって、「親が親らしくなくなった」。その結果、生きていくうえでの基本をしっかりと躾けるという親の役割が軽視され、身体文化も伝統の継承が行われなくなったと言う。その日本の伝統的な身体文化が「腰肚文化」なのだと言う。
著者は「身体感覚の技化」という表現もとっている。歩く、立つ、坐る、そして息の文化。自ら、身体を用いて、様々な技法を経験したうえで語っていく。明治や昭和の人々の写真も巧みに引用しつつ、21世紀の身体をみる。
現在の日本人のからだには「中心(芯)感覚が喪失」しているという言葉は、身体のみならず社会全般にも言える。からだから考える。その意味がよくわかる本。おすすめ。
B6判 248頁 2000年8月20日刊 970円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:日本放送出版協会
(掲載日:2001-03-15)
タグ:身体感覚 伝統
カテゴリ 身体
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身体感覚を取り戻す
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身体知
内田 樹 三砂 ちづる
内田樹(うちだ・たつる)氏は、フランス現代思想、映画論、武道論を専門とする神戸女学院大学教授。三砂(みさご)ちづるさんは、疫学を専門とする津田塾大学教授。この2人の対談集。副題は『身体が教えてくれること』。帯に「女は出産、男は武道!? 危険や気配を察したり、場の空気を読んだり。身体に向き合うことでもたらされる、そんな『知性』を鍛えよう」とある。
まず、女性の出産の話から始まる。お産のときはエンドルフィンハイの状態になり、産んだ直後はアドレナリンハイになっている。だから、産んですぐお母さんが「ありがとうございました」と冷静になっているのはよい出産ではない。助産婦さんの含蓄に富んだ言葉、助産婦さんと家で出産する意義を考えざるを得ない。
次に武道の話。「武道の場合だと、ほんとうにたいせつなのは、筋力とか骨の強さではなくて、むしろ感度なんです。皮膚の感度じゃなくて、身体の内側におこっている出来事に対する感度。あるいは、接触した瞬間に相手の身体の内側で起きている出来事に対する感度」(P.33の内田氏の発言)
きわめつけが以下のやりとり(P.170より)。
三砂 女性はパンツとかGパンをはいているから股に布がピタッとあたっているのですよ。それを、もう不快だと思わない。
内田 たぶんその部位の感覚がオフになっているんでしょうね。
三砂 主電源がオフになっていると思うのです。
内田 「主電源」ですか。
日常から着物で過ごす三砂さんの感覚のすごさがわかる。興味を持った人は読んで下さい。ソンはしません。
2006年4月24日刊
(清家 輝文)
出版元:バジリコ
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 感覚 武道
カテゴリ 身体
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身体の文化史
小倉 孝誠
近代フランスの文学と文化史を専門とする著者の『<女らしさ>はどう作られたのか』(法蔵館、1999)に次ぐ身体に関する著作が本書である。副題は『病・官能・感覚』。
「女性の身体とジェンダー」「身体感覚と文化」「病はどのように語られてきたか」の3部構成からなるこの本の特徴は、文学への身体論的アプローチを試みているという点である。主に近代フランスにおける身体とそれにまつわる欲望や快楽、感覚、病について、文学作品、回想録、医学書、衛生学関係の著作、歴史書、礼儀作法書などを基に考察している。日本の文学作品についても随所に出てくる。
文学において身体は常に取り上げられる要素であり、さまざまな作品を通じてその時代の身体の捉えられ方を知ることができる。病のくだりで「健康という、本来は私生活上の配慮であったものが、現代ではさまざまな行政と政治のメカニズムによって引き受けられるようになった」とあるが、そこに至る背景を読み解くうえでも参考になる。
2006年4月10日刊
(長谷川 智憲)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 フランス 感覚 文化史
カテゴリ 身体
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給食の味はなぜ懐かしいのか?
