スポ-ツに言葉を 現象学的スポ-ツ学と創作ことわざ
山口 政信
宿題に追われて
小学生の頃、夏休みを迎えて何が憂鬱かといって読書感想文と自由研究ほど憂鬱なものはなかった。嫌なものは当然早く片づくはずもなく、いつもギリギリになって大変な思いをしたものだ。
読書が嫌いなうえに作文は下手、探究心もそれほど旺盛でない子どもがそのまま大きくなったらどうなるか? 苦労するに決まっているのだな、これが。
ただし、大学生になってもそのことにまだ気づいていない。棒高跳びの大先輩による「ガーン! グーン! スポーン!」という大名言のせいでもあるのだが、このオノマトペ(擬声語)には棒高跳びのすべてが詰まっていると信じ、長じて感覚的なイメージだけで人間は理解し合えると思っていたからだ。
しかしこれは実際に棒高跳びをやったことのある者、あるいは、その場にいて身振りを見ながら聴いた者でなければわかりにくい感覚なんですね。ちゃんと言葉を用いて表現しなければ普遍的に理解されることは難しい。それも感覚の異なる人たちに理解され、しかもできるようになってもらうためには、体育大学にいたときとは全く別のアプローチが必要なのだ。慌てて「身体」という語が入った本を買ってみたり、「哲学」だの「原理」だのという題のついた本を机に積んでみたり、と苦労が始まった。
すると不思議なことに何かがわかったような気になったらしい。しかし己の無知を知らないというのは困ったもので、いまだわからないこと、知らないことばかりのくせに先日ある会でシタリ顔をして能書きをならべたて悦に入ってしまった。そこへ、柔和な顔をした優しそうな人がニコニコ近づいてきて、うちの雑誌に何か書きませんかなどと言うものだから、ついいい気分になって引き受けてしまったら、さあ大変、何の因果か小学生の夏休みと同じ思いをするはめになってしまった。締め切り当日になって書き始めたのだが、あ! もう日をまたいでしまった…。嗚呼、ついには陽も昇ってきたぞ!
以上、ちゃんと勉強しておかないと大人になって恐ろしい思いをするというお話でした。
頭に柔軟性を持つ
さて本書だが、『現象学的』立場からスポーツ現場に『言葉』さらには『創作ことわざ』を導入しようと試みたものである。「ことわざ」とは「生活の中から生まれ、むかしから伝わっていて、なるほどと思わせる、短いことば」(三省堂の国語辞典より)のことだが、それを『創作』するためには、自分にとっての「当たり前」や「常識」を見つめ直し、構築し直す頭の柔軟性が必要となる。
『現象学』とは、浅学を承知で言うならば、ある観察対象について観察者の主観を交じえずに記述しようとする態度のことである。いくら観察者が客観だと思っていても、そこには彼が育った社会的文化的背景、すなわち観察者にとって『当然と思っていたこと』が反映してしまうのだが、それを『一時的判断停止=エポケー』して『本質に迫る』こと、あるいは自分がある特有の立場でしか観察できていないことを認識したうえで考察をすることである。
つまり、ここにバッタを甘露煮にして食べる県民がいたとしますね、それを見て「うえー! うちの県じゃこんなもの食わねえよ!」という気持ちをいったんカッコで括っておいて(すなわち、エポケー)素直に見つめ、相手の立場を尊重しようとする態度、ということであります。
スポーツ(生徒、選手、技術、戦術)という現象を観察者(教師、コーチ、監督)が一方的に解釈するのでなく相互に理解する態度を養うことで、ありがちな体育会系縦社会の短所を払拭し、スポーツ現場でのコミュニケーションをより有機的なものにしようと本書は訴えているように思う。
「ガーンとやってグーンと行ってスポーンだって言ったじゃないか! 何で分かんないんだよ! ちゃんと俺の話を聴いてんのか? こんにゃろめ!」という経験をしたことがある人ならぜひ読んでおきたい一冊だ。
(板井 美浩)
出版元:遊戯社
(掲載日:2007-10-10)
タグ:言葉 現象学 オノマトペ 指導
カテゴリ 指導
CiNii Booksで検索:スポ-ツに言葉を 現象学的スポ-ツ学と創作ことわざ
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
スポ-ツに言葉を 現象学的スポ-ツ学と創作ことわざ
e-hon
身体知の構造 構造分析論講義
金子 明友
「わざ」の伝承という難題
