養生の実技
五木 寛之
作家として言わずと知れた五木寛之氏が50年間行ってきた身体養生の方法を綴った本である。
病気はなおらない、そして自らの感覚が大事であると考える五木氏。自分が身体によいと思うことを行い、よくないと思えば一般的な治療法であっても行わない。身体にメスを入れるなんてとんでもない話なのである。
身体の症状は何らかのサインなのだ。身体に症状がでるのには生理的、物理的な原因と同時に心理的な原因が影響していると考えられている。身体はサインを出して変調を知らせてくれているのである。何らかのサインを感じたら、それを叩きのめす(治療)のではなく、身体と向き合い生活習慣やストレスなどを考え直したり、うまく対応する(養生)ことが必要なのではないかということである。
現代の生活でストレスを避けることは難しい。自らの身体とそして身体がさらされている環境とうまくつきあいながら生き方を見つけて実践していくことが大切なのだという印象が強く残った一冊であった。
(大槻 清馨)
出版元:角川書店
(掲載日:2012-01-18)
タグ:身体養生
カテゴリ 人生
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養生の実技
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身体と境界の人類学
浮ヶ谷 幸代
“正常範囲”の支配
科学的トレーニングが浸透している現在、様々な方法によって得られた身体・体力に関する測定数値を私たちは頼りにしている。しかしながら測定値がある一定の境界を超えた(届かなかった)とき、それを単純に「おかしなこと」と捉えてしまうと「<いまここ>に生きる身体」は断片化してしまい、測定した数値に支配されてしまうことになる。ところが、私たちは自身の身体を生物学的・生理学的に数値化されたモノサシだけで把握するように小さいころから刷り込まれてはいないだろうか。
たとえば幼少時から行われる体力測定や、大人になってからのメタボ検診などの結果を受けとめ、さまざまな対応をすることはある意味で正しい。しかし測定値がある範囲(境界)から逸脱していたとき、“おかしなこと”“劣ること”といった負のイメージを当てはめることがある。その時点で人は“数値”という権力に支配されてしまうことになる。本来、測定値とはすべて連続性を持つものであって、“境界”は後から人工的な意義づけをして設定されたものである。したがって、数値は“正常範囲”にあることが正しくそれから外れることは忌み嫌うべきことであるとするような考え方を持ったとき、それはその値を示した身体の主体となる人の行動ばかりか人格をさえ否定しかねない可能性を伴うことになってしまうのである。
手段としての数値
本書の著者、浮ヶ谷幸代は、医療人類学を専門とする文化人類学者である。本書では身体を、「世界的身体」「社会的身体」「政治的身体」といった切り口から眺め、「臓器移植、精神障害、糖尿病における身体観や身体技法」などについて「さまざまなトピックスを通して、人、モノ、状態、観念における境界領域の連続性とその特異性について考察」されたものである。
本欄では「身体感覚を研ぎ澄ます」と題された第5章を主に紹介したい。「生活習慣病」なかでも「糖尿病」に焦点をあてたものだ。ほとんどの生活習慣病は、とくにその初期には自覚症状がない。ではなぜ自分が糖尿病であるのかを知るのかというと、それは健康診断による検査数値からである。「とりわけ、中高年世代にとって、自分の身体や健康に関する情報のほとんどは、健康診断によって露わにされる臓器の状態や機能にかかわる検査数値」である。現代は「あたかも科学的な数値が人間の身体のすべてを物語る、とでもいいたげな健診社会」であると浮ヶ谷はいう。
しかし「科学的数値は、それが普遍性、客観性、論理性を旨とする科学的思考の根拠とされているため、生理的身体を表象するという意味において非人格的」であるとばかりはいえない側面も持っている。「人間が意味の網の目(=文化)に生きる動物」である限り、その数値は無味乾燥なもので終わることはなく「医療での診断や治療のための指標となるだけでなく、日常生活においてさまざまな意味を生み出している」のである。糖尿病の人にとって「科学的数値は身体に働きかける手段となり、自分の身体とどう向き合うかという身体技法を編み出す契機となる」のだ。すなわち「血糖値を手がかりに自分の身体に働きかけることを通して、自己の身体と他者の存在への気づき、そしてそれを契機とする周囲の人との関係の調整を生み出し「『<いまここ>を生きる身体』を知覚させる。と同時に、自分の身体に気配りをすることが、結果的に他者の存在に配慮すること」になるのである。
