手の日本人、足の西欧人
大築 立志
「足」という字を「あし」と読むのには「悪し(あし)」との関連があるという説があるそうです。ふだんあれだけお世話になっている「足」なのにイメージ的によくない印象があり、それは西欧とは違う日本の文化に由来する。そんな内容が多くの事例とともに解説された一冊です。
「手」を重んじる日本と「足」を重んじる西欧人という対立した機軸での展開は、ややもすれば結論ありきという強引さも伺えますが、おおむね納得できる内容です。「手の文化」と「足の文化」の違いは、私たちのあまりなじみのなかった欧米文化の謎を解いてくれるようです。大統領がマスコミを相手に話をするときデスクに足を乗せて話せば、おそらくほとんどの日本人は眉をひそめ人格を疑うに違いありません。ところがあちらでは、それが「親近感」をアピールするための手段として用いられるというのですから驚きです。グローバル化が進み世界中の垣根が低くなりつつある中で、現存する文化価値観の違いによる行き違い。欧米化が進んだと言われる日本においてさえ、まだまだ理解し合わないといけない事柄はたくさんあるようです。
農耕民族と狩猟民族の違いという結論が、21世紀という時代に入ってなおしっかりと現代に受け継がれていることに興味深いものがあります。西欧人との違いを比べるというよりも日本人の文化のルーツをここに見つけることができそうです。植物を食料として確保しえた生活環境だからこそ、動物を殺してはいけないという「殺生戒」という思想が生まれたのではないかというくだりは宗教観にも及びます。
エピローグで筆者が面白いことを述べておられます。「『西洋と日本との間には手足に対する見方があるに違いない』という考えに取り付かれて、冷静な目を失ってしまったかもしれない」と断った上で、文化の違いを明らかにするということは、自分が常識だと思っていることを疑うことであるといわれます。要するに自分との違いを非難することではなく、相手の歩んできた歴史を知ることによりさらに深く相手を理解するという目的が優先すべきなんだろうと思います。
(辻田 浩志)
出版元:徳間書店
(掲載日:2012-01-19)
タグ:比較文化
カテゴリ 人生
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やわらかアカデミズム・わかるシリーズ よくわかるスポーツ文化論
井上 俊 菊 幸一
教科書のような体裁で、多岐に渡るトピックがコンパクトにまとめられている。欄外にて用語説明や文献紹介がなされ、基礎から発展までカバーする。教育、ビジネス、地域といった様々な視点を含み、調査法にまで言及している本書は、スポーツを学ぼうとする人にとって必携の書と言っても過言ではない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ミネルヴァ書房
(掲載日:2012-08-03)
タグ:スポーツ文化論
カテゴリ スポーツ社会学
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からだの日本文化
多田 道太郎
『しぐさの日本文化』や『複製芸術論』で知られる著者の「肩のこらない」からだにまつわる日本文化の話。 頭、顔、肩、背中、腹、ヘソ、ウエスト、ヒップ、腰、尻、足の11項目でまとめられている。
例えば、「少し具合の悪いところができると、日本人は何でも『からだ』のせいにする。カナダ人は『精神』のせいにする」(P.38)。だから、日本人は医者やマッサージ師に駆け込み、カナダ人は精神分析のクリニックに向かうと言う。「屁は尻に出て又鼻に逆戻り」というなかなか味わい(?)のある秀句も紹介されている。どこの国の人であろうと、この身体は同じようなもののはずだが、そこに文化が加わると、どうも同じようではない。鼻を高い、低いと日本語では表現するが、例のクレオパトラの鼻については、フランス語では「もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら」と表現されているとか。
しかし、どうしても私たちはこのからだに染みついた文化から離れることは難しい。それなら、他の文化ではどうかを知り、見方を変えてみるのも、からだによいかもしれない。軽く読めるが、う~んと考えるところは多い。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:潮出版社
(掲載日:2002-06-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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イルボンは好きですか?