スポーツの技を伝えて行くにはどうしたらよいのだろう?「不世出の名選手を次つぎに育てていくコーチ、世界の王座に君臨し続ける選手を生み出す名監督は現実に存在」しているのだが「その固有な評価判断の深層構造」はなかなか語られることはない。「それは先言語的な動感意識の深層にあって言明しにくい」のかも知れないが、一般に「それらは『長年の経験によるのだ』とか『秘伝だ』といわれて、その人固有な能力に帰せられ」、一代限りで終わってしまう場合が多い。
今回紹介する「身体知の構造」は、身体文化における「わざ」の伝承という難題について体系化を試みたもので、恐ろしいほどの忍耐力で書き上げられた一連の書物の最新作だ。「わざの伝承」(2002)に始まり、「身体知の形成 上・下」(2005)に続く4冊目である。
最近私が“身体感”とか“身体知”などといったテツガクの匂いがする分野にめっぽう弱いことを知っている某氏の勧めで手にした。白状してしまうと、これがまた頭にガッツンとくるほど難しい。悔しまぎれに残りの3冊も読んでみたら、ようやく、解るかも知れないこともない…くらいの気持ちにはなることができた。悪口ではない。それほど壮大な内容が厳密な言葉をもって記されているということだ。
現象学的な立場から
この「わざの伝承」という難題を解くにあたり、本書の中では「精密性を本質とする自然科学的立場から身体運動を客観的に分析する」という態度はとられない。ビデオで撮影され映像として客観視された、いわば客体化された身体ではなく「私が動くという自我運動として、現象学的形態学の厳密性に基づいて」身体運動の伝え方を分析しようとしている。
科学の尺度では測れない微細な感覚やコツ、あるいはただの主観として片付けられてしまいがちな事象について、かたくななまでに科学とは別の次元、つまり現象学的な立場から(あらゆる先入見を排除して、とはいえ自分がある特有の立場でしか観察できないことを認識したうえで)の分析を試みているのである。
今さらだが、科学は万能ではない。ある事象を科学的に説明しようとするとき、厳密な実験条件を設定する必要がある。雑音を取り払い、問題点を明確にあぶり出すことで客観的に測定したデータが取り出されるのだが、同時に、ある限られた条件でしかそのことが成り立たないという不便さを背負うことになる。
しかも、そのデータのどの部分に着目して、どう解釈し、どのように考察を進めるかという段階で主観が入り込む可能性があるうえ、科学的理論が広く知れ渡るようになると、尾ヒレが付いたり逆にデフォルメされたりして本来伝えるべき内容とは異なった理論(解釈)が一人歩きしてしまう現象がしばしば生じる。正しい科学的な態度とは、定説をつねに疑うこと、というか、何か一つだけのことを正しいと信じ込むのではなく、いつもニュートラルな態度で物事を見つめようとすることだと思う。科学的な見方が正しい場合もあるが、それが全てではないし振り回されてはいけない。たとえば時計にしたって、瀬古利彦氏は『マラソンの真髄』で、「時計はみんなのタイムを公平に計る機械であって、自分の体調を測るものではない」と述べているが、このような状況が当たり前のように起こる。そこには現象学的なものの見方というのがやはり必要になる。
あくまで“私”
本書が科学的立場をとらないもう一つの理由として、こちらが本義だと思うが、フランスの哲学者 メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)による心身一元的な身体感の影響があるようだ。昔の教科書を引っ張り出してみた。「メルロー=ポンティは、身体のあり方は、芸術作品に似ていて、そこでは、表現する働きと、それによって表現されるものとが区別されないと云っている。つまり、意識としてのわたしが、身体のうちにいるのではなくて、意識の本性が志向性であるなら、身体こそが意識の根源的なあり方であり、しかもこの意識は『われ思う』ではなくて『われなし能う』ということになってくる」(阿部忍著、体育哲学、逍遙書院、1979)。映像として観察されたものは「物の運動」として捉えられており、精神と一体化した“私”の運動ではなくなってしまう。どんな身体運動も実際に行うのは、あくまで“私”であって、その“私”が“今まさに”行っている運動の感じを自得、伝承しようとする行為を記そうとしているのだ。
齢80になろうとする著者が、今まさに現役の学徒としてこの大作に挑んでおられる姿が思い浮かぶ。私感だけれど、ビデオ画像や動作解析データにも“今まさに私が動いている感じ”を身体に投影できるコーチや科学者も最近はいるのではないかと思う。皆さんの目で確かめて下さい。