山下 柚実
副題は「五感の先端科学」(先端科学に「サイエンス」とルビが振ってある)。
さて、誤解のないように、まず本書は「給食」の本ではないと言っておこう。副題のほうが正確に内容を示している。第一部「感覚器官のサイエンス」では、味覚(伏木亨・京都大学大学院教授)、嗅覚(高田明和・浜松医科大学名誉教授)、触覚(宮岡徹・静岡理工科大学、井野秀一・東京大学助教授)、聴覚(岩宮眞一・九州大学教授、戸井武司・中央大学教授)、視覚(三上章允・京都大学教授、廣瀬通孝・東京大学教授)との対話。第二部では、「五感・クオリア・脳」と題し、脳科学者・茂木健一郎氏、臨床哲学者・鷲田清一氏との対話が収録されている。
これだけのメンバーだから面白くないはずがない。「感覚」という科学として取り扱いにくかったものが、どんどん解き明かされていく。なぜ、あるものを心地よく感じ、別のものを不快に感じるのか。文字や匂いからある色を感じたりするのはどういうことか。リラックスしたほうがなぜ感覚は鋭くなるのか。
感覚は誰にもあるが、見ても見えていなかったり、聞いても聞こえていなかったり。不思議な世界、五感は「5つの感覚」を超越していく。勉強になることも多いので、おすすめ本です。
2006年7月10日刊
(清家 輝文)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:五感 感覚 記憶 科学
カテゴリ 身体
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匠の技 五感の世界を訊く
田中 聡
幻の三代目豆腐職人
豆腐屋の長男として産まれた私は、いずれ「板井豆腐店」の三代目として豆腐職人になるはずだった。
うちの豆腐は「大豆の風味がよく生きていて旨い」と評判だったようだ。ところが時代とともに近代的機械を使った量産化の波が押し寄せ、しかしそれに乗らずに一家の手作業だけでつくった豆腐を細々と売るだけではやがて立ち行かなくなってしまったらしい。私が4歳の頃、父親が豆腐職人からサラリーマンに身を替えて家計を支えることとなり、豆腐屋は廃業するに至った。そのため豆腐屋の三代目を名乗ることはできなくなったが、逆に家業に縛られることもなくなった。お陰で好き勝手な進路へ進ませてもらうことができ、現在のような立場に身を置いて好きな棒高跳びも(たしなむ程度ですが)続けたり、学生の練習指導を(冷やかし程度ですが)することができているのである。
独特の動きとリズム
おぼろげだが、豆腐をつくっている祖父や両親の姿を、祖母に背負われてワクワクしながら眺めていたのを覚えている。大豆を茹でて擂ったものを入れた麻袋を搾ると、後にはオカラが白い固まりとなって残されている。白く濁った液体しかないと思っていた袋の中から固体が取り出される瞬間が手品のようで面白く、せがんでやらせてもらうのだが、ほんのちょっとしか搾れず麻袋はまだ水っぽくてブヨブヨしている。代わって父がやると信じられないほどたくさんの搾り汁が取れ、カラッカラのオカラが出現するのだ。また、できたばかりの豆腐が、水を一杯に張ったフネと呼ばれる容器に放たれ、ゆったりと水の中で横たわっている姿は、何か巨大な生き物が水槽で泳いでいるようで幻想的だった。そして、そのとてつもなく大きな豆腐を祖父は左手1つで自在に操り、右手に持った包丁でスイスイと所定の大きさに切り分けてしまうのである。
うちのほかにも近所には建具屋、鍛冶屋、銅板屋、のこぎり屋、床屋があって、職人のオジちゃんたちが独特の動きとリズムを持って働いている姿はいつまで見ても飽きることはなかった。
また不思議だったのは、彼らにどんな質問を投げかけても、その都度子ども心にもストンと腑に落ちる答が返ってきたことだ。この人達は皆、今している作業の行程全体での位置づけがすべてわかっていて、作業の細部を見つめたり全体を俯瞰したり、意識を自在に行き来させることができていたのに違いない。つまり、基礎を踏まえているからこそ、どんな質問がきても相手の力量に応じた言葉で答を探し出してくることができたのだと思う。
一流アスリートとの共通点
そう考えてみると、昨今の日本の一流アスリートには、上記のような職人的雰囲気を漂わせている人が多いように感じられる。競技へ取り組む態度というか、行為の認識の仕方が非常に似ていると思うのだ。 動作はどれも簡単で自動的にやっているように見えるのだが、実は一つひとつに長い年月をかけて培われた基礎があるからこそのものである。それらは、容易に真似などできっこない動きであり、淀みなく美しい立ち居振る舞いでもあるのだ。