体育という相互交渉の場で
さて、われわれの分野に目を転じてみると、これと同じようなことが選手とコーチの間に生じていることに思い当たる。何らかの体力測定値をもとに選手は自己の身体感覚との擦り合わせを図ろうとし、コーチは測定値と選手の動きやその他にも選手の身体から発せられる多くの信号を手がかりとして、相互交渉の場が生じているのである。
一方で、子どもの体力や運動能力は高いのがよいというのに異論はないが、だからといって測定値の低い(正常範囲=境界を逸脱する)子どもに対する配慮は忘れたくないものである。子どもの体力が正常範囲に入るよう躍起になって運動させることが私たちの仕事ではない。体力が低いのは“劣っている”こと“悪い”ことだというレッテルを子どもに貼った時点で、その大人は“数値”という権力に支配されてしまうことになるからだ。それよりも、身体を通して自己を育み、周りの人との関係を育む、“体で育む”ことこそがわれわれのなすべきことなのである。
“体を育む”ことに気を取られ、その子どもの身体(人格)を否定することなど絶対にあってはならないのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2011-04-10)
タグ:身体論
カテゴリ スポーツ社会学
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身体感覚を取り戻す
斎藤 孝
1960年代、アメリカのカウンターカルチャーは日本にも大きな影響を与えた。
「大人がつくった社会の抑圧や管理から自分の肉体を解放していくというのが、カウンターカルチャーの軸であった。文字通りそれは、すでにある権威に対してカウンター(対抗)としての性格をもつものであった」(序章より)。
この世代が親の世代になって、「親が親らしくなくなった」。その結果、生きていくうえでの基本をしっかりと躾けるという親の役割が軽視され、身体文化も伝統の継承が行われなくなったと言う。その日本の伝統的な身体文化が「腰肚文化」なのだと言う。
著者は「身体感覚の技化」という表現もとっている。歩く、立つ、坐る、そして息の文化。自ら、身体を用いて、様々な技法を経験したうえで語っていく。明治や昭和の人々の写真も巧みに引用しつつ、21世紀の身体をみる。
現在の日本人のからだには「中心(芯)感覚が喪失」しているという言葉は、身体のみならず社会全般にも言える。からだから考える。その意味がよくわかる本。おすすめ。
B6判 248頁 2000年8月20日刊 970円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:日本放送出版協会
(掲載日:2001-03-15)
タグ:身体感覚 伝統
カテゴリ 身体
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思想する「からだ」
竹内 敏晴
『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社新書)などの著書で知られる著者の新著。あれこれ言うより、著者の言葉を引こう。それのほうがわかる。
「いずれにせよ、『からだ』の対極に『ことば」を置くと見えて来る地平に私は生き始めており、『からだとこころ」を対にする地平は私に遠い、というよりは、そこには生きていない、と言うことであろう(P.115)
かつて聴覚言語障害者であり、弓道にも打ち込み、演劇にも深く関わる著者の「ことば」、あるいは「声」への言及は深く身体に問いかけてくる。思いもかけない「からだ」の発見。あなたは、どんな声でどんなことばを日々投げかけているか…。
四六判 238頁 2001年5月10日刊 1800円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:晶文社
(掲載日:2002-01-15)
タグ:身体 言葉
カテゴリ 身体
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からだにはココロがある
高岡 英夫
身体に存在するココロについて書かれた本。ココロを介して人間の身体と心は密接につながっているとし、そのココロの構造を知り、うまくつきあっていくことで、自己の本来持っている能力を引き出す方法を知り、生かす。その方法を登山に見立て紹介。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:総合法令
(掲載日:2002-07-10)
タグ:身体 メンタル
カテゴリ 身体