山田 ゆかり
月刊スポーツメディスンで連載中の山田さんの最新の書。写真は原山カヲルさん。著者は、週刊朝日の仕事で韓国のスポーツ選手を取材、毎月韓国に行く生活を過ごしてきた。その中で、スポーツ選手のみならず、特に「新世代」と呼ばれる高校生、大学生に興味を持ち始めた。この本はその新世代75人へのインタビューをまとめたものである。
タイトルの「イルボン」はもちろん「日本」の意味だが、韓国の若者に、日本の国のイメージ、日本人のイメージなどをどんどん聞いていく。著者は当初、日本の若者と同じだと思ったのが、やはり違う点を見出していく。その彼らの素顔を原山さんがカメラに収めていく。
ワールドカップを機に日本と韓国の交流は以前より盛んになりつつある。互いの国に対するそれぞれのイメージがあるが、やがてそれは変貌するかもしれない。
サッカーのワールドカップは単にスポーツイベントではないと言われる。それが本当にどういうことかがわかるのは間もなくである。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:朝日ソノラマ
(掲載日:2002-06-15)
タグ:文化 インタビュー 韓国
カテゴリ その他
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からだことば
立川 昭二
身体感覚と、言語、文化との結びつきを、豊富な例を駆使しながら話し言葉で解説している。民族独自の身体感覚が表れている例として、日本人は肩がこり、アメリカ人は首がこり、フランス人は背中がこると言う。肩に対しての意識は、日本人において強い。「肩にかかる、肩身が狭い、肩を持つ、肩書き」など。こうした問題を、歴史的に分析し、現代社会を読み解いている。
痛みについての表現でも、日本では擬態語を使ったズキズキ、キリキリ、シクシクという表現を共有している。そして、痛みがあって初めて内臓や骨を強く意識する。痛み自体が、身体からの自己表現手段になっている。痛みそのものは、他人には理解できない。自分が痛みの体験をもっているから、他者の痛みを理解できるのである。その感覚をお亘いに知っているからこそ、人間的な関係が築けるのではないかと言う。
しぐさや言葉の使われ方を丁寧に観察し、考えを進めていくことで、これほど豊かな世界が広がっていたという新鮮な発見が得られる書である。言葉の使い方や目の向け方に少し気を使うことで、相手とのコミュニケーションは豊かに円滑になるかもしれない。それは医療でもスポーツでも会社でも同じである。著者は、医療では患者に専門用語を使うべきではないと言っている。せめて看護師が、医師の言葉を翻訳して伝えたほうがよいだろうとも言い、「医療が変わるには、まず医療の言葉がかわらなくてはなりませんね」。
言葉と身体感覚については、もつと切実な思いを持っている方も多いだろう。
現代社会でだんだんと失われていった身体に関する知恵が、今もなおしぐさや言葉に色濃く残っている。それは文化の財産としてこれからも生かすことができるはずである。
(清家 輝文)
出版元:早川書房
(掲載日:2002-12-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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叢書 身体と文化
野村 雅一
1996年8月、まず第2巻『コミュニケーションとしての身体』が刊行され、1999年に第1巻『技術としての身体』が刊行されたが、第3巻『表象としての身体』(写真)がついに今年7月に出て、全3巻が完成した。野村雅一、市川雅、菅原和孝、鷲田清一氏らが編集、執筆は数多くの研究者らが担当している。
ほぼ10年前からの仕事である。96年というのは阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こった翌年、身体や精神、信仰などへの関心が高まった頃でもある。とくに阪神淡路大震災では、わが身のみならず、互いの「からだ」を思いやる状況が自然に生まれ、生きているからだをいつくしむ気持ちの一方で、「透明なぼく」という表現は身体のありかが不明になっている状態も示していた。この時期から、「身体論」が多く世に出るようになった。
この叢書では、第1巻で人間の感覚の様態そのものから身体技術のさまざまな断片とそれらの社会的・文化的な意味について、第2巻で社会・文化的脈絡のなかで身体がおびるコミュニケーションとしての働きとそれを構成する秩序と構造について、第3巻でさまざまな文化の中で身体がどう解釈され表現されてきたかについてそれぞれ解明・検証している。
総じて論じるのは無理があるが、読者は今生きている私の身体を取り巻くものがあまりにも多く、深い層からなっていることに気がつくだろう。楽しみつつ考えつつ、読んでいただきたい。
野村雅一ほか編
第1巻:1999年6月1日刊、第2巻:1996年8月10日、第3巻:2005年7月1日刊、各4,200円
(清家 輝文)
出版元:大修館書店
