科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点
佐倉 統
役に立たないという現実を知って
「世の中にはな、ふたつのものしかない。役に立つものと、これから役に立つかもしれないものだ」。
本稿の締め切りが迫る某日。焦るとつい他のことをしてしまうのは人間の性だ。ベッドに転がって iPad を開き Kindleに逃避。たまたま開いたのが『竜の学校は山の上』(九井諒子)というファンタジーコミックだ。ああこれ、今回の『科学とはなにか』じゃん、と思った。こういうのをセレンディピティというのかな(たぶん違う)。舞台は現代日本。竜が絶滅危惧種に指定され保護されているが、年々予算は縮小されている、という世界。国内唯一の竜学部がある宇ノ宮大学には竜の利用方法を模索する竜研究会がある。新入生のアズマ君は竜が好きで、将来は竜に関わる仕事がしたいと思っているが、竜は役に立たないという現実を思い知り落ち込んでしまう。冒頭のセリフは、そんな彼に部長のカノハシ女史が言った言葉だ。カノハシさんは続ける。「なくしてしまったものを、あれは役に立たなかったってことは言えるけど、それは所詮、狐の葡萄。だから簡単に捨てちゃいけないんだ。でも役に立たないと諦めたら、それでは捨ててしまうのと何も変わらないだろ」。
科学を外側から
今回取り上げる『科学とはなにか』は、竜ではなく科学技術をどう飼い慣らす(使いこなす)かを、つかず離れずの外側の視点から見ることがテーマである。著者はチンパンジーの研究で理学博士号を取得したが、その過程で、科学が社会と無縁ではいられないことを痛感し、学者にはならず科学技術と社会の関係を研究する道を選んだという。科学者としての側面を持ちつつも、あくまでも「外側」の方である。
副題に「三つの視点」とある。明確には分けて書かれていないのだが、この「視点」が本書を読む上での重要な骨子であると思うので、私なりに三つにまとめてみた。
まず、一つ目。科学技術とは何か。科学とは自然界の成り立ちを知ること、技術とは人工物をつくること。本書では、両者の融合体という意味で「科学技術」という言葉が多用されている。科学の成果は普遍的で客観的である。ニュートンの力学法則は、日本だろうがアメリカだろうが、どこでも等しく成り立つ。しかし、いつでもどこでも「正しい」知識というのもまた、存在しない。我々は、場面や状況に応じて、それに適した知識を使い分けているのだ。たとえば、今では天動説を信じている人は珍しいだろう。しかし日常的には「夕日が沈む」というように、天動説的表現が普通に使われている。「地球の自転によって現在地が影の部分に入りつつある」とは言わない。日常生活における知識の目的は、「便利」「幸せ」「安全」など、とにかく日々の生活を安定・充実させることが第一。科学的な正確さは、そのための参考情報の一つに過ぎない。
二つ目は、科学技術は誰のものか。科学者というと、知的好奇心に突き動かされ、損得や善悪に無頓着で、純粋に世界の成り立ちを解き明かしていく人というイメージがある。一方、フランシス・ベーコンが「知識は力なり」と言ったように、科学や知識は利用するものである、という認識もまた一般的だろう。実際に我々は、多くの場面でその恩恵を受けている。しかし「力」は良いことばかりではない。不幸な例の最たるものは戦争利用だろう。2 度にわたる世界大戦での悲惨で凄惨な経験を経て、1999年「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブタペスト宣言)において、「知識のための科学」「平和のための科学」「開発のための科学」「社会における科学と社会のための科学」の 4 つの宣言が採択された。しかし、科学研究分野にも民間企業が台頭し、そのあり方が大きく変質してきている。科学を駆動する原理が、知識の獲得や公共への貢献から経済活動へと変わってきているのだ。
最後の三つ目は、科学技術をどう飼い慣らすか。科学の成果は普遍的・客観的ではあるが、それが生み出されるプロセスも、それが世に出てからの扱い方も、文化システムが違えば大きく変わる。一方、文化や文脈に依存する暗黙知的な「場の力」から離れ、科学的知見を活用できるような社会的なデザインも必要だ。
さて、「竜研究会」。竜の使い道についてのカノハシさんたちの結論は、作品中では語られていない。どうかそれぞれに明るい未来が訪れますように、と願わずにはいられない。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2021-12-10)
タグ:科学論
カテゴリ その他
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