数学する身体
森田 真生
なぜ競走に感動するのか
100m走の世界記録は言わずと知れたウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の9.58秒。2009年の世界選手権(ベルリン)で出されたものだ。
ボルトは前年のオリンピック(2008年・北京)でも当時の世界記録となる9.69秒で優勝しており、度肝を抜くこの異次元的な世界記録更新劇は、多くの人にとって記憶に新しいことと思う。
しかしですね、ちょっと意地悪にこの記録を単なる数値で表してみたらどうなるだろう。9.58秒と9.69秒、その差はたった0.11秒、まさに“瞬く間”でしかない時間、距離にして1mちょっとくらい速くなっただけのことになる。図鑑を見ればボルトより速く足る動物はいくらでもいるし、そこらの犬でさえ7~8秒で100mを駆け抜けるのがたくさんいるではないか。そういう動物の速さに比べたら、人間は圧倒的に遅い部類に入ってしまう。こんな、むしろ“のろま”な人間の競走を見て、なぜ我々は感動するのだろう。
それはきっと“身体の同一化”のようなことが起こっているからではないかと思う。たとえばテレビに映し出される場面に身体ごと入り込んだように、あるいは自分の身体の中にレースシーンが投影されるようにイメージされる、そのようなことが皆さんにはないだろうか。実態としてボルトになったような“感覚”とは違う、場面全体が“情緒”として身体の中に昇華されたような状態というべきか。テレビ画面を見ているだけにもかかわらず、シーンと一体化し、かつ俯瞰するように、間合いを自由に行き来しつつ身体ごとレースを体感するのである。このような“自在な身体”を私たちは誰でも持っていて、同時に、“記録”の裏側や、背景にある物語とかといった“味わい”を読み取る力があるからこそ、“価値のある差”を見出し、感動することができているのではないだろうか。
また、“数”ということに関していえば、世の中には“数”の価値を読み取る力が常人とは比べものにならないほど強く、たとえば「17」と「18」の間には「味わう」べき大きな違いがあるという感性を持つ人たちがいる。数学者である。
情報から浮かび上がる像
今回は「30歳、若き異能の」数学者、森田真生による『数学する身体』。
高校時代、バスケットボールに打ち込んだ森田は、「勝ち負けよりも、無心で没頭しているときに、試合の『流れ』と一体化してしまう感覚が好きだった」。そうした経験の中から「身体」に興味を持ったようだ。大学では初め文系学部に学んだが、岡潔(数学者)によるエッセイの文庫を手にしてから数学を修めようと決心したという知的好奇心のうねりを経て、現在「京都に拠点を構え」る「独立研究者」である。
数学「mathematicsという言葉は、ギリシャ語の(学ばれるべきもの)に由来」する。単に「数学=数式と計算」という理解しかない私にとって、「=」という記号が実は16世紀になって発明された(こんな最近の出来事だったのだ!)ことや、「17」が素数(1と自分以外では割り切れない数)であることで、たった1つしか違わない18や16とは味わいが大きく異なり、だから、数学科の学生の飲み会では「居酒屋の下駄箱が素数番から埋まっていく」ことなど、驚きの記述が連続する。
何かその先にある「風景」が見たいという積極的な動機のもとに、ものすごい吸収力で情報を蓄え、大量の知識がつながりをもって身体に収まっている様子が、全編通して読み取れる。
頭がいい人は違うぜ、と片づけてしまえばそれまでだが、運動がものすごくできる人(オリンピアン・メダリスト)が、実はものすごく努力しているように、勉強がものすごくできる人も、ものすごく勉強しているのだ。書物の中から得た知識が森田の前では像を結び、著者や景色が時代・場所を超え、まるでホログラムのように浮かび上がってくる。それは、森田がそこまで資料を読み込んでいるという証拠だろう。“体育会系だから走るしか能がありません”という前に、“味わい”を探すつもりで読んでみることも“イメージトレーニング”になるのではないか。森田も元はバスケ少年、ルーツは同じだ。きっと同一化できる部分が見つけられるに違いない。
( 板井 美浩)
出版元:新潮社
(掲載日:2016-02-10)
タグ:数学 身体
カテゴリ 人生
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数学する身体
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xはたの(も)しい 魚から無限に至る、数学再発見の旅