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からだの日本文化
多田 道太郎
『しぐさの日本文化』や『複製芸術論』で知られる著者の「肩のこらない」からだにまつわる日本文化の話。 頭、顔、肩、背中、腹、ヘソ、ウエスト、ヒップ、腰、尻、足の11項目でまとめられている。
例えば、「少し具合の悪いところができると、日本人は何でも『からだ』のせいにする。カナダ人は『精神』のせいにする」(P.38)。だから、日本人は医者やマッサージ師に駆け込み、カナダ人は精神分析のクリニックに向かうと言う。「屁は尻に出て又鼻に逆戻り」というなかなか味わい(?)のある秀句も紹介されている。どこの国の人であろうと、この身体は同じようなもののはずだが、そこに文化が加わると、どうも同じようではない。鼻を高い、低いと日本語では表現するが、例のクレオパトラの鼻については、フランス語では「もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら」と表現されているとか。
しかし、どうしても私たちはこのからだに染みついた文化から離れることは難しい。それなら、他の文化ではどうかを知り、見方を変えてみるのも、からだによいかもしれない。軽く読めるが、う~んと考えるところは多い。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:潮出版社
(掲載日:2002-06-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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究極の身体(からだ)
高岡 英夫
運動進化論が解く人類究極の身体能力とは? カラダが持つ能力を様々な視点から解説。カラダの素晴らしさや巧みさ、面白さを再確認する現代身体論のバイブル。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ディレクト・システム
(掲載日:2002-12-10)
タグ:身体
カテゴリ 身体
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武蔵とイチロー
高岡 英夫
天才の世界
湯川秀樹という方を皆さんは覚えておられるだろうか。1949年に日本人初のノーベル賞受賞者となった物理学者である。その彼が、晩年になって出した本の中に『天才の世界』というのがある。これは、古今東西の歴史に残る偉業を成し遂げた人々、いわゆる天才と言われた人々の創造性の秘密を解明しようという意図の下に書かれた書物である。彼は、この本の「はじめに」の中で天才について次のように述べている。「(天才に)共通するのは、生涯のある時期に、やや異常な精神状態となったことであろうと思われる。それは外から見て異常かどうかということでなく、当人の集中的な努力が異常なまで強烈となり、それがある時期、持続されたという点が重要なのである」
では、今回の主人公のひとり、武蔵は天才か。私が知っている武蔵は、小説家吉川英治氏が描いた武蔵のみであるが、これを読んだ限りでは、どちらかといって愚直なまでの努力家タイプに思える。むしろ、彼と巌流島で決闘した佐々木小次郎のほうが天才タイプではなかったか。しかし、前述した湯川氏の天才論で言えば、異常なまでに強烈に剣術を持続して磨いたという点では、間違いなく武蔵は天才だ。
もうひとりの主人公イチローはどうか。これには誰もが天才と口を揃えるだろうが、ではなぜ? おそらく、皆イチローのセオリーを無視したようなバッティングフォームとその結果を見て、いわゆる天才肌的なものを覚えるからであろう。しかし、ここでも湯川論に従えば「外から見て異常かどうか」が天才の判断基準になるのではない。あくまでも異常なまでに強烈な集中力がイチローには見て取れるところに彼の天才たる所以があると、この筆者は見たようだ。
ユルユルとトロー
筆者がこの二人に共通して着目したものに「脱力」がある。筆者は、まず武蔵については、彼の肖像画から類推して、彼の剣を構えたときの身体には無駄な力が入っていないと指摘する。刀はユルユルと握られ、全身は脱力されている。しかし、その脱力はフニャフニャしたものではなく、トローとした漆のような粘性を持った脱力だと言う。武蔵が残した有名な書物に『五輪書』があるが、この中で武蔵は「漆膠(しっこう)の身」ということを書いていると言う。そして、「漆膠とは相手に身を密着させて離れないこと」だとも書いていると言う。つまり、相手の動きに粘り強く着いていくには、トローとした脱力が必要だと言うわけである。これはイチローにも当てはまる。本来、バッティングとは投手が投げてくる球に対して自分のヒッティングポジションが合致すれば、クリーンに打ち抜けるものだ。従って、投手は打者の得意なヒッティングポジションに球が行かないように、球種を変えコースを変えてくるのである。しかし、イチローはトローと脱力した身体で、あらゆるコースの球に密着してくる。だから、イチローには特に待っているコースもなければ決まったヒッティングポジションも存在しないと言うわけである。