(掲載日:2012-10-10)
タグ:身体 文化 コミュニケーション 技術
カテゴリ 身体
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坐のはなし
森 義明
「歩く」ことについては健康への関心の高さから多くの研究がされているが、それと比較すると「坐る」ことについての研究は少ない。著者の森氏は、膝障害における正座の有効性の有無について明らかにするという医学的な分野から「坐る」ことに着目しているが、本書は坐りの文化について言及、現在の日本人の「坐る」ことの意義についてまとめている。
副題は『坐りからみた日本の生活文化』。「坐る」を“尻(坐骨結節)で上体を支える”ことと捉え、「坐の習慣」「坐の変遷」「国々、宗教と坐り」「『坐』の種類」「坐りと身体」「坐具」「『坐』の分類」の各項目で考察されている。
坐りにはざまざまな型があり、それぞれ休息、礼儀、構えなどの異なる目的がある。現在では移動中でも坐っていることが多い。環境によって変化する坐り方が身体にどのような影響を与えているのか。「坐る」ことにももっと目を向ける必要がありそうだ。
2005年6月20日刊
(長谷川 智憲)
出版元:相模書房
(掲載日:2012-10-10)
タグ:日本文化 坐る
カテゴリ 身体
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身体の文化史
小倉 孝誠
近代フランスの文学と文化史を専門とする著者の『<女らしさ>はどう作られたのか』(法蔵館、1999)に次ぐ身体に関する著作が本書である。副題は『病・官能・感覚』。
「女性の身体とジェンダー」「身体感覚と文化」「病はどのように語られてきたか」の3部構成からなるこの本の特徴は、文学への身体論的アプローチを試みているという点である。主に近代フランスにおける身体とそれにまつわる欲望や快楽、感覚、病について、文学作品、回想録、医学書、衛生学関係の著作、歴史書、礼儀作法書などを基に考察している。日本の文学作品についても随所に出てくる。
文学において身体は常に取り上げられる要素であり、さまざまな作品を通じてその時代の身体の捉えられ方を知ることができる。病のくだりで「健康という、本来は私生活上の配慮であったものが、現代ではさまざまな行政と政治のメカニズムによって引き受けられるようになった」とあるが、そこに至る背景を読み解くうえでも参考になる。
2006年4月10日刊
(長谷川 智憲)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 フランス 感覚 文化史
カテゴリ 身体
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近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 今福 龍太 西谷 修
スポーツ史、文化人類学、哲学というそれぞれ異なる分野から、スポーツの果たしてきた役割について語り合うもの。複数回のシンポジウムでの発言をもとに書籍化している。メディアとの関係性、世界情勢の影響をどのように受けるかなどが立場が違う分、広がりを見せている。
「近代スポーツは、すでにその役割を終えているのではないか」といった指摘もあり、興味深い。エッセイ的なコラムや、各人の思い出として語られた部分から、考える手がかりは身体そのものにあるということが読み取れる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:平凡社
(掲載日:2010-01-10)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
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よくわかるスポーツ文化論
井上 俊 菊 幸一
教科書のような体裁で、多岐に渡るトピックがコンパクトにまとめられている。欄外にて用語説明や文献紹介がなされ、基礎から発展までカバーする。
教育、ビジネス、地域といった様々な視点を含み、調査法にまで言及している本書は、スポーツを学ぼうとする人にとって必携の書と言っても過言ではない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ミネルヴァ書房
(掲載日:2012-08-10)
タグ:スポーツ文化
カテゴリ その他
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「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
渥美 一弥
身体運動の文化的側面
人が生活していく中で行う身体運動には、いくつかの側面がある。
一つには、生命を維持するための行為で、ひとまずここでは “自然(nature)的身体運動”と呼ぶ。もう一つには、人々が構成する“社会”の慣習が反映された中で成り立ってきた側面があって、ここではこれを “文化(culture)的身体運動”と呼ぶこととして話を進めたい。