本書は、職人的仕事を生業とする人たちはどんな身体感覚を持っているのか、「五感のいずれかが鍛え抜かれているプロフェッショナル」な超人たちの話を訊き集めたものだ。
「生業のなかで特殊なまでに鍛えられた鋭敏な」感覚を持った人たちの話がテンコ盛りに盛り込まれ、ワクワク感に満ちた一冊となっている。
(板井 美浩)
出版元:徳間書店
(掲載日:2007-08-10)
タグ:身体感覚 職人 動作
カテゴリ 指導
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ピアニストは指先で考える
青柳 いづみこ
プロの世界観は面白い
何かの“プロ”が書いた本は、分野を問わず面白いものが多い。
山下洋輔というジャズピアニストの影響だ。プロの話にはその世界に本気で身を置いた者にしかわからない感覚や独自の物の見方が反映され、未知の世界に連れていってもらえるのが面白い、というような話が確か氏のエッセイにあった。
フリージャズというジャンルのただならぬプロである氏のエッセイ集も当然面白く、登場するミュージシャンたちの波乱に満ちた日常と、それを巧みに描写する文章力。そして何よりも文章のあらゆるところにただよう知性と教養に私は完全にノックアウトされ、昼夜を問わず読んでは笑いころげたものだ。
プレーヤーの文章には、人柄だけでなくその人のプレースタイル(この場合、演奏スタイル)が出るように思う。氏の文章は、隙間が見えないほどに文字が多い。しかし絶妙の抑揚とともにスピード感にあふれ、ぐんぐん加速するように話の世界に引き込まれる。と思っているうちに急転直下、畳みかけるように話題を展開させたと思ったら猛烈な盛り上がりをみせ、時には静かにフェードアウトするような余韻をもって、終わる。読み終えた後には心地よい高揚感が残る。実によく“スィング”する。彼の音楽もまた、まさに文章から受ける印象と同じように聴こえるのだ。
同じ印象を受ける演奏
今回紹介するのはクラシックのピアニストが書いたものだ。帯には「ピアニストの身体感覚に迫る!」「身体のわずかな感覚の違いを活かして、ピアニストは驚くほど多彩な音楽を奏でる」などとある。
どうも最近、“身体感覚”とか“身体を通して考える”といった記述があると、読みたくてたまらなくなってしまうクセがある。音痴なうえにピアノも弾けない私だが、未知の世界の身体感覚を味わってみたくて仕方がない。おまけにピアノの“プロ”が書いた本だ。面白いに違いない。
著者は、ドビュッシー弾きで、同時に研究者でもあるピアニストだ(近くにいた哲学の先生に聞いた)。文章から受ける印象は、まず、リズムとテンポが心地よい。どのページも文字の配置が美しく、字面からとても軽やかで華やかな景色が浮かぶ。音楽を聴いてみると(哲学の先生からCDを借りた。クラシック通なのだ)、おぉ! 果たして、そこには文章から受けた印象と同じ! 美しい音楽が響き渡るじゃないの!
ピアニストという人たちは実にいろいろなことを考えながら演奏をしている。指使いはもちろん、腕や脚、つま先や踵といった身体の部分のこと、もちろん全身の使い方、身体とピアノとの関係のこと、さらには演奏用の椅子、会場や聴衆の雰囲気といった環境などに加え、作曲家の意思や昨今の名ピアニストによる名演の歴史まで考えたり感じていたりして弾いている。要するに、クラシック音楽の学問体系を背負って弾いていると考えられる。にもかかわらず、恍惚の表情を浮かべたり、無心のまま指はあたかも自動的に動いているように見えたりすることもあるのだ。
ピアノは競技と違って、速く弾けるほうがよいとか、大きな音で弾いたほうが勝ちとかで勝敗を決めるものではないが、これらの技術は演奏の表現力を左右することもあるためピアニストにとって重要なファクターの1つとなる。手(手のひら、手指の長さ)も大きいほうが、どうやら有利に働くようだ。
勝ち負け以前に
こうなると、「ピアニスト」を“アスリート”に置き換えて読みたくなってくる。
アスリートたちも、当然いろんなことを考えたり感じたりしながらスポーツをしている。外国人選手に比べて不利な身体特性を克服するため日々涙ぐましい努力を続けていることなど、共通点が多いように思う。出版物やブログから読みとる限りにおいて、計り知れない精神力や知性を感じさせるアスリートも数多く存在する。
その一方でアスリートの場合、教養だの科学だの品性だのを無視し、大学で何を勉強したのか、どうやって卒業したのかわからないようなヤカラでも、“プロ”になれたり、“世界”と戦えたり、“オリンピック”に出場できたりすることも、残念だがあり得る。ピアニストの場合、音楽の体系や教養を身につけることなく演奏の技術だけに優れていたとしても、大成することなどあり得ないだろう。
