秘する肉体 大野一雄の世界
大野 慶人
洋の東西を問わず、バレエや日舞などクラシカルなものから枝分かれして沢山のモダンなジャンルを生み出してきた舞を「舞踊」とするならば、「舞踏」の世界は何がクラシカルで何がモダンなのか、そもそも進化や変化という時系列ありきの概念が当てはまるのだろうかという疑問すら湧き上がるジャンルである。が、そうした命題をも抱えこみながら、日常に対する非日常(ハレ)を象徴する表現手段としてこちらもまた現代に生き残り続けている。
今年で104歳(!)を迎える大野一雄は、その舞踏の分野において文字通り日本が世界に誇る表現者の一人である。その名は知らずとも、女性ものの衣装を身にまとい、白塗りの姿で鬼気迫る舞を見せる熟年男性の写真などを目にしたことがある人も少なからずいるのではなかろうか。
私はジャズダンスを学んでいたが、映像を通じて初めて目にしたその印象は、「いくらエキセントリックな外見をしていようとも…これは、高度な技術や表現意志を併せ持つ完成された『舞』にほかならないな」というものであった。対極に位置するとも言える西洋舞踊を、それも学びたての若造が今思えば格好つけたコメントもいいところだが、受けた印象は少なくとも的を外れてはいなかった、とこの写真集を見た今、改めて認識している。
舞踊の技術に「アイソレーション」や「軸」というものがあり、前者は、ジャズダンスなどでよく用いられる身体の各パーツを分離して動かすテクニック、後者は読んで字の如し、身体重心としての軸をとらえる技術として知られている。大野一雄の舞は、一目見ただけでそれらがはっきりと見て取れるのだ。そして、それら技術という土台の上に、あるいは逆に技術を支える土台として、写真集からも見られるほとばしるような表現への意志、空間をつかみ、切り取るかのような指先や視線の力が美しく織り込まれているのである。
舞という字は本来、「見え『無』い神のために踊る」ということを表すために、無の下に足を表すつくりを付加したものとも言われる。何もない空間をつかみ取るかのような大野一雄の『舞』は、姿なきものへの祝祭、ハレの表現としてのそれを最もわかりやすく提示してくれているのかもしれない。それを垣間見ることのできる写真集である。
(伊藤 謙治)
出版元:クレオ
(掲載日:2012-10-13)
タグ:舞踏 写真集
カテゴリ 身体
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重力との対話 記憶の海辺から山海塾の舞踏へ
天児 牛大
舞踏家によるレッスンの魅力
以前にも書いたと思うが、齢四十を越え“身体”とか“スポーツ”とか“体育”とかに対する科学的なものの見方に疑問が生まれるようになった私は、“ナンダカワカラナイ”が何だか魅力的な舞踏ダンサー滑川五郎に教えを乞うた。レッスンは、“雲の上を走る”“石像になる”“宇宙の詰まった卵の中で動く”などなど、やはりナンダカワカラナイもので、“強くなるためのトレーニング”や“速くなるための動きづくり”といった思考回路で運動を捉えているのでは到底理解できないものばかりだった。
しかしワカラナイながらも身体の方にはストン!ストン!と心地よく入ってくるものが多かった。何より、挨拶を交わすため向い合った滑川の立ち姿の美しさは圧巻だった。
舞踏といえば「それは白塗りの、時には半裸や剃髪の、あるいは女装をしたダンサーが、ゆっくり動くダンス。リズムに合わない動き、腰を落とした内股、操り人形のような姿態。半眼や白目、歪曲などを伴う大胆な顔の表情(原田広美著『舞踏大全』より)」で動くもの、そのような生半可な知識しか持たない私にさえ、滑川の立ち姿は舞踏が表現する世界の素晴らしさを垣間見た気にさせてくれるのだった。
それぞれに理由がある
さて、今回の『重力との対話』の著者、天児牛大(あまがつ うしお)は、滑川とともに「山海塾」という舞踏カンパニーを1975年に立ち上げた主宰者である(山海塾の活動は現在も続いている。滑川は1987年に独立。2012年逝去)。
本書には天児の半生、作品への想いや創作の理論などが綴られている。天児は山海塾の舞台で「仏倒れ」という振り(直立姿勢から後方にそのままバタン!と倒れる)を見せる、凄まじい身体能力の持ち主である。そういう人の、つまりは舞踏ダンサーの表現法の秘密が書かれているわけで大変興味がそそられる。
たとえば「半眼」で動く、世の中を見る、ということを滑川はレッスンでよく言っていた。半眼とは、仏様のような、瞼を半分開いた(閉じた)状態のことをいう。
そうする理由を天児は次のように説明する。「人はアウト・フォーカスな視野でいるとき、なんとなくその場の総体を身体でレシーブしている。つまりなにかひとつ特定のものをはっきりと見据えていないからこそ、自分の周囲三百六十度にどのような物事が蠢いているかを全容的に把握できる。だがそうしたパノラマからなにかひとつの出来事をセレクトし、自分の視点をある一点にフォーカスしていくと、そこには『選んだものを見る』という揺るぎない意志が生まれる。あるひとつの物事を周囲から切断し、全神経を注ぎ、それを『見る』。そのような確たる意味付けを持って、あらためて行動していくことになる」。半眼が単なる薄目と異なることがよくわかる。
ほかにも、山海塾の稽古場に鏡を置かない理由(滑川のスタジオにもなかった)は「鏡に映る身体を訂正するという表面的手法とは異なる」「自分の内部を覗いていくような」やり方で身体を操作していくためであるとか、「横たわった姿勢から床面に座る姿勢、あるいは立つ姿勢へと最小の筋力で移る」動作は「ゆっくり」「ていねいに」行うことで「身体のうちに緊張と緩和がとなりあっているのをよりよく気づかせ」てくれるといい、外面的な視覚情報よりも、身体内部の感覚を研ぎ澄ますことの重要性を述べている。
