体験教育が日本を救う
高山 修
著書は長年教育に携わってきた。生きる力のもとになる「思考力」「判断力」「表現力」などは、具体的な体験活動、すなわち自分の目で見て、手で触れて、体で感じるという実体験を通して意識化され、広く深く養われるものであるという著者の信念がまとめられている。子どもの発育発達にスポーツが欠かせないということが強調して述べられており、全8章中、3章を費やして書かれている。発達段階に応じたスポーツの取り入れ方がわかりやすく紹介されている。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:日刊スポーツ出版社
(掲載日:2010-01-10)
タグ:教育 体験
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:体験教育が日本を救う
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
体験教育が日本を救う
e-hon
もっともっと運動能力がつく魔法の方法
宮下 桂治 東根 明人
コーディネーション能力とは、「体をたくみに動かす能力」のことを言い、その能力を伸ばす運動がコーディネーション運動です。多くの場合運動神経がよいと言われる人はこのコーディネーション能力が高いことが多いです。運動神経は遺伝と考えられていることが多いですが、コーディネーション運動で刺激することによって伸ばすことができます。
実践編ではイラストがついており、一目でやり方がわかるようになっています。詳しい方法や実施する際のポイント、その種目の変形バージョンの紹介もあり、誰でも簡単に運動が実施できるように配慮されています。
また、走る、跳ぶ、投げるといった基本動作を向上させるための運動やマット運動などの体育の授業で行う運動、サッカーや野球などスポーツ競技能力を向上させるための運動、親子でできるコーディネーション運動など、さまざまな目的に合わせたコーディネーション運動が数多く紹介されています。
この本を読んで、“運動は生きる力を高める”という内容にとても共感できました。スポーツや運動は明確な目標を設定しやすく、達成感を実現しやすいことが大きな特長です。目標を設定し、努力して目標をクリアしていく。目標をクリアすることで得られる喜びや達成感がさらに上のレベルに挑戦しようという気力を生み、その向上心が生きる力を高めることにつながります。この一連のサイクルをたくさん経験して、自分の能力をブラッシュアップさせる方法を学べることがスポーツや運動が持つ教育的な側面だと思います。
コーディネーション運動は簡単な動きから複雑な動きまで幅広くあります。そのため個人の習熟度に応じた目標設定が可能です。目標を1つずつクリアしていくごとに子どもたちの気持ちがはずんでいき、新しいことに挑戦しようという気持ちがどんどん高まっていくでしょう。コーディネーション運動は身体能力と人間形成、心と身体の両面を高める有効なツールの1つになりうると思います。
(坂口 丈史)
出版元:主婦と生活社
(掲載日:2011-12-13)
タグ:トレーニング コーディネーション 運動能力 教育
カテゴリ トレーニング
CiNii Booksで検索:もっともっと運動能力がつく魔法の方法
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
もっともっと運動能力がつく魔法の方法
e-hon
子どもにスポーツをさせるな
小林 信也
衝撃的なタイトルである。著者の小林信也氏が「30年以上にわたってスポーツの世界で仕事をしてきた」作家だと知ればなおさらかもしれない。
だが、スポーツが視聴率主義、商業主義、勝利至上主義などでがんじがらめになっており、取り組む目的やそこから何を学ぶかが置き去りになってしまっている現状が、ゴルフの石川遼選手から氏の住む武蔵野市の中学校まで幅広い実例を交えて繰り返し述べられているのを読むと、氏が心からスポーツを敬愛し、だからこそ危機感を抱いていることが伝わってくる。
マスメディアや関係者が視聴率や利益の獲得を目指す際、意図してか意図せずかスポーツの本質には触れられない。第五章「あたらしいオリンピックの実像」内で東京五輪招致について言及した部分では、日本国民、の前に東京都民であっても招致に向けた流れに乗りきれない、どこか他人事のように思える不思議さや違和感の正体はこういうことだったのかと気付かされた。
とは言え、本書はマスメディアに疑問を呈することが目的ではない。視点はあくまで現場に携わる作家より上にはならない。それは、小林氏が小学生の息子さんとともに、現在進行形で、自らの身体を動かしてスポーツに取り組んでいるからではないだろうか。
通読すると、“スポーツをさせるな”というタイトルは、親を含む大人がさまざまな思惑を持って子どもにスポーツを“させる”のではなく、子ども自身が楽しいから、好きだからスポーツをする。もしくは子どもとスポーツをしよう、ということを表しているのではないかと思えた。
(北村 美夏)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2011-12-13)
タグ:スポーツ報道 野球 ゴルフ サッカー 五輪 教育
カテゴリ スポーツ社会学
CiNii Booksで検索:子どもにスポーツをさせるな
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
子どもにスポーツをさせるな
e-hon
「運脳神経」のつくり方
深代 千之
決定づけられたイメージってあるもので、ガリ勉タイプの秀才はどこかひ弱で運動をやらせたらまるでダメ、反対にガキ大将タイプといえば勉強はできないけれど運動会になると一躍ヒーロー。漫画の登場人物なんかでいうと、このパターンはお決まりみたいになっているようです。「天は二物を与えず」といいますが、人間にも長所もあれば短所もあり、完璧な人間などいないというテーゼみたいなものがあり我々もそれに納得していました。
ところがそうではないようです。「運動ができる子供は勉強もできる!」という帯の文章が本書のテーマです。
まず運動も勉強も脳でするのであり、習得の仕方も同じで、誤った固定観念が邪魔して努力する機会を奪ってしまったがための結果であると筆者はいいます。運動は筋肉の活動であるのは事実ですが、運動を記憶するのは筋肉ではなく脳であるからという論理は言われてみればなるほどと思います。勉強も運動もやればやるほど、脳の中のニューロンが活発に活動し、脳が活性化されるという点に関しては全く同じなんですね。
考えてみれば、英単語の記憶をする際にも何度も何度もノートに書き身体を使って覚えたほうが、単語帳を見ているだけよりもしっかり記憶できた覚えがあります。勉強も身体を使ったほうが有効にできるというのも運動と同じこと。
それでも現実に立ちはだかるのは「うまい(上手)」「下手」の問題。いい理論でも机上の空論では値打ちはありません。その大きな問題があるからこそ具体的な方法論が必要なのです。「運脳神経」という筆者の造語で、巧みな動きを脳の中にストックする方法を紹介しています。「運脳神経をつくる7つのルール」と題して必要な事項はきちんと書かれています。
もちろんこの本を読んだだけで運脳神経ができるわけではありません。そこはやはりそれなりの努力が必要なのですが、後半からは基本運動の重要性が説かれ、次に運動に必要な要素を解説し、段階的に運脳神経の育成を図ります。
丁寧な説明でとてもわかりやすいのですが、その内容はいい加減なものではなく意外と本格的なもの。覚えておきたいエクササイズもたくさんありました。小学生のお子さんをお持ちの親御さんに読んでいただきたいですね。
(辻田 浩志)
出版元:ラウンドフラット
(掲載日:2011-12-13)
タグ:教育 トレーニング
カテゴリ トレーニング
CiNii Booksで検索:「運脳神経」のつくり方
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
「運脳神経」のつくり方
e-hon
子どもに「体力」をとりもどそう まずはからだづくりだ!
宮下 充正
子どもの体力低下というのは最近と思われている方も多いようですが、実は20年以上前から指摘され続けてきたことです。本書は子どもの世界的傾向から、子どもの成長について、また、その成長に合わせた指導者としての役割について書かれています。
私自身が子どもと関わる機会が多く、子どもの運動能力低下の要因の1つとして、環境的な要因の大きさを感じています。大人となって感じることですが、子どものときにできた動作は大人になっても個人差はありますが、案外できるものです。しかし、やったことのない動作というのはまったくといってできないものです。やはり、「子どもに対してより多くのことを教えてあげること」が大切です。
土台となるあるべき姿から子どもがありたい姿へと導ける指導。子どもに関わる指導者はもちろん、保護者の方にも読んでいただきたい1冊です。
(大洞 裕和)
出版元:杏林書院
(掲載日:2011-12-13)
タグ:指導 体力 教育
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:子どもに「体力」をとりもどそう まずはからだづくりだ!
