ローイングの健康スポーツ科学
樋口 満
ローイングとはボート漕ぎのこと。欧米では生涯スポーツの1つとして認知されている。日本でも普及することを願って、本書が編纂された。
座って行えるローイングは健康づくりのエクササイズに適していることから、中高年者の身体への影響や実施時の注意点についても詳しく記述されているのが特色と言える。
ローイングの研究者としても愛好者としてもキャリアの長い樋口氏の情熱がうかがえる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:市村出版
(掲載日:2012-04-10)
タグ:漕艇 トレーニング 健康
カテゴリ スポーツ医科学
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ローイングの健康スポーツ科学
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ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち
ダニエル・ジェイムズ・ブラウン 森内 薫
漕艇部員の悩み
私の娘は中学2年生で、漕艇部に所属している。
今は自分の競技の悩みよりも、チームメイトとの相性が合うとか合わないという文句を自宅に帰ってから吐き出しており、いくら思春期だとはいえ、聞かされる方は大変である。
まあ、そういう、周囲から見れば取るに足らないことを自分にとっては大ごとと錯覚して振り回されるのも、子どもから大人への成長過程での通過儀礼なのだろうから、そっと見守るしかないのだろう。
ただ勝つために漕ぐ
本書の邦題は『ヒトラーのオリンピックに挑んだ...』となっているが、原題は『THE BOYS IN THE BOAT~Nine Americans and Their Epic Quest for Gold at the 1936 Berlin Olympics』である。金メダルを追い求めた壮大な冒険譚というニュアンスだと思うのだが、「ヒトラーのオリンピックに挑む」と言ってしまうと、どうしても政治的な匂いを感じてしまうので、どうもあまり好きになれない。
本書で余計だなと感じるのは、当時のドイツの詳細な記述に多くのページを費やしていることである。
ナチスドイツの狂気が加速していく中でプロパガンダとして行われたベルリンオリンピックにおいて、アメリカクルーが逆境をはねのけ、後に枢軸国と呼ばれアメリカと敵対するドイツやイタリアと勇敢に戦った。そのことにアメリカの優位性や正当性を投影するのは、白けてしまうし、またそれを「(ヒトラーは)自分の運命の予兆を目にしていたのに、それに気づかなかったのだ」と言ってしまうのはいかがなものか。
ベルリンオリンピックはナチスの大掛かりなプロパガンダであったのかもしれないが、この選手たちは純粋にボートを漕いだのだと思う。「M.I.B」(mind in boat、心はボートの中に)の掛け声のとおり、「シェル艇に足を踏み入れた瞬間から、ゴールラインを越える瞬間まで、舟の中で起きることだけに心を集中させる」ことを実践し、オリンピックの決勝レースで、圧倒的に不利な状況で、彼らはそれをやってのけた。そのことにただ感動するばかりだ。
両親に捨てられて過酷な生活を余儀なくされ、「もう二度と誰かに依存したりしない。家族にも、他のだれにも頼らない」と心に誓ったジョー・ランツ。そのジョーが、「チームメイトに対して自分の全部を明け渡し」、「仲間をただ信頼」するまでに変化した。そしてオリンピックの決勝レース前に出場不可能なほど体調を崩した整調(クルーのリード役。こぎ手全員の調子を揃える役割を担う。ストロークとも)のために「僕らはひとつのボートに乗ったただの九人ではなく、みなでひとつのクルーなのだから」と確信し、補欠を乗せようとしたコーチに「僕らがゴールに連れて行きます。乗せて、ストレッチャーに固定さえしてくれたら、みんなで一緒にゴールまで行ける」と直談判するに至る。これはナチスに挑んだ若者ではなく、漕艇を通じて成長する若者の物語だと思う。
本稿を書く少し前、映画『バンクーバーの朝日』を見た。スポーツのすごさと同時に、戦争へと進む社会の中での無力さも感じたのであるが、本書でもまた同じ気持ちを味わった。
アメリカクルーだけでなく、ドイツもイタリアもその他の参加国のクルーも、みな純粋にただレースに勝つためにボートを漕いだのだと思う。自分のエゴも政治的なことや人種のことなども、「ガンネルの外に投げ捨てボートの背後に渦をまかせて」いたのだと思う。
私の想像であるが、ドイツのクルーはそれをしたくても、時代や社会がそれを許さなかったのかもしれない。だから私は、1936年のベルリンオリンピックを「ヒトラーのオリンピック」としている本書の邦題を好きになれないのだと思う。