(板井 美浩)
出版元:明和出版
(掲載日:2008-02-10)
タグ:身体知 コツ 現象学
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:身体知の構造 構造分析論講義
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
身体知の構造 構造分析論講義
e-hon
感受性を育む 現象学的教育学への誘い
中田 基昭
本書においては、神谷美恵子ほか、そしてサルトル、ブーバー、メルロ‐ポンティ、ハイデッガー、フッサールの思索を紹介しながら、段階的に「感受性」に迫っていく。
著者は教育実践の場に関わりながら、知的障害をこうむっている子どもたちの他者関係、あるいは小学校における教師と子どもたちの関係を現象学に基づいて解明するということを研究テーマとしている。先人の言葉を手がかりにしながら、意識とは何か、身体とは何かという問いを深めていくのである。この深みのある読みから導かれるものが、読み手として抱える問題と、うまくリンクした瞬間、読み手自身の立ち位置とそれを取り囲む構造が立体的に意識できるようになる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:東京大学出版会
(掲載日:2009-01-10)
タグ:教育 感受性 現象学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:感受性を育む 現象学的教育学への誘い
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
感受性を育む 現象学的教育学への誘い
e-hon
語りかける身体 看護ケアの現象学
西村 ユミ
「見る者、関わる者の見方によって、その存在の在り様が異なってしまう植物状態患者との関わりにおいては、彼らをどのような存在として捉えるか、あるいは彼らとどのように関係しようとするかが大きな問題となる。つまり、看護師の態度によって、あるいは看護師の見方によって、患者へのケアが大きく左右されてしまうのである。」
これが筆者の問題意識だ。生理学的研究やグラウンデッド・セオリーアプローチという方法で、研究を始める筆者だが、どうにも客観的な抽象に傾き、「いきいき」とした具体を取りこぼしているような感覚に襲われる。そこで筆者は「現象学」的アプローチに活路を見いだす。
「現象学は、科学的な認識以前の『生きられた世界』に立ち返ること、すなわち『世界を見ることを学び直すこと』を大切にする。〈中略〉知覚された経験を、それ自体として存在するものではなく、『それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること』として捉える。世界とはわれわれの知覚している当のものだとメルロ=ポンティはいう。」
前意識的な層、理論化以前の層、あるいは、原初的地層と表現される、主客未分化で、混沌とした世界に分け入り、答えを探すために著者は、植物状態患者を担当する看護師にインタビューを行う。
「メルロ=ポンティによれば、知覚の主体としての〈身体〉を顧みるには、主体・客体といった二項対立を越え出なければならず、そのために『見つけださなければならないのは、主観の観念と対象の観念のこちら側にある、発生段階での私の主観性の事実と対象とであり(略)原初的地層なのである』としている。ところがこの『原初的地層』は、意識に立ち昇ってくる手前の『思考よりも古い世界との交わり』であるため、このような前意識的な層は『直接われわれの意識に開示されることはないし、他方、いうまでもなく、外的知覚によっても全く届きえない』〈中略〉こうした目でものを見る、つまり視覚が対象をとらえる機能として働き出す手前の未分化な知覚のことを、メルロ=ポンティは原初的地層における『共感覚』と言っている。そして、音を見たり色を聴いたりする感覚の交差というのは日常的に現象していることであり、むしろ『私の眼が見るとか、私の手が触れるとか、私の足が痛むなどと言うが、しかしこれらの素朴な表現は、私のほんとうの経験をあらわしてはいない』とし、『われわれがそれと気づかないのは、科学的知識が【具体的】経験にとってかわっているから』であるという」