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
子どもに「体力」をとりもどそう まずはからだづくりだ!
e-hon
運動も勉強もできる脳を育てる 「運脳神経」のつくり方
深代 千之
学生時代は運動が得意なほうでもなく、ボールの投げ方やバットの振り方、受身の取り方がよくわからなかった。“運動神経がない”という簡単なコトバで終わらせていた過去の自分。そのときに、この本に出会っていたら、どうなっていただろうと勝手に想像しワクワクしていた。
タイトルにある「運脳神経」とは著者がつくった造語である。普段の生活で行う動きやスポーツのときに行うダイナミックな動作など全ての動作は脳が司っている。また、運動神経は誰にでもあり、“運動神経がない”ということはない。しかしながら、過去の私のように誤った言葉の使い方や意味の捉え方をしている人がいる。「運脳神経」にはそういった運動神経という言葉が意味する誤解や誤った考えを避けたいという著者の願いがこめられている。
運脳神経をつくるルールやバランスチェック、実践方法が記載されている一冊。
(大塚 健吾)
出版元:ラウンドフラット
(掲載日:2011-12-13)
タグ:教育 トレーニング
カテゴリ トレーニング
CiNii Booksで検索:運動も勉強もできる脳を育てる 「運脳神経」のつくり方
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
運動も勉強もできる脳を育てる 「運脳神経」のつくり方
e-hon
アスリート留学 in USA
栄 陽子 滝沢 丈
アメリカの大学生がスポーツ選手として、どのように考え、どのように生活を送っているかが、詳しく書いてある。また、全く留学について知らなくても、アメリカの大学について、どのように入学し、生活を送り、卒業するかという過程がわかりやすく解説してあり、イメージしやすくなるだろう。
本文は大きく基礎編と実践編に分かれている。
基礎編では、アメリカ人の大学に対する価値観からアメリカの大学がスポーツのレベルでどのように分類されているか、アメリカで学生アスリートとなるために何が必要かを大学名や実際の金額を出して分かりやすく示している。
実践編では、スポーツ部入部のためのノウハウ(野球、ソフトボール、バレーボール、ゴルフ、サッカー、水泳について、自己紹介文、トライアウトの方法など)、各競技レベル(division)の大学におけるスポーツ設備やアスリートへの対応、入部した後のアスリート留学生のスケジュールが具体的に書かれている。また、最後に留学体験記や資料として、アメフトや野球等で毎年米ランキングの上位に上がってくる大学の資料もついている。
アメリカの大学は入るよりも出るのが大変ということは耳にしたことがあったが、この本にもそのことについて随所に示されている。成績や単位数によってスポーツ活動の制限だけでなく退学も余儀なくなされてしまう。アメリカの大学がアスリートも一学生として育てるという意識の高さが感じられた。アスリート・留学を目指す人のみならず、日本の大学・高校の関係者にもぜひお勧めしたい1冊である。
(服部 紗都子)
出版元:三修社
(掲載日:2012-01-18)
タグ:留学 教育 ノウハウ
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:アスリート留学 in USA
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
アスリート留学 in USA
e-hon
いじらない育て方
元川 悦子
スポーツライターである著者が、遠藤保仁がどのように育てられたのかについて、彼を育てた両親、チームのコーチたちへのインタビューをまとめている。
「国際経験は子どもを大きく変える」や「希望の進路は最大限サポートする」といった、コーチが選手を、親が子を育てるときの29のヒントが書かれている。
その中には「子供の成長だけが(親の)自己実現になっていないか?」といった保護者への問いかけもなされている。必ずしも親やコーチだけが育てる側ではない。我々指導者側も育ててもらっているということが感じ取れる一冊となっている。
(大塚 健吾)
出版元:日本放送出版協会
(掲載日:2012-02-07)
タグ:サッカー 教育
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:いじらない育て方
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
いじらない育て方
e-hon
スポーツ子育て論 わが子の潜在力を開花させる
遠山 健太
著者は全日本フリースタイルスキーのモーグルチームにトレーナーとして強化を担当している。日本におけるトップ選手の育成やスポーツそのもののあり方をふまえて、子どもが育っていく環境をどのようにすべきかを示している。教育という観点、子どもを持つ父親としての観点も含まれている。
本書のメッセージは、最初から型にはめるのではなく、子どもと一緒に遊び、いろいろな動きをさせること。これが子どもの潜在的に持っているものを開花させるために重要であるというもの。話題は多岐に渡るが、指導者や親の立場で、判断に迷ったときに視点を提供してくれるだろう。トレーナーがどのような仕事をしているかについて、あるいは地域おこしという視点でスポーツと関連づけている部分もあって興味深い。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:アスキ-・メディアワ-クス
(掲載日:2012-10-10)
タグ:教育 ジュニア 成長 子育て
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:スポーツ子育て論 わが子の潜在力を開花させる
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
スポーツ子育て論 わが子の潜在力を開花させる
e-hon
ハーバードの医師づくり
田中 まゆみ
副題は「最高の医療はこうして生まれる」。著者は、京都大学医学部、同大学院などを経て、マサチューセッツ総合病院(MGH)とダナ・ファーバー癌研究所でリサーチフェロー、MGHで内科クラークシップを経験した。
この本、名にし負うハーバードの話と、あまり深く考えないで読み始めたが、どんどん引き込まれ、読んだあとは、「どうも、倫理自体もアメリカに教えられるようになったか」と思った。
ことは医療の話である。「医師づくり」と書名にあるが、書かれていることは医療をどうするかという問題にほかならない。これはアメリカの医療、その教育システム改革の話と言ってもよい。「医師づくり」つまり、教育とその教育を支える理念、またその倫理感の徹底ぶりがすごい。「教授」は権威や権力を振りかざすことなく、教えること、相手が学ぶことを大切にする。患者にはすべてを正直に話す。ミスを犯したら、「私たちはミスをしました」ときちんと説明する。いかなる患者もいかなる理由でも差別されない。その他、様々なことを知っていくにつれ、ここまでやるかと思う。
だが、ハーバードやMGHも過去はそうではなかった。すべては変革の努力の結果である。またよりよい医療を提供する努力が今もなされている。世界一力のある国が医療の分野で何をしているのか、この本は医療関係者にはぜひとも目を通しておいていただきたい。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:医学書院
(掲載日:2002-06-15)
タグ:海外情報 ハーバード 医療 医師教育
カテゴリ 医学
CiNii Booksで検索:ハーバードの医師づくり
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
ハーバードの医師づくり
e-hon
感受性を育む 現象学的教育学への誘い
中田 基昭
本書においては、神谷美恵子ほか、そしてサルトル、ブーバー、メルロ‐ポンティ、ハイデッガー、フッサールの思索を紹介しながら、段階的に「感受性」に迫っていく。
著者は教育実践の場に関わりながら、知的障害をこうむっている子どもたちの他者関係、あるいは小学校における教師と子どもたちの関係を現象学に基づいて解明するということを研究テーマとしている。先人の言葉を手がかりにしながら、意識とは何か、身体とは何かという問いを深めていくのである。この深みのある読みから導かれるものが、読み手として抱える問題と、うまくリンクした瞬間、読み手自身の立ち位置とそれを取り囲む構造が立体的に意識できるようになる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:東京大学出版会
(掲載日:2009-01-10)
タグ:教育 感受性 現象学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:感受性を育む 現象学的教育学への誘い
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
感受性を育む 現象学的教育学への誘い
e-hon
ルールはなぜあるのだろう
大村 淳志
副題が重要で「スポーツから法を考える」。著者は、東京大学法学部教授で、法教育推進協議会委員(座長)も務める。全体は、「父と子」の対話形式で進められる。全15日の対話で、「スポーツと法の関係を見てみよう」「ルールはどんな性質をもっているのだろう?」「スポーツは何を求めているのだろう?」「スポーツと法から社会を見てみよう」の4部構成。
著者は、あとがきで、こう記している。「スポーツを語るのは法を語るということにほかならない。スポーツをモデルとして法をとらえてみよう。こうした考えに立って本書が提示しようとしたのは、個別のルールの内容ではなく、スポーツとは何か、法とは何かということであった。そして、スポーツを通じて、法を通じて、人はどのように生きるかということであった」
また、著者は、スポーツ活動は非常に重要な法教育の場となりうるとも言う。「正々堂々」「公平」「相手に対する考慮」など「スポーツマンシップ」とも関係してくる。「スポーツと法」というと硬く、また難解なテーマに聞こえてくるが、このように、実は関係の深い両者について語ったものである。「そうか法ってそういうものか」と同時に「スポーツはだからこうなってるんだ」とわかる本。
2008年12月19日刊
(清家 輝文)
出版元:岩波書店
(掲載日:2012-10-13)
タグ:法律 法教育
カテゴリ 法律
CiNii Booksで検索:ルールはなぜあるのだろう
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