たとえば、食物を摂取するという行為。これは、食物を咀嚼したり、嚥下したり、消化・吸収(これは運動というより活動か)するなど、“経口的に栄養物を摂取する”という行為そのもので、命を保つために必須の“自然的身体運動”であるといえよう。
しかしこの“食物摂取”という表現を“ご飯を食べる”という表現に変えてみるとどうだろう。何を、どのように(調理して)“ご飯”として食べるのか、さらにその“ご飯”をどうやって(行儀や作法)食べるのか、などということが加味されてくると、話はややこしくなる。それはもはや“生命維持”のためだけでない、なにか別の価値観が加わった“文化的身体運動”ということになり、挙句は、ご飯の食べ方が悪い(つまり、お行儀が悪い)と“親の躾がなっていない”などと、本人ばかりでなく親まで引っ張り出され罵倒される(“社会”の最小構成単位は“家庭(家族)”だからだ)顛末となる。
身体運動に現れるもの
では、“歩く”、“走る”、“跳ぶ”、“投げる”といった身体運動は、どちらに分類したらいいのだろう。
何かに驚いて飛び退く、あるいは危険から身を護るため走ったり跳んだりして逃げる。これは、自然的身体運動だろう。では、狩猟という行為はどうだろう。獲物を捜し歩き、走って追いかけ、石を投げて仕留める。これは原始の社会では命を支えていくための行為ではあるが、狩猟の背景には文化の気配が濃厚にある。次に、歩きながら種を蒔くなど農耕に関する身体運動、これはどうか。これは“culture”の訳そのものだから当然、文化的身体運動ということになるだろう。さらには、スポーツのような身体運動や、踊る・舞う・演ずるといった表現活動は、明らかに文化的身体運動であるといえよう。
このように考えると、人の身体運動はそのほとんどが文化的なものであって、そこには人それぞれの文化的背景が反映されているということになる。換言すれば、身体運動を見れば、その人となりがわかる、つまり“運動には人が出る”と考えることもできる気がするのである。
人が運動する姿には、それぞれの個性が凝縮されて具現化する。たくさんの言葉を重ねるより、走る姿を一度眺めるほうが、よほど深くその人のことがわかるような気がするのである。
このような身体運動の捉え方について、長いこと感覚的には気づいていたものの言葉では考察することができずにいたところ、大きなヒントを与えてくれる人が現れた。
捉え方が変わる
さて、今回は『「共感」へのアプローチ 文化人類学への第一歩』である。著者の渥美一弥は、同じ職場に身をおく文化人類学の教授だ。あ、また内輪の書籍を取り上げているとお咎めの声も聞かれそうだが、仕方ない。面白いのだ。
渥美は、「カナダ西部の美しい森と海岸線に沿って居住する集団(人類学では一般に『北西海岸先住民』と呼ばれる)の一つであるサーニッチの人々の文化復興運動と民族的アイデンティティの関係の研究」を専門とし、長いこと在野で研究を行ってきた文化人類学者である。私たち(いわゆる体育系の人間)とは明らかに異なる文化的背景をもって世の中を眺めている人である。
だから、渥美との会話は刺激に満ちている。
身体運動の捉え方について、感覚的には気づいていたものの言葉で考察することはできずにいたことに、様々な切り口で見るヒントを与えてくれるのである。己の肌感覚だけで分かっていた(と自己満足に浸るしかなかった)ことを“文(章)化”することで、人に伝えることができる醍醐味に気づかせてくれるのである。
さらに言えば、本書を読むと、自然(nature)と文化(culture)という用語が、実はもっと深い意味を持って考察されるべき言葉であったことがわかる。
“身体運動”とは何か、その捉え方が昨日までと変わること、実に愉快である。モノの考え方が変わると、世の中が違って見えるからだ。
“運動には人が出る”ように、“文章には人が出る”。一語一語、噛みしめるように丁寧に綴られる本書には、渥美の人となりが凝縮されているようだ。日頃の付き合いの中で、分かったような気になっていた勘違いを恥じ入るとともに、この人の本質が垣間見ることができたようで嬉しい(これも早とちりかもしれないが)と、本書を読んで思うのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2016-06-10)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
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「共感」へのアプローチ 文化人類学の第一歩
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近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界
稲垣 正浩 西谷 修 今福 龍太