本書は一見難解な部分でも、確かな理論と教養に裏づけられた説明が、平易な文章で丁寧になされている。したがって、ピアノの経験やクラシック音楽の知識がなくても読むのに心配はいらない。ただし、専門的な知識や経験があったほうがより深いところに理解が及ぶであろうことは、ほかのどんな分野にも共通することとして容易に想像がつく。
スポーツを行うということは、勝ち負け以前に、身体運動を通して教養を身につけようとする行為にほかならない。才能やガムシャラな肉体的努力だけでなく、ちゃんとした教養を身につけるための努力が必要だ。そのほうが、アスリートである前に“人”としての人生が、実り多いものになるだろう。自戒の念も込めてそう思う。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2007-12-10)
タグ:身体感覚 ピアノ
カテゴリ その他
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肉体マネジメント
朝原 宣治
北京オリンピック男子400mリレー決勝での歴史的銅メダルは今なお記憶に鮮烈である。そのアンカーを務め、最近現役を引退したばかりの朝原宣治氏による新書。
本書は、北京での予選が終わってからの「重圧」の模様から始まる。タイム的には3位に入れる。逆に言えば、失敗できないというプレッシャー。アメリカ、イギリスなどがバトンミスで失格となる幸運はあったが、目の前にメダルは見えていた。そこからアンカーとしてバトンをもらいゴールを駆け抜けるまでの描写は読んでいるほうも「心臓がバクバクする」くらいである。
朝原氏は、中学ではハンドボールで全国大会に出場、陸上競技は高校から始めた。以来同志社大学を経て大阪ガス入り。そこまでコーチはついていなかった。社会人になり、ドイツへ留学、その後アメリカに移った。いずれもコーチについた。途中、足関節の疲労骨折を起こし、大きなスクリューを2本入れた。そうした経験から、コンディショニングでもレースでも「感覚」を重視する姿勢が生まれる。トップアスリートの生の声が聞ける1冊である。
2009年1月30日刊
(清家 輝文)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2012-10-13)
タグ:陸上競技 感覚
カテゴリ 人生
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トップ・アスリートだけが知っている「正しい」体のつくり方 パフォーマンスを向上させる呼吸・感覚・気づきの力
山本 邦子
身体のことを学ぶことは不可欠
アスレティックトレーナーを志して進学してくる学生たちでも、高校までの教育課程で人体解剖学や人体生理学を本格的かつ具体的に学んできたものは少ない。以前からこのことは不思議に感じていた。小学校、中学校、高校の授業でヒトの身体の成り立ち、つまりは自分の身体の成り立ちを段階的に学ぶことは、生きる上で不可欠ではないかと考えるからだ。骨格系や筋系など運動器についても、その構造を知りその機能を理解することは、自分の身体を意識し運動感覚を研ぎ澄ます上で重要な意味を持つように思う。確かに己の構造を知らなくても鳥は大空を羽ばたき、獣は疾走して獲物を仕留める。本能というものは知識を凌駕するので、余計な情報は却って本来の動きを見失わせるという見方もあるだろう。それでもヒトにおいて主観的感覚と客観的感覚とを併せて自らを内観し得られることは多いはずだ。
さて本書では、プロゴルファー宮里藍選手をはじめ様々なアスリートをサポートするアスレティックトレーナー(NATA-ATC)であり、A-Yogaの主催者でもある山本邦子氏によって自らの心身との対話法について語られている。スポーツの現場やアスリートをよく知る著者が、ヨガを軸に呼吸や身体を動かす感覚について解説し、またそれらのあり方をどのように気付き、どう正すのか、観念論だけでなく、解剖学や生理学的情報も織り込みながら解説している。アスリートを対象とした高度なスポーツ動作ではなく、普段自然に行われている呼吸や日常的な当たり前の動作を見直すことに重点を置き、それらを通じて身体を正しく使うためのヒントを散りばめてある。
呼吸のコントロールから