ルールはなぜあるのだろう
e-hon
スポーツ障害から生き方を学ぶ
杉野 昭博
「自分のやるべきこと」
もう10年近く前になる。全国高校ラグビー大会3回戦、ある高校のキャプテンが膝の靭帯を完全断裂した。徒手テストだけでも以降の試合への出場は絶望的だった。病院での検査後、そのチームのトレーナーは涙を流す彼を真っ直ぐ見つめこう言ったという。「自分のやるべきこと、わかってるやろな」。彼は言われるまでもないと力強く頷いた。2回戦ですでにエースプレイヤーを骨折で欠いていたそのチームは、次の準々決勝で昇華したといってよい状態に高まった。そして、その大会でのスーパースターを擁する優勝候補校を制したのだ。この試合では、チームに何かが起こっていた。それはこのキャプテンを中心に1年を通じて育まれてきたことだった。
本書では、スポーツ障害を医学的に見るのではなく、心理的側面や社会環境的側面から捉え、とくにケガが治らない選手に役立つべく行われた研究をまとめてある。全体として焦点が絞れておらず、研究の方向性も曖昧で、まとまりの悪い感じは否めない。しかし、ここに集められた断片を目にするだけでも、指導者やトレーナーなどスポーツに関わる人にはさまざまな気づきをもたらすだろう。スポーツ障害(傷害)の定義1つとっても、「努力して獲得してきたものが、できなくなる感覚」や「今まで当たり前にできていたことができなくなるという経験」とすれば、スポーツ障害により選手は身体のみならず心理的にも社会的にも傷つけられていることを簡潔に表すことが確かにできる。
生々しい言葉
冒頭から、選手や指導者がケガという経験をどう捉えているかを聞き取り調査した内容が続く。インタビュー内容をそのまま文章にしているので、その拙い言葉が生々しさを増している。「ピッチングマシンのボールが頭を直撃し、血を流して倒れているところに顧問の先生がきて、最初に発した第一声が『ええかげんにせえよ!』で、普段あまり怒らない先生にかなり怒鳴りつけられました」といった自分のために選手を怒る指導者の話や、「全員がよい指導者になれるような指導をしようと」「ケガをした人間にも誰にでも役割があるというチームマネジメント」を目指す指導者の話。ドクターも含む一般的な「スポーツ障害の専門家はしばしば「このまま競技を続けると日常生活でも取り返しのつかないことになるぞ」と言って、試合に出たがる選手を叱責することがある」「こうした考え方には、ケガ人は競技に参加すべきでないという『排除の理論』へと転化する危険がともなっている」との指摘もされている。
また、北海道浦河町にあるという精神障害者の社会復帰事業所「べてるの家」の取り組みからスポーツ障害を考え、「ケガによって、どんなに思い通りに競技ができなかったとしても、競技を続ける工夫をしなさい、あるいは、競技を通じた人間関係を持ち続けなさいというのが、スポーツ障害における『右下がりの生き方』であり、『降りていく人生』だ」との表現もみられる。
トレーナーというピース
全編を通じて、ある存在がそばにいれば、選手本人も、指導者も、チームも多少なりとも変わったのではないかとずっと感じていた。アスレティックトレーナーという存在だ。そのトレーナーによるコメントもいくつかみられるが、さまざまな問題が山積する環境で心あるトレーナーというスポーツ傷害の専門家がどのように取り組んでいるのかということについて本編のどこにも触れられていない。非常に残念である。トレーナーの普及度や認知度の低さあるいはレベルのばらつきも問題なのだろう。「ケガによって孤立してしまった選手がいて、その選手がチームを去らなければならないとしたら、それはケガのせいではなくて、おそらく、レギュラーも含めて、そのチームに居場所がある選手は、最初からほとんどいないのではないか」との考えも紹介されているが、チームの中で障害について普段から選手の自覚を促すべく教育し、その発生を最大努力で予防せんとし、発生してしまった後も選手が心身ともによりよい状態に向かうべく、ともに歩むトレーナーは、チームの中での負傷者の立ち位置を明確にする上でも重要な役回りを担っているはずだ。スポーツ傷害による挫折からトレーナーを目指す人も多く、「ケガした人にしかわからんことも体験できた」トレーナーも多い。トレーナーというピースを組み込むことで、選手の傷害に対する考え方や取り組みは大きく変わるはずなのである。
冒頭の高校ラグビーチームは準々決勝で勝利したとはいえ、大小取り混ぜてほとんどの選手が負傷しており、満身創痍という表現は大げさではなかった。中心選手の一人は足関節に中等度の捻挫を負ったが、準決勝の出場を強く希望していた。「選手の悪あがきやじたばたすること」につきあうのもトレーナーの仕事である。そのトレーナーはできる限りのことを施し、彼は準決勝の舞台に立った。どの選手もボロボロの身体で懸命にプレーするが、少しずつ点差を引き離される展開だった。彼は試合終了間際に相手選手を引きずるように強引にボールを持ち込み意地のトライを挙げた。
ラグビーのような競技で選手は常に傷害と隣り合わせでプレーしている。社会人ともなれば手術跡も生々しい選手が少なくない。例に挙げた2人も大学から社会人ラグビーまでキャリアを積んで引退した。そのキャプテンは今、社会人チームの指導者にまでなっている。彼らは右下がりでも右上がりでもなく、ただ前を向いて進んでいたのだと思う。あのときのトレーナーの言葉も、選手たちが常日頃から自らの心身に対する心構えをつくっていたからこそ出たものだ。そして厳しい教育をする一方では、折れた骨を、切れた靱帯を、どうにかつないでやれないものかとの想いで選手たちに向き合っていたからこそ伝わるものもあったのだろう。スポーツにコミットするすべての人々にそのような存在がそばにいることを願うばかりである。
(山根 太治)
出版元:生活書院
(掲載日:2010-11-10)
タグ:ケガ 教育
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:スポーツ障害から生き方を学ぶ
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
スポーツ障害から生き方を学ぶ
e-hon
「おじさん」的思考
内田 樹
主に大学生と高校生のトレーニング指導という職業について10年あまり。なぜ、人の話を集中して聞けない選手、注意されるとすぐふてくされた態度をする選手、あまりにも自分で考える力が欠落している選手がこんなにいるのだろうか? ずっとわからないままでいた。しかし、この本にめぐりあってみえてきたものがたくさんある。著書の内田は、「人にものを学ぶときの基本的なマナー」についてこんな風に言っている。
「今の学校教育における『教育崩壊』は、要するに、知識や技術を『学ぶ』ためには『学ぶためのマナーを学ぶところから始めなければいけない』という単純な事実をみんなが忘れていることに起因する。学校というのは本来何よりも『学ぶマナーを学ぶ』ために存在する場所なのである」
「『大人』というのは、『いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる』もののことではない。『自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する』という『物語』を受け入れるもののことである。言い方を換えれば、『私は※※※ができる』というかたちで自己限定するのが『子ども』で、『私は※※※ができない』というかたちで自己限定するものが『大人なのである。『大人』になるというのは、『私は大人ではない』という事実を直視するところから始まる。自分は外部から到来する知を媒介にしてしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知を持つことから始まる。また、知性とは『おのれの不能を言語化する力』の別名であり、『礼節』と『敬意』の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本であると言う」
まさに、現場で感じていた選手たちに足りないこと、その原因の1つがここにあるのかと。では「子ども」を変えるにはどうすればよいのか。内田はこう言う。
「子どもたちの社会的行動は、本質的にはすべて年長者の行動の『模倣』であると。だから、子どもを変える方法は一つしかありません。大人たちが変わればいいのです。まず『私』が変わること、そこからしか始まりません。『社会規範』を重んじ、『公共性に配慮し』、『ディセントにふるまい』、『利己主義を抑制する』ことを、私たち一人一人が『社会を住みよくするためのコスト』として引き受けること。遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速で合理的な方法だと私は思っています」
そう言えば、福沢諭吉は「一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり」とずっと前に教えてくれていた。
まずは、自分自身が内田の言う「大人」になること、すべてはそこから始まる。
(森下 茂)
出版元:晶文社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:教育
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:「おじさん」的思考
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
「おじさん」的思考
e-hon
東大フカシロ式 賢い脳をつくるスポーツ子育て術
深代 千之
子どもがスポーツを通じて得られる「脳力」をわかりやすくまとめた。まず1章では身体の基礎「脳」力を引き出すワークとして、おしり歩きやバランス崩しなどを紹介している。バイオメカニクスの第一人者である著者ならではの内容だ。2章以降のメンタルやコミュニケーションの「脳」力についても、スポーツ科学に基づいた簡潔な解説がなされている。
保護者向けに書かれてはいるが、子どもが悩んでいるときの対応を始め、口だけでなく一緒に努力・克服していく重要さは子どもとスポーツに関わる大人全てに共通する。気づきの多い一冊と言える。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:誠文堂新光社
(掲載日:2013-10-10)
タグ:子育て 発育発達 教育
カテゴリ 運動実践
CiNii Booksで検索:東大フカシロ式 賢い脳をつくるスポーツ子育て術
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
東大フカシロ式 賢い脳をつくるスポーツ子育て術
e-hon
先生!