一見、スポーツ科学の専門家が科学的な見解から書いている著書だと思いきや、著者は文化人類学者、フランス文学者、外国語大学のスポーツ史学者といった文系の専門家が近代スポーツとその向かう方向性について討論した内容が載っている本であった。
1章は「スポーツからみえる世界」、2章は「オリンピックからみえる世界」、3章は「21世紀の身体」、4章は「グローバリゼーションとスポーツ文化」と、幅広いテーマで語られているが、討論形式である為、各章のタイトル以外にも様々な点について言及されており、読者の世界をどんどん広めてくれる構成といえる。
私は従来、トレーナーとして、また医療従事者として、身体を科学し、クライエントや患者の抱えている問題を解決し、目標を達成させる立場にある。つまり、かなり理系の思考回路をもって人の身体やスポーツを見つめてきた。しかし、この明らかな文科系の第一線級の著者たちは、全く違う考え方でスポーツや人の身体を捉えており、彼らが論じたスポーツや人の身体の世界は、私に新たな考え方を提供してくれた。
とくに、近代化、科学的根拠に裏付けられ過ぎたサイボーグのような近代アスリート、勝ちにこだわり過ぎたことでエンターテイメント性を失った戦略、スポーツが本来持つべきナショナリズムや政治性をはき違えた放映の仕方をするメディア、平和性や安全性を高めすぎた結果のリアリティ喪失について、危機感を持つ考え方は非常に新鮮であった。
本書はスポーツ観戦をもっと楽しむためのアイデアだけでなく、この国のスポーツ産業活性化のヒントを与えてくれている。スポーツに関わる様々な職種(トレーナー、スポーツマーケティング関係者、監督、政治家など)の人にぜひともお勧めしたい。
(宮崎 喬平)
出版元:平凡社
(掲載日:2018-01-15)
タグ:スポーツ史 文化人類学 哲学
カテゴリ その他
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不合理だらけの日本スポーツ界
河田 剛
2008年北京オリンピックでのメダル獲得数:25個。この集計の母数が何か、わかるだろうか。
そう、これは、日本がこの大会で獲得したメダルの総数である。そして同時に、アメリカ・カリフォルニア州にある名門スタンフォード大学1校から、同大会で輩出されたメダリストの総数でもある。
これが何を意味するか。「極論ではあるが」と前置きした著者の言葉を借りて説明するなら、一方は競技だけに集中してきた、また、そうすることが許される、またはそう仕向けられているアスリートがとったオリンピックメダルであり、もう一方は、将来を見据えたうえで、勉強などいろいろなことに取り組んでいる学生アスリートがとったオリンピックメダルである。
イギリスの高等教育専門誌が発表しているThe World University Rankings 2020で、日本で最も高い順位にランクインしたのは東京大学の36位。それと比較して前述のスタンフォード大学は第4位と評価されていることからも、そこに通う学生たちがいかに日々勉学に励み、高いGPAを維持して卒業していくかは想像に易いだろう。日本で、ここまで世界トップレベルの文武両道を体現している競技アスリートは一体どのくらいいるのだろうか? それは、個人の努力や意識という範囲の責任ではなく、私たちの社会が、どれだけアスリートたちが、競技だけでなくセカンドキャリアにつながる勉強を両立させられる体制を整え、当たり前にサポートするシステムを作っていないかという問題なのである。
この本の著者である河田剛氏は、日本でアメリカンフットボールの選手、コーチを経験したのちにアメリカに渡り、2007年からスタンフォード大学のアメリカンフットボール部のコーチとしてチームに勤務されている。冒頭で紹介した日本とアメリカでのオリンピックメダリストの生まれ方の違いがなぜ起こるのかを、日本で生まれ育ち、アメリカのトップ層を見てきた日本人の視点で解説し、タイトル通り「不合理な」日本スポーツ界の在り方に警鐘を鳴らしている。
本書で言及されているアメリカのスポーツにあり、日本のスポーツにないもののいくつかを列挙してみよう。きちんとお金を集めて流すシステム。充実した指導者育成システム。先進的なスポーツメディカルチームによるサポート。メディアリレーションの専門家。マルチスポーツ(複数のスポーツ)をプレーする文化。引退後のセカンドキャリア支援体制…などである。いずれも、どんなレベルであれスポーツに関わる人であれば、関心の高いキーワードばかりではないだろうか。アメリカのスポーツ業界が日本のそれよりよっぽど成熟しているというのは、スポーツに深く関わりのない人でもなんとなくイメージできるだろう。本書では、それが実際どのような事実として違いがあるのか、多数の具体的なエピソードとともに丁寧に解説されている。
本文中で何度も述べられているが、筆者は日本人の勤勉性や国民性、これまで培ってきた社会の仕組みを一切否定し、アメリカのやり方が全てよいと言いたいわけではない。しかし、いろんな局面で「合理的」とはかけ離れた日本のスポーツ界が、効率的に成果をあげるシステム構築が圧倒的にうまいアメリカの手法から学べることを積極的に吸収し、体制を変化させていくことが、きたる2020年東京オリンピック・パラリンピックの成功と、その後の発展の鍵となることは間違いないだろう。