ヒトが呼吸を止めて生きていられる時間はごくわずかだが、その呼吸のあり方を日常でどれだけ意識しているのだろう。質の高い呼吸と言われても、実感が湧かないヒトの方が多いように思う。しかし、自律的な統制を受けている生命活動も、身体に現れる変化をフィードバックして安定した状態を保とうとする以上、間接的にある程度のコントロールは可能なはずであり、呼吸はそのきっかけになるわかりやすい活動なのだ。心臓を随意的に止めたり動かしたりすることはできないにしても、呼吸の仕方次第で心臓の拍動を落ち着かせたり興奮させることができる。様々なストレッサーにさらされている中で、たとえば深い腹式呼吸で交感神経の興奮が抑えられ、副交感神経を優位にし、ストレスホルモンの分泌をも低下させるとすれば、まさに呼吸が変われば身体の状態が変わり、ひいては感情が変わるということにもなる。
さらに解剖生理学の知識をも盛り込めば、より具体的なイメージを意識できる。呼吸も空気を肺に取り込むだけではなく、取り込んだ酸素を赤血球中のヘモグロビンに結合させて血流に乗せ、全身の酸素を必要とする細胞のひとつひとつに到達させ、さらにその中のミトコンドリアにまで届けてATP合成に利用するというビジュアルイメージを持つと、より効果的な呼吸になり、血流が促進され、酸素摂取量にまで影響を与えるのではないかとさえ思える。
意識を行き渡らせる
自分の姿勢や当たり前の動きのあり方についても、忙しない日々に追われて余裕がないのか、そんなことを考える方がおかしな奴だと考えるのか、細かく意識するヒトは少ないように思う。ただ、ほんの少しの意識を向けるだけで、立つ、座る、寝る、歩く、階段を登り降りる、走るなど日常生活の様々な動きに好ましい影響を及ぼすはずだ。意識すれば身体の使い方は必ず変わる。そこに解剖生理学的知識があればなおさらだ。通学中や通勤中にただ移動手段として歩いている場合と、腸腰筋をはじめとする股関節屈筋群、殿筋群や内転筋群をより意識し、足を出すというより骨盤の回転を意識しながら大きく踏み出し蹴り切るだけで動きは全く異なるのだ。加えて体幹を安定させながら呼吸を意識することも、できるなら肩甲骨の動きを意識して腕を振ることも忘れない。もちろんごく自然に正しい動きができるようになる方がいいだろうが、自分の動きのありように気付きそれを改善するためには、まずは指の先まで意識を行き渡らせることが必要だと思う。
自分の身体と対話を始めるきっかけに、本書で紹介されているようなヨガというアクティビティは有効だと思う。ただ方法はひとつではない。たとえば私の場合は空手であり、ウェイトトレーニングを含むさまざまなトレーニングだ。ウェイトトレーニングを好ましく思わない向きも一部で見られ、本書でも問題点は指摘されている。しかし、正しく行われなければ有害であるのは、何事にも共通していることだ。健康に有用な栄養素も摂り過ぎれば毒になる。要はいいさじ減で行うことだ。
空手の形についても実践に向かないと否定する人々もいるようだが、私は形を相手を想定しながら自分の身体と対話することだと捉えている。さらに心のあり方も形のできばえに影響を及ぼすので、心身の鍛錬のために空手に取り組んでいるのならなおさら重要となる。バイオメカニクスの基礎知識も活用しながら時にゆったりと、時に全力で形をなぞると、呼吸の重要性を意識し、自分の心の状態を捉え、自分の身体の動かし方を磨くことができるのだ。こうした鍛錬を通じて日常生活の中でも自分の心身のありようを整えることができる。どのような方法を取るにせよ、普段の生活の中で外見を飾り立てることだけに傾注するのではなく、内面に目を向け己があるべき状態に整えようとする意識は、アスリートだけに必要なことではなく、万人にとって意義のあることだと感じる。
(山根 太治)
出版元:扶桑社
(掲載日:2016-01-10)
タグ:呼吸 感覚
カテゴリ 身体
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近くて遠いこの身体
平尾 剛
どのように共有するか
著者は元ラグビー日本代表で、現在は大学の講師。スポーツ教育学と身体論が専門で、「動きを習得するために不可欠なコツやカンはどのように発生するのか、そしてそれを教え、伝える(伝承する)にはどうすればよいかについて思索しています。」とのこと。タイトルにも惹かれて本書を買ったのだが、残念なことに、これについて全くと言っていいほど触れられておらず、著者自身の回顧録のような内容である。オビの推薦文にあるように、本書の内容(=著者の経験知)が「パブリックドメイン」として共有できるとも思えない。感覚も身体の動きも人によって千差万別。たとえトップ選手の感覚であっても、それを共有し、他人が自分の経験知とすることができるものなのだろうか。