池上 彰
「先生」になった
そもそもの動機は思い出せないが、中学生の頃に「先生」になろうと心に決めた。おそらく他の職業を知らないごく狭い視野の中での思い込みだったのだろう。担任の「先生」にその話をしたら「そんなこと無理に決まってるでしょう」と頭から否定された。その言葉は、感情の修飾が消え去った今も記憶の吹きだまりに残っている。「先生」が何を意図してそう発言したのかはわからない。私がその頃教師を連想させるような存在ではなかったのかもしれない。ただ帰宅してそのことを話す様子は激しい怒りに充ちていたと、いつか母が話してくれた。
その数年後、教育大学に進学した私は、卒業時に今度はこのまま教師になることなど考えられなくなった。いくつか理由はあるが、学校世界しか知らない狭い了見の人間がどうして子どもたちの教育などできるのかと考えていた。自分自身もそうだったし、周りを見渡してもそれに見合うヤツはいないような気がした。それでも同期の多くは「先生」になり、今では教頭や校長といった肩書きを背負うものも出てきた。そして私自身も巡り巡って今はひとりの「先生」という立場にいる。
先生を励ます本
さて、しりあがり寿氏のシニカルで理不尽な漫画で幕を開ける本書は、タレント、学校長、ジャーナリスト、映画監督、柔道家、そして町工場の社長など、教育に関わる人、関わらない人、様々な立場の方々から寄せられた「先生」に関するエッセイ集である。
発起人はニュース解説でおなじみの池上彰氏だ。必ず「先生!」という呼びかけの言葉を本文中に含めることを条件に起草を依頼したそうだ。確かに厳しい問題、悲しい問題が教育現場に山積している。しかし一部の問題が全体を否定する材料として扱われ、教育そして「先生」の再生が必要だと叫ばれる中、周囲からの高い期待に応えるべく現場で頑張る「先生」も少なくない。「そんな先生達を励ます本を世に出したい」ということが本書の狙いである。「先生」とはどんな存在であるべきなのだろう。優れた教育者を自負する人から、「学生の質は『先生』次第なんだ。学生は『先生』以上の人間にはならないのだから」と言われたことがある。個人的にはそれに大変な違和感を覚えた。「先生」の責任を果たすために自己研鑽を積むことは言わずもがな、「先生」など伸び伸び飛び越えていける人材を育成することが「先生」の喜びであると考えていたからだ。
もちろんそう易々とは越えられないチャレンジしがいのある壁として存在感がなければ面白くはない。イメージは複雑に枝を伸ばした大樹だ。懸命に登る子をみつめ、滑り落ちそうな子にはそれとなく枝で支え、要領よく登る子には、時に障壁となる枝を伸ばし、ところどころに息をつけられる空間を用意して木陰をつくる。時には枝の先でお尻をつつく。子どもたちにそして自分にも種を蒔き、さらなる枝葉を延ばすことも忘れない。上に行けば行くほど手強くなる懐深さも持っていたい。それでもこちらの意図を乗り越えてぐんぐん成長する子どもたちを育てたいし、それに感動する心を持ち続けたい。どんどん先に進む子どもたちにはいつしか自分の存在など忘れられていい。時間が経って、もしふと振り返ることがあれば、あの頃見ていた樹よりも小さく感じてもらえればいい。そしてあの出会いは悪くなかったと懐かしさを憶えてもらえれば言うことはない。これは「親」としての想いそのものだ。
誰もが「先生」に
本書の内容は、基本的に初等~中等教育における「先生」が対象になっている。しかし、「親」が一番身近で重要な「先生」であることはいつの時代でも真実だろう。そのことを抜きにして教育は語れないはずだ。そして我が子のみならず、子どもに関わる大人はみな子どもたちに何かを伝える「先生」たり得るという自覚を持っているべきだ。立派なことばかりでもないだろう、汚れたり、臍を噛んで苦しみ抜くこともあるだろう。そんなことも全部ひっくるめて、子どもたちを見守り、導き、あるいは言葉はなくとも背中を見せられる、そんな存在であるべきなのだ。それはただ大人でいるということだけで満たされるものではない。誇りを持てない大人には荷が重い。どれだけ表面を取り繕っていても、それは言動に表れるのだから。
スポーツの現場などは典型的だ。実際に「先生」がスポーツ指導者を兼任していることが多いが、そうでなくても全てのスポーツ指導者は「先生」だ。スポーツには絶対に正しい教育的側面が必要なのだ。上に立つということを誤解して自らの立場に甘んずることなく、スポーツの指導者として、若きアスリートたちを導く「先生」として、誇りを持てる存在とはいかなるものだろうか。
折しも2020年の東京オリンピック開催が決まった。夢を描く若者は増えるだろう。アスリート養成にもより大きな力が注がれることだろう。スポーツ指導者の責も重くなる。忘れてはならないのは、スポーツによる教育は何もアスリートを育てるだけではない。その環境をつくり上げ、導き、支える人間を育てることも含まれる。観てさまざまなことを感じ取る心を育てることもそうだ。ともに切磋琢磨し、激励し合い、喜び、悔しさにむせび、一歩一歩前進する人としての強さを身につけるスポーツの現場。より多くのより優秀な「先生」たちが求められる。今後の日本スポーツ界のオリンピックに向けた歩みは、誇りある指導を見つめ直すいいきっかけになるだろう。
(山根 太治)
出版元:岩波書店
(掲載日:2013-11-10)
タグ:教育
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:先生!
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
先生!
e-hon
日本体育大学の底力
手束 仁
近年は体育大学以外でもスポーツの強化に取り組んでいる大学が多い。その中で著者は、日本体育大学駅伝部の活躍に目を留めた。2012年の箱根駅伝では20校中19位だったのが、2013年には総合優勝。まさに「底力」と言える這い上がりぶりだった。
だが駅伝だけでなく、体操や野球、バレーボールなど日本の伝統競技においても、「やはり日体」というような力が感じられる。それはなぜかと、各部の指導者だけでなく大学の理事長や学長にもインタビューして迫った。
その結果、挨拶や絆といった精神的な要素も挙げられたが、「日体大生である」ということ自体が、それらを意識するきっかけになるようだ。何に取り組むにしても当たり前のことを積み重ねていくと底力になるのかもしれない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:日刊スポーツ出版社
(掲載日:2014-03-10)
タグ:大学 教育
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:日本体育大学の底力
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
日本体育大学の底力
e-hon
あわいの力 「心の時代」の次を生きる
安田 登
こちとら体育教師、だが驚いた
きっかけは、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』(岩波文庫)だ。
大正から昭和にかけ東北帝国大学の招きで哲学を教えにきたヘリゲルが、日本文化に触れるため習った弓術を通して知った西洋人と日本人のものの見方の相違を、ドイツ人らしく論理的に説明した講演の記録だ。矢をいかにして的に当てようかとする西洋の考え方に対し、日本の弓術ではなんと、“的を射ようとしてはいけない”のだ。けれど当たらないといけない。しかも、弓を引いた“私”が当てるのではなく、“矢”が自ずと的を射る、という身体のあり様を善しとする、というような内容だった。
ある日、ドイツ語の教授(本職は哲学)にお茶飲み話の中で、体育教師なら読んどかなきゃダメだよと言われ、てやんでい、こちとら体育教師だい、身体のことに関しちゃオイラのほうが......と、なぜか江戸っ子となって息巻いて読んだら、ひっくり返るほど驚いたのを覚えている。
“体育”そのものへの疑問から舞踏へ
身体を科学的に認知するのが一番偉いと思い込んでいた私だが、しかし思い当たることはあった。身体の大きさを把握するもっとも基本的な指標として身長・体重が測定されるが、体調の良し悪しとか元気の度合い(オーラ?)によって人は大きくも小さくも見えるし、“寝た子は重い”というように、オンブの仕方で人は重くも軽くもなるではないか。私たちは身体に対して科学的に認知するよう刷り込まれてきている。しかし、ここにおいて体育の授業、というより“体育”そのもののあり方に疑問を抱くようになっていった。
そこで思いついたのが“何だかわからないものを習ってみよう”ということで、舞踏ダンサー滑川(なめりかわ)五郎の門を叩いた。舞踏(Butoh)とは、日本が発祥とされる前衛ダンスで、バレエに代表される西洋舞踊(舞い踊る)の“動的”なダンスに比べ、舞踏(舞い踏む)の名のごとく、どちらかと言えば“静的”な動き、時には全く動かずに身体から発する殺気だけで沸き立つ情念を表現しようとするものである。
滑川は、天児牛大(あまがつ うしお)らとともに組んだ山海塾で、ワールドツアーを敢行した。まるで“能”のようだと、はじめはヨーロッパで評価され、日本へはむしろ逆輸入の形で紹介された。山海塾から独立した滑川が、大谷石(帝国ホテルなどの建築で使われた岩石)の採石場近くにスタジオを構え、ワークショップを開催していたのである。