(今中 祐子)
出版元:ディスカヴァー・トゥエンティワン
(掲載日:2019-10-15)
タグ:教育 文化
カテゴリ その他
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カラダの意外な見方・考え方
林 好子
近年、動作解析などが進み身体の分析は様々な角度からなされるようになりました。自分の身体は自分の思うがままに動かせる。そんな風に思っていたら実はそうではなくてうまく身体を動かす能力がない、あるいはバランスの悪さゆえに思っていた動きと違うことをしているということに気づきました。医科学は身体の内から外からその原因を明らかにしようとしています。
正直多岐にわたる身体の見方は出尽くした感があったのですが、本書のタイトルの通り身体に対する「意外な見方や考え方」がまだまだあるようです。マクロとミクロとの見方の違いなのかと考えながら読み進めていくとどうやらその考え方も正しくなさそうです。
理学療法士・合気道・アレクサンダーテクニークというそれぞれ違った目線は自由奔放ともいえる身体の見方を提案してくれました。純粋なアレクサンダーテクニークの視点でもないので、どこから何が飛んでくるかわからない期待感を持ちながら読んでしまいました。
それぞれの項目で筆者のコラムが登場するのですが、ユニークな発想から生まれる身体感はときおり考え込んでしまいました。その人のそのときの心理状態で同じ時間が長く感じられたり短く感じられたりして、その違いにより身のこなしが変わるという解説もありました。これは納得です。余裕のあるときの1時間と焦っているときの1時間ではできる動きに大きな差が出るのはわかります。しかし今までそういう違いを身体を通して見ることはしていません。そういう発想がなかったからです。
やっとここで気づいたのは「カラダの意外な見方考え方」というタイトル表記のうち「意外な」というワードだけ異様に大きく色も変わっています。こんなところにしがみついて悩む人はいないだろうと思いますが、スポーツ医科学の身体の見方と筆者の身体の見方の違いがわかったような気がします。前者が純粋に身体や動作の分析であるのに対し、後者は何か別の要素と身体を絡めた上での見方をされているのではないでしょうか。心理・時間・文化・気候など本書で述べられていることは純粋な身体についての考察にとどまらず動きのバックグラウンドを見過ごしていないところに、本書のユニークさであったり特徴があるのだと感じました。どちらがよいとかいう問題ではなくこういった発想は時には現実に即していることもあり無視できない場合もあるでしょう。
環境まで身体を見る要素に加えてしまうと発想は無限大になりそうです。身体を解き明かすためのヒントはいくらあってもいいと思います。
(辻田 浩志)
出版元:BABジャパン
(掲載日:2021-10-11)
タグ:見方 文化
カテゴリ 身体
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スポーツ文化の脱構築
稲垣 正浩
優勝劣敗、勝利至上主義を押し出してきた一元的な欧州産近代スポーツの歴史は潰え、多様化したスポーツの時代が始まろうとしている。こうした認識に立ち著者は、再構築ではなく“脱構築”を唱える。ではいったい脱構築とはどういうことか? ややとっつきにくい口調ではあるが、深く読み応えのある本である。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:叢文社
(掲載日:2001-12-10)
タグ:文化
カテゴリ その他
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不幸に気づかないアメリカ人、幸せに気づかない日本人
小林 至
当然のことながらスポーツ界にも影響を及ぼしている構造不況、リストラ。「そんなことで参っていることはないよ」というメッセージがこの本からは伝わってくる。それは、序文にある「それにしてもすごい国をつくったものだ」というアメリカから見た日本への賛嘆句からもわかる。ウェブ編集長や雑誌のコラムなども担当した小林氏だけに非常にテンポよく書かれており、「不幸に気づかないアメリカ人、幸せに気づかない日本人」がすんなり頭に入ってくる。
さて内容だが、小林氏が1994年にアメリカに渡って感じたこと。そして、4年間住み着いたフロリダ州オーランドをさらなければならなかった理由から“物語”は始まり、オーランドを2000年9月25日に発って同年ワシントン州シアトルに着くまでの車の旅話が、アメリカの文化や経済を介して進んでいくのである。そのほとんどが、不幸に気づかないアメリカ人の話で、それがわんさか出てくる。アメリカに希望を抱いている人には、「別に行かなくてもいいか、日本に居よっと」と思わせてくれるくらいの情報量で、ちょっと間違えば毒舌と言われてしまうだろうが、観光ではなく実際に住み着いてわかることばかりだから棘がない。