また「共鳴と共振」「意識の糸」「息の行方を探る」「ダンスと身体」「成立させたくなるなにものかを求めて」などなど、天児の創作に対する考えが綴られていて舞踏というものが少しはわかったような気にさせられるとともに、これらの理論は競技的運動の中にも案外応用できるのではないかと考えたりもした。
旅路で思うこと
余談だが、自伝的な部分はどうやら天児が「自分で書くのは気恥ずかしい」とかで、「聞き書き」という形式が取られている。しかしながら、この聞き書きをした岩城京子というパフォーミング・アーツ・ジャーナリストの文章がなんとも知的で美しい。聞き出したものを文章化する作業とはいえ、この静謐でスマートな“世界感”には書き手の力量が大きく反映しているに違いない。その上、この仕事を依頼されたのは岩城が二十代の頃だというから才能というのは怖ろしい。この人には芸術の深淵が見えているんだろうなあと、心の底からうらやましい。
それに引き換え私といえば、齢五十も半ばを迎え、悟ることなく毎回グルグル問答を繰り返し、舞踏の何たるか、芸術の何たるか、体育の何たるか、人生の何たるかがいまだ見えず、夜なべに(もう朝だが)文章をひねり出しながら“自分探しの旅”はまだまだ続いているのである。
(板井 美浩)
出版元:岩波書店
(掲載日:2015-10-10)
タグ:舞踏 自伝
カテゴリ 身体
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秘する肉体 大野一雄の世界
大野 慶人
主人公の大野一雄氏は1906年生まれ、なんと 100歳で現役の舞踏家だ。本書は氏の生誕100年を祝し、42名におよぶ写真家の作品が収められたものである。
舞踏とは、1950年代に日本で発祥したとされるダンスの一分野だが、西洋のダイナミックで外向的なダンスに対し、能のように静的で精神的内面の表現を主体とした「BUTOH」はむしろ海外で価値が認められた後、故郷日本に逆輸入されたものだ。
氏の膨大な業績が年譜として巻末に記されている。驚くべきは、海外での初公演が74歳(!)で、その年だけで5 カ国を廻っている。そしてその年を境に公演回数が圧倒的に増え、90歳を超えてもなお旺盛な表現活動が続くのだ。
若い頃兵役に就き、多くの戦友の死を目の当たりにした彼のなかには「生と死がつねにあり、肉体ではなく、魂で踊り続けています。そして魂そのものの踊りとして、目に見える肉体は超えられて、隠されていきます(監修者で氏の次男でもある舞踏家大野慶人氏による巻頭言)」とあるように、超越した「祈りのようなものを感じる人がいる(同)」らしい。さらに、安らぎも感じるのに違いない。なぜなら、作品の中に写っている観客は、皆幸せそうな笑顔を湛えているのだ。
恥ずかしながら氏のダンスはDVDと我が家のオンボロブラウン管でしか観たことがない。動く姿を初めて観たのはNHKの特集番組で、そこに映る90数歳の彼は強烈だった。車椅子に座り、自由になるのは右手だけという身体なのだ。着替えやヒゲを剃るのでさえ介護が必要で、肝心の踊りはどうしているかというと、右手で中空の何かを掴んだり、クネクネピラピラさせているだけ。舞踏というものを多少は知っているつもりだった私(身体を白く塗りケイレンしたように踊る、といったステレオタイプの貧弱極まりないイメージ)だが、これには驚いた。音楽と共鳴しているその姿は、踊りへの情念が全身に溢れ、右手しか動いていないのに全身をフルに活用した踊りに見え、しかも美しいとさえ感じられるのだ。体力だけでいえば、若者が勝るに決まっている。しかし屈強な若者が何人束になってかかったとしても、到底かなわない迫力がこの老人の身体に満ちている。
私自身、棒高跳びを愛好し、マスターズ陸上というベテラン競技会に参加する者だが、まだ半世紀も生きていない若僧の跳躍より、もうすぐ一世紀に届きそうな大先輩の跳躍のほうが断然迫力があるのである。この迫力、美しさは還暦を越えたあたりから俄然増大する印象を持つ。
チャンピオンスポーツと価値観のジャンルが違うと言うなかれ。目に見えないはずの「気迫」とか「気合い」、「気力」あるいは「気配」といったものは、競技スポーツの場面でも、割と簡単に感じることができるのだ。主観の域を出ないと一蹴される恐れのほうが高いけど、ちょっと待ってくれ、意外と普遍性が高いんだよ。
たとえばこんな感覚だ。眠い目をこすりながらアジア大会なんか観てるでしょ? 選手紹介の画像が出た瞬間「お。コイツやるぞ」なんて思っていると、解説の方が「いい顔してますね」なんて褒めていたりして、そうこうするうちに選手は大活躍してメダルを獲得したりするアレだ。あるいは、トレーナーが選手をマッサージしたり、ときには全身を一目見ただけでその日の調子がわかったりする、アノ感覚がそうだ。サイエンス的手法で測るのは困難だが、感じる者同士には確かな根拠があるからこそ共通のイメージが湧くのだ。
こういった五感を超えた(ような気がする)瞬間を共有することも身体文化の醍醐味だと思うのであります。
(板井 美浩)
出版元:クレオ
(掲載日:2007-02-10)
タグ:舞踏 写真集
カテゴリ 身体
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