片道1時間ほどの道のりを通い、2011年の秋に滑川が急逝するまでのほぼ10年にわたって(後半はほぼ幽霊の劣等生だったけどね)、毎回毎回、目からウロコの刺激的な体験(雲の上を走るとか、石像が数万年かけて崩れていく様とか、横臥する10メートルのお釈迦様を泡で洗うとか、ナンダカワカラナイこと)をさせてもらった。なんとなく見えてきたような、でもその気づきについてまだまだ教えてほしいことだらけだった。しかし滑川のレッスンは、“体育”に対する視野を広げ、思考を深めるヒントを、山ほど私の身体に刻み込んだ。
間(あわい)にあって媒介するもの
さて今回は『あわいの力』。
「能には、シテとワキという二人の主要な登場人物」がいる。主役であるシテに対してワキは「装束も地味で、目立った活躍をすることも」なく「ほとんどの時間、舞台の上でじっとしている」。ワキの役割は、「自分の身体」を「道具」としてシテの手助けをし、「『あっちの世界』と人間とを」「『媒介』する」ことにある。「この『媒介』という意味をあらわす古語が『あわい・あわひ(間)』」というのである。「あわい」という役割は、「ワキ」特有のものではない。シテにもシテなりの、能には能の、舞踏には舞踏の、体育には体育の「あわい」の振る舞い方があると思う。一見、地味で役に立たなそうなこと(教養とか)、目に見えないこと(建物の土台とか)が重要な役目を果たしているというのはよくあることである。
滑川にもらったヒントが私の身体の中で寝かされ、やっと答えらしきものが口にできるようになった。そこにあらわれた本書には、明快な答えがたくさん書かれていた(負け惜しみを通り越して腹立たしいほどに)。中でも「教師は現代におけるワキの担い手」というのにとどめを刺された。
(板井 美浩)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2014-06-10)
タグ:教育
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:あわいの力 「心の時代」の次を生きる
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
あわいの力 「心の時代」の次を生きる
e-hon
近くて遠いこの身体
平尾 剛
どのように共有するか
著者は元ラグビー日本代表で、現在は大学の講師。スポーツ教育学と身体論が専門で、「動きを習得するために不可欠なコツやカンはどのように発生するのか、そしてそれを教え、伝える(伝承する)にはどうすればよいかについて思索しています。」とのこと。タイトルにも惹かれて本書を買ったのだが、残念なことに、これについて全くと言っていいほど触れられておらず、著者自身の回顧録のような内容である。オビの推薦文にあるように、本書の内容(=著者の経験知)が「パブリックドメイン」として共有できるとも思えない。感覚も身体の動きも人によって千差万別。たとえトップ選手の感覚であっても、それを共有し、他人が自分の経験知とすることができるものなのだろうか。
「身体能力を高めたい僕たちが本当に知りたいことは、そこに至るにはどうすればよいかという方法論である。でも残念ながらそんな方法論は存在しない。自らが試行錯誤しながら身体を使い続けるなかでの体感を、ひとつ一つかき集める以外に、そこに至る方法はないだろう。」と本文にある。ということは、結局、自分であれこれ試してみるしかないということなのだ。そこに先人の経験知を共有していれば、その試行錯誤の方向性が定まりやすいということはあるかもしれない。だが問題は、それをどうやって共有するか、ということだ。
伝えるために必要なもの
本書で、漫画「バガボンド」について触れられている。吉川英治著『宮本武蔵』を原作とする人気長編漫画である。著者曰く「身体論の研究にはもってこいの書」だそうだ。そこで私は、司馬遼太郎著『北斗の人』を連想した。
幕末に隆盛を誇った「北辰一刀流」の開祖・千葉周作が主人公の歴史小説である。司馬曰く「北辰一刀流がなければ、幕末の様相も多少変わっていただろう」というほどの革命的な流派だそうだ。「『他道場で三年かかる業(わざ)は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る。五年の術は三年にして達する』という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町さきまできこえわたって空前の盛況をきわめた」というほどであり、その特徴は「凡才でも一流たりうる」という独特の剣術教授法であった。そして千葉は、剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場で新しい体系をひらいた人物なのだそうだ。
一方、武蔵が開いた「二天一流」は幕末期には衰退していた。武蔵が記した「五輪書」にも刀の持ち方とか足さばきとか、具体的なことが書いてあり、摩訶不思議な言葉を並べているわけではない。たとえば「太刀の取様は、大指人さし指を浮けて、たけたか中くすしゆびと小指をしめて持候也」という具合である。しかし、この違いはなんだろう。時代背景も違うし、流行が流行を呼んだということもあるかもしれない。そもそも2人の剣豪を比較するつもりもないのだが、ここで私が考えたいのは「凡人でも一流たりうる」ためのコツやカンを、他人に伝えることは可能なのかということである。
本書にあるとおり「言葉を手放し、『感覚を深める』という構えこそが、運動能力を高めるためには必要」であり「『感覚』を拠り所にすれば、そこには努力や工夫の余地が生まれる」のだとしても、その感覚や経験知を伝えるためには結局言葉や方法論が必要なのではないか。
ブルース・リーは映画『燃えよドラゴン』(1973)で「Don’t think! Feel!」と有名なセリフを言ったが、実際には「感じろ!」だけではコツやカンを伝えることはできない。もっとコツやカンとは何ぞやということを掘り下げないと、それをどう伝えるかも考えられない。
本書に紹介されているエピソードに興味深いものがある。ラグビーの強豪ニュージーランドの20歳以下の代表チームと対戦した際に著者が経験した「狩るディフェンス」だ。わざと走り頃のスペースを空けて走りこませ、挟み撃ちにするのだ。ニュージーランドのラグビーの中でその技が伝統として継承されているという。メンバーの入れ替わる代表というチームで、阿吽の呼吸が必要なこういうプレーがどのように伝承されているのか。イメージなのか感覚や経験知なのか。ここにコツやカンとは何か、どう伝えるかというヒントがあるように思う。とても興味深いテーマに挑んでいる平尾氏の続編を期待したい。
(尾原 陽介)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2015-04-10)
タグ:身体感覚 ラグビー 教育 コツ カン
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:近くて遠いこの身体
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
近くて遠いこの身体
e-hon
子どもの生きる力の伸ばし方
中野 秀男
存在価値が問われる集団
武術とはそもそも戦場で命のやり取りをするための戦闘技術であり、相手の命を奪い得る技能のはずだ。生き残る技術と言い換えたとしても、そもそもそこにはルールやモラルなど存在しなかっただろう。今の常識でいうどんなに不浄な手であっても、考えられる全ての手段を講じて己を生かし続け、その遺伝子を残そうとすることは生物としての本能というものだ。しかし人としてどうあるべきかという概念が加わると話が変わってくる。生きるか死ぬかの瀬戸際でも、いやだからこそ、「命を惜しむな、名こそ惜しめ」といった考えが生まれる。たとえそれが大将による自分の手駒を動かすための方便だったとしても、自分の存在意義を考える力が人にはあるのだ。
天下泰平の世となり戦闘する機会がなくなった武闘集団は、次に支配階級としての存在価値を模索することになったのではないか。武士であるというだけで、身を粉にして働く階級の人々の上に君臨することへの説得力を持たせるために武士道というものを生み出し、こじ付ける必要があったというのは安易すぎるか。しかし、いかに存在するか、どう生きるかという自律なくしてその特殊階級は存在し得ず、戦闘技術の修行は精神鍛錬としての意味が濃厚となり、人格形成の手法へと変換されたのではないだろうか。
時代が移り、廃れるべくして廃れたその階級が遠い昔のことになった今でも、その精神は心ある日本人の常識の中に棲み続けている。濃度がずいぶん低下したとはいえ、だ。
空手を通じた教育
さて本書は、空手道を通じて子どもたちの育成に尽力し続ける日本空手道太史館館長、中野英雄氏の教育提言書である。45年もの間に7000人の子供たちを指導してきたという氏の指導方針は、命を懸けて武術を極めるといった過酷なものではない。もちろん、よりうまくなりたい、より強くなりたい、技を極めたいという想いの下、厳しい稽古を積むことに変わりはない。