「身体能力を高めたい僕たちが本当に知りたいことは、そこに至るにはどうすればよいかという方法論である。でも残念ながらそんな方法論は存在しない。自らが試行錯誤しながら身体を使い続けるなかでの体感を、ひとつ一つかき集める以外に、そこに至る方法はないだろう。」と本文にある。ということは、結局、自分であれこれ試してみるしかないということなのだ。そこに先人の経験知を共有していれば、その試行錯誤の方向性が定まりやすいということはあるかもしれない。だが問題は、それをどうやって共有するか、ということだ。
伝えるために必要なもの
本書で、漫画「バガボンド」について触れられている。吉川英治著『宮本武蔵』を原作とする人気長編漫画である。著者曰く「身体論の研究にはもってこいの書」だそうだ。そこで私は、司馬遼太郎著『北斗の人』を連想した。
幕末に隆盛を誇った「北辰一刀流」の開祖・千葉周作が主人公の歴史小説である。司馬曰く「北辰一刀流がなければ、幕末の様相も多少変わっていただろう」というほどの革命的な流派だそうだ。「『他道場で三年かかる業(わざ)は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る。五年の術は三年にして達する』という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町さきまできこえわたって空前の盛況をきわめた」というほどであり、その特徴は「凡才でも一流たりうる」という独特の剣術教授法であった。そして千葉は、剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場で新しい体系をひらいた人物なのだそうだ。
一方、武蔵が開いた「二天一流」は幕末期には衰退していた。武蔵が記した「五輪書」にも刀の持ち方とか足さばきとか、具体的なことが書いてあり、摩訶不思議な言葉を並べているわけではない。たとえば「太刀の取様は、大指人さし指を浮けて、たけたか中くすしゆびと小指をしめて持候也」という具合である。しかし、この違いはなんだろう。時代背景も違うし、流行が流行を呼んだということもあるかもしれない。そもそも2人の剣豪を比較するつもりもないのだが、ここで私が考えたいのは「凡人でも一流たりうる」ためのコツやカンを、他人に伝えることは可能なのかということである。
本書にあるとおり「言葉を手放し、『感覚を深める』という構えこそが、運動能力を高めるためには必要」であり「『感覚』を拠り所にすれば、そこには努力や工夫の余地が生まれる」のだとしても、その感覚や経験知を伝えるためには結局言葉や方法論が必要なのではないか。
ブルース・リーは映画『燃えよドラゴン』(1973)で「Don’t think! Feel!」と有名なセリフを言ったが、実際には「感じろ!」だけではコツやカンを伝えることはできない。もっとコツやカンとは何ぞやということを掘り下げないと、それをどう伝えるかも考えられない。
本書に紹介されているエピソードに興味深いものがある。ラグビーの強豪ニュージーランドの20歳以下の代表チームと対戦した際に著者が経験した「狩るディフェンス」だ。わざと走り頃のスペースを空けて走りこませ、挟み撃ちにするのだ。ニュージーランドのラグビーの中でその技が伝統として継承されているという。メンバーの入れ替わる代表というチームで、阿吽の呼吸が必要なこういうプレーがどのように伝承されているのか。イメージなのか感覚や経験知なのか。ここにコツやカンとは何か、どう伝えるかというヒントがあるように思う。とても興味深いテーマに挑んでいる平尾氏の続編を期待したい。
(尾原 陽介)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2015-04-10)
タグ:身体感覚 ラグビー 教育 コツ カン
カテゴリ 身体
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近くて遠いこの身体
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見えないスポーツ図鑑
伊藤 亜紗 渡邊 淳司 林 阿希子
「たとえ話」の活用
コツやカンといった実践知を獲得し、エキスパートとなるには長い年月が必要である。そしてその実践知は、明示されてない暗黙知であることが多い。しかもそれは、厳密にはその本人だけにしか当てはまらない。プレーヤーであれば、それをどう自分に取り込むか、指導者であればどう選手に伝えるか。ということを解決する1つの手段として、たとえ話が用いられてきた。
