幻の大山道場の組手 かつて地上最強の空手は実在した
渡邊 一久 フルコム
本書は空手の話と写真つきの組手の説明、対談から構成されている。
著者の空手人生は現在のようなスポーツとして認められている空手の内容ではなく、いわばクレイジーなものであり、精神論というより生きるか死ぬかの戦いを行った武勇伝が数多く記されている。
現在の極真空手の創始者である大山倍達総裁が大山道場で指導していた時代に著者が入門してから指導員になるまで、また大山氏が亡くなったあとその技術を伝承空手として継承していく話。護身術としても行き過ぎている気がして、なかなか平和な現代社会では素直に受け止められないような喧嘩っぽい内容である。
組手の技術は写真が載っていて、身体で覚えさせられたものを何とか後世に伝えようとする著者の気持ちが伝わる。解説つきだがなかなか難しい、道場に通わず本書を読んで実践してみてできたらいいが、本当に実践した場合、危険な内容に思える…。
伝承技術が廃れ、時代の変化と共に時代に合ったものが認められる中、この危険な「けんか空手」を伝えていくことのよさは私にはわからないが、こういう伝承技術があったと知ってもらうことは大切だと思う。
(安本 啓剛)
出版元:東邦出版
(掲載日:2013-11-15)
タグ:空手 格闘技
カテゴリ 指導
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子どもの生きる力の伸ばし方
中野 秀男
存在価値が問われる集団
武術とはそもそも戦場で命のやり取りをするための戦闘技術であり、相手の命を奪い得る技能のはずだ。生き残る技術と言い換えたとしても、そもそもそこにはルールやモラルなど存在しなかっただろう。今の常識でいうどんなに不浄な手であっても、考えられる全ての手段を講じて己を生かし続け、その遺伝子を残そうとすることは生物としての本能というものだ。しかし人としてどうあるべきかという概念が加わると話が変わってくる。生きるか死ぬかの瀬戸際でも、いやだからこそ、「命を惜しむな、名こそ惜しめ」といった考えが生まれる。たとえそれが大将による自分の手駒を動かすための方便だったとしても、自分の存在意義を考える力が人にはあるのだ。
天下泰平の世となり戦闘する機会がなくなった武闘集団は、次に支配階級としての存在価値を模索することになったのではないか。武士であるというだけで、身を粉にして働く階級の人々の上に君臨することへの説得力を持たせるために武士道というものを生み出し、こじ付ける必要があったというのは安易すぎるか。しかし、いかに存在するか、どう生きるかという自律なくしてその特殊階級は存在し得ず、戦闘技術の修行は精神鍛錬としての意味が濃厚となり、人格形成の手法へと変換されたのではないだろうか。
時代が移り、廃れるべくして廃れたその階級が遠い昔のことになった今でも、その精神は心ある日本人の常識の中に棲み続けている。濃度がずいぶん低下したとはいえ、だ。
空手を通じた教育
さて本書は、空手道を通じて子どもたちの育成に尽力し続ける日本空手道太史館館長、中野英雄氏の教育提言書である。45年もの間に7000人の子供たちを指導してきたという氏の指導方針は、命を懸けて武術を極めるといった過酷なものではない。もちろん、よりうまくなりたい、より強くなりたい、技を極めたいという想いの下、厳しい稽古を積むことに変わりはない。
だが現代社会における空手の技は、競技以外で披露されることはまずないし、それは強く戒められる行為となる。代わりに、その技を練ることを通じてどう生きるかを問い、その力を伸ばすことはできる。「誠実」「謙虚」「積極」「努力」「忍耐」「不屈」という大志館の教室訓を通じて、子ども達は「心を鍛えて徳を身につけ」「生きる力」を育む。中野氏の数々の指導例を拝見するにつけ、現代社会における武道の持つ人格形成的価値はまだまだ大きいように感じる。
空手道という、ともすれば暴力的行為へとつながる技を現代社会で生きる子ども達に指導する人間は、十分に人格形成されていなければならない。戦闘技術としての空手を教えるだけでなく、人としての力を育てられる存在であるべきなのだ。
成果は成長
自分の思い通りになる子どもだけを自分の思う通りに指導するだけなら易しい。だが、「一人ひとりの子どもと向き合」い、子どもたちに正の変化をもたらすことは簡単ではない。
ちゃんと教えているのにできないのはお前の努力が足りないからだと子どもに言い放つことは易しい。だが、各々の歩幅ででも自分は成長していると実感させられることは簡単ではない。子どもたちが指導者のために在るのではなく、指導者が子どもたちの期待に応え得る存在でなくてはならない。指導者が子どもたちを試すのではなく、指導者が子どもたちに試されているのだ。そしてその成果は、競技成績だけでなく子どもたちの成長という形で表れる。
子どもたちにおもねることなくこれらをやり遂げられる力。これはまさに道としての武道を究めて辿り着けるのはないかと感じる。平和な世にあって生まれる価値そんな存在に至りたいと思う一方で、これもあくまで戦闘がない平和な時代と場所だからこそ言える綺麗事のようにも感じる。今も世界のどこかで現実に存在する子どもたちが銃を手に取らなければならないような場所では、虚しい絵空事に過ぎないからだ。そんな世界では戦闘技術は純然たる戦闘技術でなければならず、人の命を奪い、生き残るための手段となる。となると、平和な世に暮らしていても、その気になれば一線が越えられるように心身に覚悟を持たせておくこともやはり必要なように感じる。よく生きるなどという余裕はなく、ただ生きることに汲々たる人生を送らなければならない場合、生き残りながら徳を失わず、人格形成に力を注ぐようなことが普通の人々にできるのだろうか。
では、今日も明日も無事生きていることがほとんど不自然でなく、10年先どころか20年先の目標までも立てられるような平和な世界で生きている人間が、よく生きることにこだわれているのかというと、これはこれで違う次元の問題が生み出されているようである。
こうなると「死」と隣り合わせでなければ感じ得ないことも無数にあるように思えてくる。果たして我々は全てを包括的に身に棲まわせておくことなどできるのだろうか。
そんな稚拙な思考を巡らせていると、平和な世での武道による精神鍛錬、人格形成がより深い意味を持ち、より大きな価値を持つようにも感じてくる。そして武道が、そんな手段であり続けられることを願わずにはいられない。
(山根 太治)
出版元:文芸社
(掲載日:2015-09-10)
タグ:教育 武道 空手
カテゴリ 指導
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右脳の空手
大坪 英臣
著者は船舶工学の権威。65歳で研究・指導生活に区切りをつけ、第2の人生を模索する中で空手と出会った。スポーツ科学を学んだ人からすれば、ケガの対応方法などハラハラしてしまう記述もあるが、これまで運動習慣のなかった人が運動を継続する理由、どんなきっかけで楽しさを見出すかという例としても興味深く読める。
達人と呼ばれる人たちの技を受けたときや、自分より力の強い人を投げてしまう感覚を言葉で説明するのは難しいもの。いわば頭脳の世界で長く生きてきた著者が、それを考えるより先に身体で=心で受け止めようとする姿勢には敬意すら感じる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:風雲舎
(掲載日:2016-06-10)
タグ:空手
カテゴリ 身体
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