スティーヴン・ストロガッツ 冨永 星
避けてきた数学
数学というのは、学生時代は、できればおつきあいしたくないものの1つであった。
それでも大人になるにつれ、さまざまな場面で数字で表わされる事柄を見ると、やはり逃れられないのだなと感じる。仕事に就いた今も、数字と向き合わない日はない。学生時代にもっとしっかり勉強しておけばよかったと今さらながら思っている。そういう負い目もあり、時折、数学や物理に関する本に手を出してみたりもする。
書店でふと本書と目があってしまった本書の原題は「The joy of χ -a guided tour of mathematics, from one to infinity」。「χの喜び 1から無限の数学のガイドツア-」かぁ。なんだか難しそうだが、面白そうでもある。思った通り、難解な部分もあるが、エッセイとして読むのには文句なく面白く、ところどころにある例題に立ち止まり、じっくり考えてみるのも楽しかった。
導いた答えは
「1週間の休暇を取ることになったあなたは、出発する前に、ぼんやりした友人に弱っている植物に水をやっておいてくれと頼む。水やりを欠かすと、その植物は90%枯れる。そのうえ、ちゃんと水やりをしても枯れる確率が20%、さらにその友人が水やりを忘れる可能性が30%。このとき、(a)植物がこの1週間を乗り切れる可能性、(b)あなたが戻ったときに植物が枯れていたとして、友人が水やりを忘れた可能性、(c)友人が水やりを忘れたとして、戻って来たときに植物が枯れている可能性はどのくらいか」
このような実際的な問題は、私たちの身の回りに数えきれないほどある。
日々、好むと好まざるとにかかわらず、必要に迫られてどうにか対処しているのだが、どうも数学というのは実際とちょっと違うのではないかと感じるときもある。
この友人に水やりを頼む問題も、どれとどれをかけ合わせるべきなのか、わけがわからなくなる。そこで私が導いた答えはこうだ。(a)(b)(c)ともに50%!。枯れるか枯れないか、水をやったかやらないか、2つに1つだからだ。
水やりを欠かすとその植物が枯れる確率は90%ということだが、言い換えると10回に1回は水をやらなくても枯れないということである。しかし、タイムマシンでもない限り、同じ植物と条件で10回試してみることは不可能だし、そもそも、忘れる可能性が30%もある友人にこんな大事なことを頼んではいけないのではないか、とつい余計なことが気になってしまう。
わからないなりに楽しい
科学的思考ができない奴だと言われるかもしれない。著者も「このような問題で正しい答えを得るには、全てが確率通りに起きるとみなす必要がある」と書いている。しかし、やはり、10回中1回の確率だとしても、最初の1回目だけが現実の結果なのだと思う。10,000回に1回の確率と言われていることが連続で起こることだってあるだろう。
単純化することで、却って自分が感じている実感と数字との間に隔たりができる。なんとなくうまく言いくるめられているような妙な警戒感を持ってしまう。その挙句、数学など閑人が小難しい理屈をこねて悦に入っているだけなのではないかと思ってしまう。ついていけない者の僻みだろうか。「数学とは元から存在するものを人が“発見”するのだろうか? それとも人間による“発明”なのだろうか?」という議論が古くからあると聞く。eとかiとかπとか√とか、そういうものは人間が考え出したのであって「元から存在する」のではないだろうと思う。
一方で、私が見えていないというだけで、実際にそこらへんにあるのではないかという気もしてくる。
数学者たちには、私には見えない世界が見えていて、私には分からない言語(数式)で会話をしている。残念ながら私には「x」に喜びも楽しさも頼もしさも感じられないし、無限に微分積分に正弦波に指数・対数…とクラクラしそうなテーマが続く。それでも、ぐいぐいと読み進めてしまう力が本書にはある。きっと、著者が「ね、面白いでしょ」と無邪気に話しかけてきているせいだ。翻訳本によくある日本語の違和感も全くなく、読みやすい。
この「ガイドツアー」で全く別の世界をのぞき見させてもらい、自分の知らない世界の存在を感じ、わからないなりにとても楽しかった。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2014-12-10)
タグ:数学
カテゴリ その他
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