言葉、知識というものによって、より抽象的な事柄を思考することができるようになった。他方で、スパッと裁断してしまった枠組みの「あわい」に広がる世界には、目が向きにくいのかもしれない。
名を知ることと、わかることは違うが、感じることはもっとずっと手前にある。奥にあるように思えるのは、やはり言葉と、それにひっついてまわる観念に惑わされているからかもしれない。
「私は触わりつつある私に触わり、私の身体が『一種の反省』を遂行する。私の身体のうちに、また私の身体を介して存在するのは、単に触わるものの、それが触わっているものへの一方的な関係だけではない。そこでは関係が逆転し、触わられている手が触わる手になるわけであり、私は次のように言わなければならなくなる。ここでは触覚が身体のうちに満ち拡がっており、身体は『感ずる物』、『主体的客体』なのだ。」
「ケアを行なう者にとって『この世界で他の人と実際にかかわっている』という感覚、つまり触れ合っていることがいかに大きな意味をもっているかは、メイヤロフによっても述べられている。この感覚は、ケアの実践によって自分が『場の中にいる(in-place)』こと、つまり世界の中に『自分の落ちつき場所』を得ているということであり、またこのような場を与える『対象(他者)』は、『私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれる』のである。ゆえに、この他者は『私とその対象をともに肯定するという意味で、自分の一部』なのであり、私と『補充関係にある(appropriate others)』呼ばれることになる。そして『場の中にいるということは、私と補充関係にある対象への私のケアによって中心化され、全人格的に統合された生を生きること』となる。」
触わるものが、触わられる。ケアするものが、ケアされる。という逆転が現場において起こっているのではないか。
このin placeは他書では「しっくりくる」とも訳されている。
インタビューにおいて、ひとつひとつ細かく分析するのではなく、芋づる式に言葉が出てくるように、対話したという。そうすることで、筆者と看護師の主客未分化な状態、一つの間身体性から生成された言葉を、拾い上げた。
写実主義のなか、エスキスだ、未完成だと揶揄され、評価されなかった印象派の画家達、しかし彼らは、光、空気、雰囲気を描き続けた。それが紛れもない「ほんと」だと思ったからだろう。カバーの「星月夜」は、そうともとれるが、果たしてどうか。
(塩﨑 由規)
出版元:講談社
(掲載日:2022-06-15)
タグ:ケア 現象学
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:語りかける身体 看護ケアの現象学
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
語りかける身体 看護ケアの現象学
e-hon
質的研究のための現象学入門
佐久川 肇
本書で言う現象学的研究とは、その人だけにしかわからないその人固有の「生」の体験について、できる限りその人自身の意味に沿って解き明かすことをさす。
対人支援のための現象学では、あくまで現象学の一部を援用するのであって、哲学科の学生が現象学を学ぶのとは異なる、と前置きがあり、ホッとする。正直、ハイデガーやフッサール、メルロ=ポンティやレヴィナスの原著はハードルが高すぎる。でも現象学は前から気になっていた。現象学の、事象そのものへ! というスローガンなどからも、肘掛け椅子の画餅の理論とは、対極に位置するような印象を受けてきた。客観から実存へとピボットするのは、より深く現実にコミットしよう、という誠実さを示しているように感じてきた。
現象学ではあらゆる前提を排して、「生」の経験の意味と価値を問う。クールでドライな量的研究の切れ味はないかもしれないけれど、歯切れのわるい人間味や、眼差しの温かさがある。理解が間違っているかもしれないが、そんなふうに感じる。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2023-01-17)
タグ:質的研究 現象学
カテゴリ その他
CiNii Booksで検索:質的研究のための現象学入門
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:
質的研究のための現象学入門
e-hon