スポーツは誰のものか
スポーツは、プレーヤーや観客のものだ。ボートを一番速く漕ぐのは誰か、などという、実生活では何の役にも立たないことに老若男女が夢中になること自体がとても貴重なのだ。そして、望めばそれができるという今の日本に感謝しなくては、と強く思う。
さて、件の私の娘。
漕艇競技自体を楽しむことはもちろんだが、漕艇を通じて精神的にも成長してほしいと思う。ジョーたちのように、チームメイトに自分の全てを明け渡すことは難しいかもしれないが、せめてもう少し謙虚になって仲間を尊重する態度が身につかないものだろうか。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2015-08-10)
タグ:オリンピック 漕艇
カテゴリ スポーツライティング
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エール大学対校エイト物語
ステファン キースリング Stephen Kiesling 榊原 章浩
The Shell Game
自らの人生においてスポーツがいかほどの価値を持つか、という問いに真面目に答えようとしたとき、あまりの真実の残酷さに呆然と立ち尽くす人は多いのではないか。考えれば考えるほど、スポーツを行うという純粋な行為とて人生における価値とは無縁なものに思えてならないからだ。が同時に、アリストテレスの言う“理性こそがわれわれ人類の特質であり、また他の生き物と区別する証である。その結果、肉体は理性の下に位置づけられた。”という意見を聞くに及んでは、凛然とその理不尽に抗議し、スポーツに内包される価値について延々と述べる用意を厭わない。スポーツをこよなく愛する者にとって、この二面性から逃れることは不可能に近い。
主人公のスチーブ・キースリングは、身長6フィート4インチ。「古典文学、急進主義、離婚、ホットタブ、心霊現象、スポーツカーといった環境で育ち、そして漕手になった」そうだが「もっと手際よく自己紹介できる才能があれば、こんな物語を書くこともなかっただろう」というように、本書の著者でもある。その主人公の“私”は、1980年に卒業するまで東部の名門エール大学の漕艇部に所属し、エール対校エイトの中心的人物として活躍する。「根っからのスポーツマンでは著者は、エール大学入学後にボートと巡り合ったことにより、アスリートへと変化をとげていく。あらゆるスポーツで米国最古の伝統を誇る対校戦、エール対ハーバードのフォー・マイラーと呼ばれる過酷なボート・レースに勝つために、学生生活のすべてを懸けて戦う。その模様が本書の縦糸となって活き活きと語られている」と訳者は本書を解説している。
ヘンレー・レガッタ
正式名は“ヘンレー・ロイヤル・レガッタ”。英国のオックスフォードとロンドンの間にあるヘンリーオンテムズという田舎町で行われるこのレースは150年の伝統を持ち、「アメリカの大学クルーにとって憧れの的」だ。ここでのレガッタは「この町の園遊会」であり、「宣伝などしなくても、10万を超える人々が詰めかける。ウィンブルドンの狭苦しいスタンドにうんざりした観衆は、ブレザーとかんかん帽を引っ張り出して、テムズ川の土手にくりだす」のである。そして、エール・クルーは、ここでオックスフォード大学、カリフォルニア大学、英国ナショナル・チームを相手に、最も栄誉あるグランドチャレンジ杯をめざして戦うことになる。試合当日、エール・クルーにはまだ笑う余裕があった。ただし、「それもわれわれが(もっとも不利といわれる)6レーン引きあてるまで」。かくして、「誰もフランス語を話すものがいないのだが、国際レースの規則をかえるわけにもいかず」「パルテ!」の合図でレースがスタートする。果たして、エール・クルーの賞賛は!?
本書の訳者は『カシタス湖の戦い』(東北大学出版会)で、ダブル・スカルの金メダリストを見事に描いた。今回も同じボート競技をテーマにしたノベルだが、前回のような派手な表現があるわけでなく、むしろ文章に抑制をきかせることでいっそうの真実感を持たせることに成功している。ここのところは大学時代、著者同様対校エイト漕手であった訳者の力量が見逃せない。前回の書評では、ファンタジーなスポーツ・ノベルと書いたが、今回の作品を読んで、ファンタジーとは決して単なるおとぎ話ではなく、本当は真実の中にあることに気づかされた次第である。
(久米 秀作)
出版元:東北大学出版会
(掲載日:2004-07-10)
タグ:漕艇
カテゴリ その他
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