スポーツの話も、皮肉混じりに述べられているから読みやすいということもある。例えば、アメリカ人は実はオリンピックに無関心だったり(マスメディアの影響もあって)、ヨーロッパへのコンプレックスでサッカーに見向きもせず、マラソンや柔道にはまるでマイナースポーツ扱いであること、などなど。
そして最後に、「今こそ日本の出番だ」ということになるが、日本のよさに比べてアメリカ批判が多いというアンバランスをさっ引かずとも面白く読める本である。もうそろそろ、スポーツ界でも両手を挙げての「アメリカ礼賛」をやめなければという声が聞こえてきそう。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ドリームクエスト
(掲載日:2002-03-10)
タグ:文化
カテゴリ その他
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人民服を着た青年海外協力隊員 率先垂範、中国トップマラソンランナーまで育て上げた杉本コーチの実記録
小松 征司
「六・四事件」、通称「天安門事件」を挟んだ1988〜90年の間に、中国(内モンゴル自治区)で陸上競技・長距離選手の指導に「海外青年協力隊員」として携わった杉本和之氏の話と、それにまつわる“異文化交流”が題材となっている。
ドキュメンタリータッチで綴られている内容は、早稲田大学・陸上競技部出身で、近代日本風あるいは体育界気質の運動部で育った中国人学生に暴力をふるってしまったという“事件”が小さな日中問題へと発展していくところから始まる。そして、事態を収束に向かわせるべく渡中した元海外青年協力隊員の著者が、懐深い中国で感じる文化の違いや、妙などをふんだんに織り込んでできあがっている。
1つの事件を取り囲んでいる舞台は、杉本氏を迎え入れている体育工作第二大隊(マラソン分隊)。体育工作第二大隊長、選手たち、著者である小松氏、そして本人が登場する。「なぐった」という事実がある以上、一方的に非があるのは杉本氏なのだが、なんとも真相が曖昧な状況に納得がいかない著者は、思案し解決に導こうとするが、諮らずも中国の慣習となっている答礼宴(招待を受けたら必ずお返しをする習わし)で、当事者同士の和解を見ることとなる。
本音と建前が明確に存在するという中国で、なかなか本音を見出せないでいた著者が、全中国夏季マラソン大会や北京国際マラソンで活躍する杉本氏の“心で走る”姿勢に、当地で協力隊事業を立ち上げた自らを投影させる。スポーツを通して異文化に接することのできる本。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:文芸社
(掲載日:2002-04-10)
タグ:文化
カテゴリ その他
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人民服を着た青年海外協力隊員 率先垂範、中国トップマラソンランナーまで育て上げた杉本コーチの実記録
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はみだしの人類学 ともに生きる方法
松村 圭一郎
ひとをどんな存在としてとらえるか? それが、世界の成り立ちを理解することであり、現在直面している問題を考えることでもある。この問いを出発点にして、本書は始まる。
ひととひとがいれば、そこには関係が生まれる。これを「つながり」とする。さらに「輪郭が強調されるつながり」と「輪郭が溶けるつながり」のふたつに大別する。
文化人類学は、どちらかといえば後者を大切にしてきた、と著者はいう。自分が揺さぶられ、境界線がわからなくなり、自分自身の変容を迫られる。とくにフィールドワークで異なる文化圏に長期参与する場合は、そうでなければ生活できない、と。
他者に開かれていること。自分を維持しながらも、他者との出会いによって新しい自分が引き出され、つい境界線をはみだしてしまうような関係性、それが正しい、というのではなくて、その方が生きやすいのでは? と著者はいう。
細胞膜を、思い浮かべた。細胞膜は半透膜だ。通すものと通さないものが、条件によって変わる。あるいは、膜の一部とともに物質を出し入れしたりもする。その働きによってホメオスタシス、つまり生体の恒常性は維持される。一定に保たれる、というより、ある範囲でゆらいでいる、というイメージの方が近い。細胞は常に外部と接触し、しなやかな境界面を変化させながら、場合によっては異物を内部に取り入れ、途方もない時間をかけて進化してきた。
もし細胞膜が、硬直した構造と機能しか持たなかったら、いきものは存在しない。そんな、ちょっと飛躍したことを考えた。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2022-08-02)
タグ:文化人類学
カテゴリ その他
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