カヌーイストの野田知佑氏のエッセイにオールの漕ぎ方についてのコツが書いてある。氏が大学のボート部で、たとえ話のうまいコーチに教わったコツだそうだ。ボートやカヌーではオールを水に入れて水をつかむ動作をキャッチというのだが、初心者には難しい。オールを下手に水に叩き込むと、水を割ってしまい推進力にならない。うまく水をつかむコツは、「キャッチは女の尻をなでる時の要領でやれ、お前ら、ワカッタカ」だそうである(『のんびりいこうぜ』より)。いや、今ならこれは問題になりそうだが、1938年生まれの氏の大学時代のことなので許されたい。
しかし、たとえ話というのはそれを受け取る側にも相応の知識と経験がいる。「当時、僕のクルーは全員、純真無垢の正しい青年がそろっていて、女の尻はおろか手を握ったこともない奴ばかりでさっぱりワカラナイ。みんなで顔を見合わせて途方に暮れたものである。それで練習中フネを止めて真剣な顔つきで前の座席で漕ぐ奴の尻をなでたりした。知らない人が見たら、きっと誤解したと思う」ということになってしまう。
アスリートの感覚を“翻訳”
本書『見えないスポーツ図鑑』の取り組みは、視覚障害者とスポーツ観戦をする方法を探るところから始まった。そこから、トップアスリートの感覚を“翻訳”することで、初心者もそれを味わえるようにすることへと派生する。それを本書では「一つの道を究めた先人がいる道を、少しだけ同じ感覚で歩かせてもらうためのショートカットを作りたい」「私たちの身体感覚に新しいボキャブラリーをもたらしてくれる」「トップアスリートの感覚をインストールする」などと書かれていて、これはなかなかよい表現だな、と感心した。
“翻訳”のコツは、見た目を離れることと抽象化すること。前者は「非日常的な競技を、競技以外の動きに置き換えて伝えること」、後者は「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する、ある種の“見立て”」である。これは、とくに指導者であれば常にぶつかっている問題だと思う。たとえを使ったり、擬音を使ったりして、どうにかして感覚を伝えようとするが、うまくいかないことの方が多い。
その感覚を、手近なものを使って疑似的に体験してみよう、というのが本書でいう“翻訳”である。紹介されているのは10種目。ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球。その内容は、そのままウォーミングアップとして使えそうなものもあるし、練習の合間の休憩時間にレクリエーションとして楽しめそうなものもある。もちろん、その種目の全てを“翻訳”できるわけはない。そして「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する」というのも、言うのは簡単だが、大変難しい。それでも楽しそうに、各種目のエキスパートと著者らがああでもないこうでもない、と言いながら、それぞれの種目のオイシイところが次第にクローズアップされていき、一応の形になるまでの過程はとてもおもしろい。
“翻訳”するなら
私は小学生に陸上競技を教えているのだが、私だったら、陸上競技の何を“翻訳”するだろうか。私が陸上競技に触れたのは小学校5年生か6年生の頃だ。走るのが速く、市内の小学校対抗の陸上大会に選抜メンバーで選ばれたのがきっかけだったと思う。それ以来、陸上競技との関わりは続いているが、何が楽しいのだろうと掘り下げて考えてこなかった。工夫して記録を伸ばすところが私の性にあっていて、やっている本人は楽しいのだが、そういうことではないんだよな。子どもたちに、陸上競技のここがオイシイところだよ、とアピールする材料が思い浮かばない。指導者でなければ、自分が楽しいからやっている、で問題ないのだが、仮にも指導者を名乗るのなら、その辺りの自分の考えを持っておくべきだろう。
自分の競技者や指導者としての実績に自信を持てないから、教え方のスタンスも定まらないのかもしれない。かといって、自信満々の指導者もイヤだなぁ。
(尾原 陽介)
出版元:晶文社
(掲載日:2021-04-10)
タグ:感覚
カテゴリ 身体
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見えないスポーツ図鑑
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動く骨(コツ) 野球編
栢野 忠夫 岩崎 和久