だが現代社会における空手の技は、競技以外で披露されることはまずないし、それは強く戒められる行為となる。代わりに、その技を練ることを通じてどう生きるかを問い、その力を伸ばすことはできる。「誠実」「謙虚」「積極」「努力」「忍耐」「不屈」という大志館の教室訓を通じて、子ども達は「心を鍛えて徳を身につけ」「生きる力」を育む。中野氏の数々の指導例を拝見するにつけ、現代社会における武道の持つ人格形成的価値はまだまだ大きいように感じる。
空手道という、ともすれば暴力的行為へとつながる技を現代社会で生きる子ども達に指導する人間は、十分に人格形成されていなければならない。戦闘技術としての空手を教えるだけでなく、人としての力を育てられる存在であるべきなのだ。
成果は成長
自分の思い通りになる子どもだけを自分の思う通りに指導するだけなら易しい。だが、「一人ひとりの子どもと向き合」い、子どもたちに正の変化をもたらすことは簡単ではない。
ちゃんと教えているのにできないのはお前の努力が足りないからだと子どもに言い放つことは易しい。だが、各々の歩幅ででも自分は成長していると実感させられることは簡単ではない。子どもたちが指導者のために在るのではなく、指導者が子どもたちの期待に応え得る存在でなくてはならない。指導者が子どもたちを試すのではなく、指導者が子どもたちに試されているのだ。そしてその成果は、競技成績だけでなく子どもたちの成長という形で表れる。
子どもたちにおもねることなくこれらをやり遂げられる力。これはまさに道としての武道を究めて辿り着けるのはないかと感じる。平和な世にあって生まれる価値そんな存在に至りたいと思う一方で、これもあくまで戦闘がない平和な時代と場所だからこそ言える綺麗事のようにも感じる。今も世界のどこかで現実に存在する子どもたちが銃を手に取らなければならないような場所では、虚しい絵空事に過ぎないからだ。そんな世界では戦闘技術は純然たる戦闘技術でなければならず、人の命を奪い、生き残るための手段となる。となると、平和な世に暮らしていても、その気になれば一線が越えられるように心身に覚悟を持たせておくこともやはり必要なように感じる。よく生きるなどという余裕はなく、ただ生きることに汲々たる人生を送らなければならない場合、生き残りながら徳を失わず、人格形成に力を注ぐようなことが普通の人々にできるのだろうか。
では、今日も明日も無事生きていることがほとんど不自然でなく、10年先どころか20年先の目標までも立てられるような平和な世界で生きている人間が、よく生きることにこだわれているのかというと、これはこれで違う次元の問題が生み出されているようである。
こうなると「死」と隣り合わせでなければ感じ得ないことも無数にあるように思えてくる。果たして我々は全てを包括的に身に棲まわせておくことなどできるのだろうか。
そんな稚拙な思考を巡らせていると、平和な世での武道による精神鍛錬、人格形成がより深い意味を持ち、より大きな価値を持つようにも感じてくる。そして武道が、そんな手段であり続けられることを願わずにはいられない。
(山根 太治)
出版元:文芸社
(掲載日:2015-09-10)
タグ:教育 武道 空手
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:子どもの生きる力の伸ばし方
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
子どもの生きる力の伸ばし方
e-hon
不合理だらけの日本スポーツ界
河田 剛
2008年北京オリンピックでのメダル獲得数:25個。この集計の母数が何か、わかるだろうか。
そう、これは、日本がこの大会で獲得したメダルの総数である。そして同時に、アメリカ・カリフォルニア州にある名門スタンフォード大学1校から、同大会で輩出されたメダリストの総数でもある。
これが何を意味するか。「極論ではあるが」と前置きした著者の言葉を借りて説明するなら、一方は競技だけに集中してきた、また、そうすることが許される、またはそう仕向けられているアスリートがとったオリンピックメダルであり、もう一方は、将来を見据えたうえで、勉強などいろいろなことに取り組んでいる学生アスリートがとったオリンピックメダルである。
イギリスの高等教育専門誌が発表しているThe World University Rankings 2020で、日本で最も高い順位にランクインしたのは東京大学の36位。それと比較して前述のスタンフォード大学は第4位と評価されていることからも、そこに通う学生たちがいかに日々勉学に励み、高いGPAを維持して卒業していくかは想像に易いだろう。日本で、ここまで世界トップレベルの文武両道を体現している競技アスリートは一体どのくらいいるのだろうか? それは、個人の努力や意識という範囲の責任ではなく、私たちの社会が、どれだけアスリートたちが、競技だけでなくセカンドキャリアにつながる勉強を両立させられる体制を整え、当たり前にサポートするシステムを作っていないかという問題なのである。
この本の著者である河田剛氏は、日本でアメリカンフットボールの選手、コーチを経験したのちにアメリカに渡り、2007年からスタンフォード大学のアメリカンフットボール部のコーチとしてチームに勤務されている。冒頭で紹介した日本とアメリカでのオリンピックメダリストの生まれ方の違いがなぜ起こるのかを、日本で生まれ育ち、アメリカのトップ層を見てきた日本人の視点で解説し、タイトル通り「不合理な」日本スポーツ界の在り方に警鐘を鳴らしている。
本書で言及されているアメリカのスポーツにあり、日本のスポーツにないもののいくつかを列挙してみよう。きちんとお金を集めて流すシステム。充実した指導者育成システム。先進的なスポーツメディカルチームによるサポート。メディアリレーションの専門家。マルチスポーツ(複数のスポーツ)をプレーする文化。引退後のセカンドキャリア支援体制…などである。いずれも、どんなレベルであれスポーツに関わる人であれば、関心の高いキーワードばかりではないだろうか。アメリカのスポーツ業界が日本のそれよりよっぽど成熟しているというのは、スポーツに深く関わりのない人でもなんとなくイメージできるだろう。本書では、それが実際どのような事実として違いがあるのか、多数の具体的なエピソードとともに丁寧に解説されている。
本文中で何度も述べられているが、筆者は日本人の勤勉性や国民性、これまで培ってきた社会の仕組みを一切否定し、アメリカのやり方が全てよいと言いたいわけではない。しかし、いろんな局面で「合理的」とはかけ離れた日本のスポーツ界が、効率的に成果をあげるシステム構築が圧倒的にうまいアメリカの手法から学べることを積極的に吸収し、体制を変化させていくことが、きたる2020年東京オリンピック・パラリンピックの成功と、その後の発展の鍵となることは間違いないだろう。
(今中 祐子)
出版元:ディスカヴァー・トゥエンティワン
(掲載日:2019-10-15)
タグ:教育 文化
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:不合理だらけの日本スポーツ界
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
不合理だらけの日本スポーツ界
e-hon
自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
近田 直人
『ごくせん』や『ROOKIES』(ルーキーズ)、古くは『3年B組金八先生』は情熱を持った先生と荒れた生徒の感動ストーリーだが、それを現実でやってのける教師がいた。
名前は近田直人、彼は学生時代にラグビーに打ち込み、筑波大学で体育教員の免許をとったあとは地元の大阪に戻り、教師のしてのキャリアをスタートさせる。赴任した高校はいわゆる荒れた高校だった。そこでさまざまな問題を抱えた生徒や保護者に向き合い、そしてときには行政や国のルールにも立ち向かっていく。
問題の解決は困難だったが、著者の信念は一貫していた。それは「愛情」である。生徒に対する愛情。生徒たちは誰かを傷つけたり、ルールを破ったりしたいのではない。ただ誰かの「愛情」を欲しているのだという。それも言葉だけでは伝わらない、行動を示すことで生徒の見る目が変わり、信頼を得ることができる。
著者の半生を記したといえる本書では、その過程を学ぶことができるだろう。また、体罰についても言及されている。生徒を支配するための体罰は許されるものではないが、「他人を傷つける暴力を止めるために手をあげることは必要」と書かれている。タブーと言われる体罰問題にも果敢に挑んだ内容は非常に貴重である。
教員に限らず、指導に携わる人、そして保護者の方にもぜひ読んでいただきたい一冊である。
(川浪 洋平)
出版元:ザメディアジョン
(掲載日:2020-09-23)
タグ:教育
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
e-hon
エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀
伊藤 氏貴
型破りな授業
かつて私立灘高校において、型破りな国語の授業が展開されていた。エチ先生こと橋本武氏が担当する学級では、小説「銀の匙」(中勘助著)を 3 年間かけてじっくり読み、その世界を追体験するのである。それは「なんとなくわかったで済まさない」という徹底したもので、主人公が近所の駄菓子屋に行く場面では、生徒たちに小説と同じ駄菓子が配られたり、凧上げのシーンでは実際に凧を作って校庭であげたり、小説中の「丑紅」の言葉で立ち止まって十干十二支や二十四節気の話に脱線したり、といった具合なのである。そして、その授業ではいつも、ナビゲーターとして、エチ先生が工夫を凝らした手づくりのプリントが配られていた。
本書を読み終え、すごいなぁと感動すると同時に、ある違和感を感じた。本書の帯にこう記されている。
「文庫本1冊×3年間=東大合格日本一」
「21世紀に成功するための勉強方『スロウ・リーディング』の極意に迫る」
これが本書の内容を的確に紹介しているとは、とても思えない。本書で紹介されているデータでは、エチ先生の「銀の匙」の授業を受けたことをきっかけに、生徒たちは東大や京大の合格者数を急増させ、灘高を一流進学校へと押し上げるのだが、それはエチ先生が求めた「結果」ではないことは本文でも触れられている。また、各章の後にある「HASHIMOTO METHOD」というコーナーも違和感の原因だと思う。この授業について解説するというものであるが、「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」というエチ先生の言葉が重要なキーワードとして本文中に記されているのにもかかわらず、「スロウ・リーディング」はこんなに役に立つんですよ、というような内容なのだ。
本当の結果とは
本書にケチをつけようという気は毛頭ない。だが、違和感を感じていることは事実である。私はこの違和感を、エチ先生と本書が投げかけている波紋ではないかと思っている。
知識とは何か。学校の授業は、教師と生徒の関係はどうあるべきか。そして、教育が目指すべき本当の「結果」とは何なのか。そのヒントを本文から引用して紹介したい。卒業文集に編集後記として掲載されたエチ先生の文章の一部である。本書の中で、私が最も好きな一節だ。
「教室での関係はすでに終わつた。授業料でつながれていた束縛はなくなつた。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であつたという、精神的な連帯感だけとなつた。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。しかし、たとえそうならなくても私は嘆かないつもりである。私のために諸君の自由を束縛することはできないからである。私はまた、自分の手許から飛び立つていつた小鳥たちのことは忘れて、新しく“灘”という巣へやつて来た小鳥たちのために、夢中になつて餌ごしらえをすることであろう。その小鳥たちも、私の手の及ばなくなるほど成長した時に、私の手から飛び立つていくだろう。私はだまつて見送るだろう。そうして私は老いていく。それが私の一生である。」
要するに、教師の役割は生徒を巣立たせることだけであり、その仕事は巣立つまでの餌ごしらえなのだ、というエチ先生の腹のくくり方が軽やかでもあり、重くもある。数年後には何の関係もなくなってしまうかもしれない小鳥たちのための餌ごしらえを、休まず丹念に情熱を込めて続けてきたことこそがエチ先生の本当のすごさなのだ。スロウ・リーディングという方法論だけが注目され一人歩きをしてしまっては、肝心なことが見過ごされてしまうような気がする。私が本書に対して感じている違和感は、このことなのだと思う。
親であれ職業教師であれボランティアのスポーツ指導者であれ、小鳥たちの餌は、自分で探し、自分の身体で運び、自分の手で与えるべきだ。きっとそれが、子どもを育てるということなのではないだろうか。
エチ先生の言う「結果」とは、生徒たちが卒業して還暦を過ぎても前を向いて歩いていることであり、そのために小鳥たちに与えた餌が『銀の匙』と授業プリントである。さて、私は小鳥たちにどんな餌を見つけられるのだろうか。そして、私が関わった子どもたちは、どんな大人になるのだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:小学館
(掲載日:2011-10-10)
タグ:教育
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀
e-hon
気概と行動の教育者 嘉納治五郎
嘉納治五郎生誕150周年記念出版委員会
小学生向けの講義
私が住む街の主催事業で“子ども科学講座”というのがあって、“人間を科学する”という今年度のテーマのもと“カラダの動く仕組みを知ると駆け足が速くなる!”と題して1コマ持たされ、小学生を相手に講義と実技をセットでやってきた。
その中で、“重いオンブ・軽いオンブ”というのをやったら大いにウケた。“寝た子は重い”の原理で、“重いオンブ”は上になった人が脱力するのである。その際、グターッと落ちそうになったりするとさらに重くなって好ましい。“軽いオンブ”は逆に力を入れてごらんと言うだけ。上の人は適度に緊張し、腋と内股を締め、背負う人を押さえるようにすればよい。
交代交代でやって、ひとしきり盛り上がった後、同じ人でもオンブの仕方でその重さが全然違って感じられること、同じもの(人)でも見方を変えると別の側面が見えて面白いねと説明すると一同目を輝かせて頷いてくれ、日頃相手にしている大学生の授業よりむしろ緊張して臨んだ講師としては大いに溜飲を下げたものだ。もっとも、ウチの次男坊(幼稚園生だが特別に参加させてもらっていた)にも覚えられ、“軽いオンブ”作戦を使っては外出のたびオンブをせがまれるのには閉口したけれど。
大学生に同じ課題をやらせると、お! 何をやるんだとばかりに興味津々で試してくれるのが三分の一、戸惑いながらもやってみる者が三分の一、残りは恥ずかしいのかバカバカしいのか面倒くさいのか、突っ立ったまま何もしないでいる。
しかし中には“軽いオンブ”でうまく息を合わせ、体重差50kgもありそうな体格の相棒を軽々とオンブして歩き回っている者もある。何とかして皆の注目をそこに集め、体重は、ちょっとしたオンブの仕方の違いで重くも軽くも大いに異なって自覚されること、オンブごっこをやった意義は、体重(測定された値=科学的数値)は1つだが、見方によって全く異なった印象で認識されるということを身をもってわかってほしかったからであると、種明かしまでしてやっと納得してくれるのである。というか、それをもっと早く言えよ的態度をとられることもあり、大人になると感性が鈍るなあ、でもちゃんとわかるような授業ができない私が悪いんだよなあ反省しましょうそうしましょうと、ついつい晩酌の量が増えるのである。
数値では把握できない大きさ
さて、本書『嘉納治五郎』だ。その名を知らない体育関係者は少なかろうと思う。講道館“柔道”の創始者であり、日本人(アジア人)初のIOC委員として第12回オリンピック東京大会(1940年開催と決定するも日中戦争の影響で返上)の招致を成功させた、体育・スポーツ・教育界の巨人である。
ところが嘉納は、そもそも学問のほうが得意で運動はむしろ苦手だったらしい。嘉納が柔道(柔術)に興味を抱いたのは12歳の頃で、「幼少の頃に虚弱な身体であったので強くなりたくて柔術を学ぼうと決心した」ようである。
しかも勝ちさえすればよいというのではなく、後に柔術からの学びを「柔道」に発展させたとき「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である」「身体精神を鍛錬修養し」「己を完成し世を補益するが柔道修行の究極の目的である」と説いているところが凄い。
一方で、「柔道は国際化していくなかで、カラー柔道着に象徴されるように、本来の柔道の考えが薄れつつあるといわれてきた」が、「嘉納が創始した講道館柔道の技と精神の原点は何であったかということを求める傾向」が強まってきており、「原点である嘉納治五郎の柔道思想に回帰しようという動きも出てきている」ようである。
嘉納は「成人時でも一五八センチ、五八キロ」だったというから、当時の日本人としても決して大きいほうではない。しかも晩年「彼はわずか一○五ポンド(四七.二五キロ)に過ぎなかったが」「ニューヨークを訪問した折に」「二○○ポンド(九○キロ)のリポーターを床に投げた」のだという。
生誕150周年を迎え、嘉納治五郎という人間が、数値を超えた巨人として蘇ってくるのである。
(板井 美浩)
出版元:筑波大学出版会
(掲載日:2011-12-10)
タグ:教育
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:気概と行動の教育者 嘉納治五郎
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
気概と行動の教育者 嘉納治五郎
e-hon
自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
近田 直人
教壇に立つまで
なぜ教える人になりたくなったのか、その原体験は思い出せない。ただ中学時代に「教育大学にいって教師になりたい」と口にしたとき、「そんなんできるわけないやろ」と担任教員に頭ごなしに否定されたことは、今も記憶の片隅に残っている。