体幹内操法について、対談を中心としてカラー写真の資料を多用して解説されている。同タイトルの書籍を野球をテーマにムック化したものである。あらゆる動作の基本は、三原色と呼ばれる屈曲・伸展・側屈であるという。頭部、胸部、下腹部の3つの球を意識し、それの中心を結ぶ軸の5本の軸(体幹内と四肢)を感じ取れるようになってくると、動きの質が高まるという。対談では、野球の指導者が、身体操作の真髄について語り合っている。動きを見ながら実践できる50分のDVDが付属している。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:スキージャーナル
(掲載日:2008-08-10)
タグ:野球 身体感覚
カテゴリ 身体
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肉体マネジメント
朝原 宣治
通勤途中の人混みの駅で、傘を横にして振りながら、また大きなカバンを張り出して歩いている人を時折見かける。彼らは自分の持ち物に感覚受容器をはりめぐらしておらず、移り変わる周りの状況を情報として処理していないのだろう。こうした人々は自分の身体の動きにも鈍感なのだろうか。反対に自分のことしか感じられないのだろうか。このような些事からも、アスリートの立ち居振る舞いとは普段の生活の中でどうあるべきなのかなどと、ふと考えてしまう。一般的な運動理論や技術論で説明がつくことも多いだろうが、他人が感じ得ない己の身体感覚を研ぎ澄まし、より高い境地を目指すためにはどのような考え方が必要なのだろうか。
本書は北京オリンピック400mリレーの最終走者としてオリンピック男子陸上で日本人初となる銅メダルを獲得した朝原宣治氏によるものである。短距離選手として驚異的と言うべき長期に渡り日本の陸上界を牽引してきた一流のアスリートが、体験談を通じてその考え方を披露している。タイトルは「肉体マネジメント」とあるが、その具体的な各論が万人向けに詳しく紹介されているわけではない。100mを誰よりも速く走るという、極めてシンプルな競技の道を究めんとした自身の心構えがわかりやすく書かれていると捉えたほうがよいだろう。
「自分がわからないことについては、人にアドバイスを求め」、しかし「それを鵜呑みにするのではなく、自分なりに理解し、咀嚼することで初めて自分の身につく」という原則に従い、「自分の肉体マネジメントは自分で」しながら「自分を実験台にして楽しんでいた」という。プロアスリートにとっての、いや何かの道を究めんとするすべての人々にとっての黄金律だろう。それでも、己を磨く過程は、競技場の内外にかかわらず生活の大部分をそのために捧げる「修行」である。命を削る「苦行」と感じることも少なくなかったはずだ。過酷な世界でこれほど長期にわたってそれを「楽しめ」たのは、「自分」の強靱さもさることながら、家族や仲間というかけがえのない存在を抜きには考えられなかっただろう。
朝原氏が北京オリンピックで個人種目では予選落ちしながら、リレーでメダルを獲得したということに私の勝手な思い込みをこじつけてみる。陸上は自分との戦いと言われるが、人はやはり誰かのために戦うときに力が出せるのだろう、と。またそんなときにこそ、勝利の女神は微笑むのだろう、と。
北京オリンピック400mリレー決勝を前にして、サポートする人々の思い、陸上界の先人たちの思い、家族の思い、さまざまな思いは、確かに「もう一度背負うのはしんどい」と感じさせるプレッシャーとなって4人のランナーに襲いかかったのだろう。それが第1から第3走者を務める塚原選手、末續選手、高平選手の、自分たちが憧れ追い続けてきたアンカー走者である朝原選手への強烈な思いに昇華されていったのだろう。そしてバトンとともにそのすべてを受け止めたからこそ、朝原選手は、あの最後の100mに自らが長い間望んで得られなかった境地に達したのだろう、と。
いや、あれこれ想像するのもおこがましい。それはただ現実に起こり、それを目にした人々に言いようのない感動を与えた、というだけで十分だ。それに、メダルが取れるか取れないか、また何色をとるかで雲泥の差だということも理解するが、己の選んだ道をただひたすら誠実に極めんとする人間は、それがどんな道であれ、その結果がどうであれ、格好いいのだと憧憬の念を持ってそう思う。
(山根 太治)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2009-05-10)
タグ:陸上競技 感覚
カテゴリ 人生
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