中学生で早くも不適格の烙印を押された私は、果たして教育大学に入学した。ただ当時の共通一次試験受験時、とくに国語の問題を「なんで決められた答えから選ばなアカンねん! なんで押し付けられなアカンねん!」となぜだか怒りながら解いていたことも覚えている。 卒業時には、「(ラグビーばっかりしていた)こんなオレが人に範を垂れるなど、まだ早すぎる!」と考えたと同時に、どうしても取り組みたいフィールドと出会い、そちらに熱中した。
どうしても取り組みたかったのはアスレティックトレーナーという領域だった。その専門家として現場に立っているときも、私の中では人を育てるという感覚が強かった。長い紆余曲折を経て、不惑の年にようやく教鞭を取るようになり、それからさらに十年余りが過ぎた。
教師であること
さて本書の著者である元高校教員の近田直人氏は、現在は若手教員の人材育成を中心に活動されている。30年間の熱い教員生活の後、教育現場を政治家の立場から変えるべく大阪府議会議員選挙に打って出て、健闘虚しく落選した。目次に並ぶ見出しを見ているだけでも、「いじめ件数ゼロなんてありえない」「それでも拳で救える生徒はいる」「『自殺は絶対あかん』となぜ言えないのか」「信頼をもって成り立つ服従と愛情を持って強制すること」など、本人を直接存じ上げるわけではないので実際の人となりはわからないが、ある意味「大人の事情」に言いくるめられることなく、一種無邪気に本質にこだわり続けている印象が随所に見られる。
そんな本書を読んでいるとき、記憶の狭間から這い出てきたものがある。教師を目指し始めた中学時代、社会科の授業でディベートをした。世間知らずの私は教師は聖職者であるのが当然だと本心から力説した。そのときの社会科の先生の何か含んだ苦笑い、それを思い出したのだ。いやらしいとそのときの私は感じた。「せめて学校くらいは究極的にピュアな場所であってほしい」と語る著者と、私の性質は近い。ただ、学校という社会で理想に燃える熱血教師だけが存在してもきっとうまくはいかないとも思う。様々な学生たちがいるのだから、様々なタイプの教師がいるべきだ。そのほうが学びが多様化する。それでもなお、聖職者たるもののボトムラインは確立されていてしかるべしだとも信じる。
人間としての性質は単純に善悪が付けられるものではないが、ごくわかりやすい例で言えば、タバコを吸ったり、自らの不摂生で太っているような教師(トレーナーもしかり)は本質的なところで私は信用できない。プラトン、ソクラテス、アリストテレスなどの哲学者は筋骨隆々だったと何かの本で読んだ。真偽のほどは定かでないが、仮に後世で付け加えられた要素にしろ、自らの哲学を語るものにはその存在に説得力がなければならないということだろう。
そこにこだわった上で、その独善的な考えを今度は戒める必要がある。自らがそうあるべきだという考えを押し付けるのではなく、様々な考えを受け止め、受け入れることができなければ教師は務まらない。そのバランス感覚が難しい。教師であることはまさしく修行だ。
人としてどうあるか、どうあるべきか
私が教鞭をとるのは専門学校だ。3年間ではり師・きゅう師の国家資格および日本体育協会公認アスレティックトレーナーを養成する課程である。本書の著者が務めた公立の高等学校とは趣が違う。資格を取得し専門家となるべく目標をもった学生たちが入学してくるのだから、資格取得が教育の第一義になる。しかし過去問題に徹底して取り組むなど、テクニカルに試験合格を目指すことだけに注力するのは正しくない。現場に立ったときに、アスリートや患者の役に立つ存在になれるかどうかが問題なのだ。その準備が整っていないのであれば、まだ資格を取得する必要はない。
鍼灸師にしてもアスレティックトレーナーにしても、人の役に立つ存在になろうと思えば、人としてどうあるかを追求すること抜きには考えられない。そのためにはそこに携わる教師もまた、人としてどうあるべきかを学生たちとともに追求する存在でなければならない。ではそういう私は完璧な人間か。未だ程遠い。ではこれらのことはただの綺麗事か。いや、そうは言いたくない。確かに世の中には悪意も多く存在し、真っ当に生きようとする人間が評価されるとも限らない。だからこそ正論を正々堂々と語れる存在でありたいと取り組むのだ。医療やスポーツに携わる人間はそれを追求しやすい存在のはずだ。
私の場合は「自慢の先生になってやろう」というわけではない。好いてもらう必要もない。ただ、この人に出会ったことは悪くなかったとどこかで感じてもらえる存在でありたいと、日々鍛錬している。本書はそんな私の背骨をより正してくれたような気がする。
(山根 太治)
出版元:ザメディアジョン
(掲載日:2017-05-10)
タグ:教育
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
自慢の先生に、なってやろう! ラグビー先生の本音教育論
e-hon
アスピーガールの心と体を守る性のルール
デビ・ブラウン 村山 光子 吉野 智子
通過儀礼
私が身を置く大学は47都道府県すべてから学生を受け入れ、“医療の谷間に灯をともす。”という理念の下、へき地医療を中心とした地域医療を支える医師を育てることを目的としている。
卒業後それぞれの出身地に戻り、地域の中核病院で研修医として 2 ~ 3 年のあいだ働いて力をつけた後、各地の町・村・離島・山間の診療所へと赴くことになっている。
そこで多くの卒業生が大変なカルチャーショックを受ける。これまで学んだ最先端の医療を施してやろうと意気込んでイナカに乗り込んだにもかかわらず、まったく住民から受け入れてもらえないからだ。
そのような通過儀礼を経て初めて、地域のニーズに合った(患者のための)医療とはどんなものかと原点に返って医学を学びなおし、医師としての本当のスタートを切ることになる。
これと似たようなことを、私は赴任したての頃この大学で味わったことを思い出した。
東京で数々の一流選手を見てきた経験から最高のアドバイスをしているつもりが、ウチの学生にはちっとも通じないのだ。なぜ理解できないのだと最初は怒りに震え、これまで会ってきた一流選手たちは一瞬でわかってくれたぞと声を張り上げてはみるものの、学生たちは困惑の表情を浮かべるばかりだった。
これでは駄目だと自分の実力(数々の一流選手に会えたのも決して自分の力ではなかったことも併せて)に気づくのに鈍感な私は数年かかったが、“体育界”の人たちにしか通じなかった感覚を言葉として表す試みを続け、少しずつ分かってもらえるようになった頃やっと“体育教師”としての生活が始まったという実感を得ることができた。
「性のルール」
さて今回は、『アスピーガールの心と体を守る性のルール』。著者のデビ・ブラウンはスコットランド在住で、「アスペルガー当事者」でもある自閉症の研究者だ。
「アスピーガール」とは「アスペルガーの女の子や女性」のことを指している。彼女たちは「こちらが常識やある程度の知識を持っていることを前提として」「曖昧な教え方」をすると理解できず、「誤解して受け取ってしまうことも」ある。だから(世間の考え方に合わせているつもりで)“あたりまえ”の行動をすると、“とんでもない”と世間から批判を受け、「批判されることに敏感なので、深く傷つく」ことが多いという。
とくに「性」に関することは、「体の中で最も敏感で繊細な部分を他人にさらす行為であるため傷つくリスクも高く」なるので、「アスピーガールを守るために」「正しい知識」を身に付けることが重要になる。さらにたとえば「絶対に彼氏にしてはいけない人」の筆頭に「家族や親戚。(父親、義父、叔父、祖父、兄弟など)」が挙げられている。アスペルガーでない者にとっては少々驚く記述だが、アスピーガ ールにとっては「基本的であっても一から確認すること」が重要なのだという。
デリケートな話題だからこそ、丁寧に、可能な限りわかりやすく、しかし直接的な表現は極力用いず淡々と綴られていく。
当たり前の確認
読み進めていくうちに「性」についてこのような、解剖学的・生理学的“以外”の方法による説明に触れる機会は、アスピーガールか否かにかかわらずなかなかないのではないかということに気がついた。また、「性」に関することに限らず様々な“あたりまえ”について、「基本的であっても一から確認」し考え直してみることも人生(職業人としての人生も含め)のなかでは必要なのではないかとも思った。
翻って、今年も全国から末頼もしい学生たちが入学し学園生活にもだいぶ慣れてきたころである。彼ら、彼女らとの年齢・世代的な隔たりがますます大きくなる私にとって、「アスピーガール」に対するのと同じくらい慎重に言葉を選び、学生たちに向か い合っていくことが、これからの課題としてあげられると思うのである。
(板井 美浩)
出版元:東洋館出版社
(掲載日:2017-06-10)
タグ:人生 性教育 アスペルガー
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:アスピーガールの心と体を守る性のルール
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
アスピーガールの心と体を守る性のルール
e-hon