天才と凡人の違い
私は、今回この本を読んでいて、どうも近年のスポーツ科学者は、私も含めて客観的事実というマジックに捕らわれすぎたようだ、という反省を覚えた。客観的事実の積み重ねの上に真実が現れるという科学的分析手法は、誰もが理解し納得いくという点では優れた手法であることは認める。しかし、簡単に言ってこの手法で明らかになるのは、大方が同じ結果になるから真実だという結論にすぎない。果たして、それは真実なのか。大方とは違う結論の中にも真実はないか。データでは見えてこない真実。ここを見て取れるか否かが天才と凡人の違いではないか。特に、指導者には耳を傾けていただきたい。「日本スポーツ天才学会」や「日本スポーツ異端児の会」などあってもよくないか。
最後に、再び湯川氏の天才論をご紹介したい。「――、私たちは天才と呼ばれる人たちを他の人たちから隔絶した存在と思っていない。(中略)ほとんどの人が、もともと何かの形で創造性を発現できる(つまり天才的)可能性を秘めていると考える」
(久米 秀作)
出版元:小学館
(掲載日:2003-03-10)
タグ:身体 宮本武蔵 イチロー
カテゴリ 身体
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武蔵とイチロー
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からだことば
立川 昭二
身体感覚と、言語、文化との結びつきを、豊富な例を駆使しながら話し言葉で解説している。民族独自の身体感覚が表れている例として、日本人は肩がこり、アメリカ人は首がこり、フランス人は背中がこると言う。肩に対しての意識は、日本人において強い。「肩にかかる、肩身が狭い、肩を持つ、肩書き」など。こうした問題を、歴史的に分析し、現代社会を読み解いている。
痛みについての表現でも、日本では擬態語を使ったズキズキ、キリキリ、シクシクという表現を共有している。そして、痛みがあって初めて内臓や骨を強く意識する。痛み自体が、身体からの自己表現手段になっている。痛みそのものは、他人には理解できない。自分が痛みの体験をもっているから、他者の痛みを理解できるのである。その感覚をお亘いに知っているからこそ、人間的な関係が築けるのではないかと言う。
しぐさや言葉の使われ方を丁寧に観察し、考えを進めていくことで、これほど豊かな世界が広がっていたという新鮮な発見が得られる書である。言葉の使い方や目の向け方に少し気を使うことで、相手とのコミュニケーションは豊かに円滑になるかもしれない。それは医療でもスポーツでも会社でも同じである。著者は、医療では患者に専門用語を使うべきではないと言っている。せめて看護師が、医師の言葉を翻訳して伝えたほうがよいだろうとも言い、「医療が変わるには、まず医療の言葉がかわらなくてはなりませんね」。
言葉と身体感覚については、もつと切実な思いを持っている方も多いだろう。
現代社会でだんだんと失われていった身体に関する知恵が、今もなおしぐさや言葉に色濃く残っている。それは文化の財産としてこれからも生かすことができるはずである。
(清家 輝文)
出版元:早川書房
(掲載日:2002-12-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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自分の頭と身体で考える
養老 孟司 甲野 善紀
99年に単行本として出版されたものの文庫。養老氏と甲野氏の対談は比較的多いが、解剖学者と武術家という対比から生まれる世界が面白いからだろう。
「体の各部分がなるべく細かに割れるようにして、その割れた身体をちょうど泳いでいる魚の群れが瞬時に全員が方向転換しているような感じで体じゆうを同時に使うんです」。抜刀術での甲野氏の説明である。従来の型にはまらない、自分なりに到達した境地を語っている。そしてその言葉を、養老氏は自分なりに理解し、解剖の分野から目と脳の働きと合わせながら説く。「同時並行でいくつかのものが動いているわけでしょ。それは目が一番得意にしていることなんですね」
養老氏はこうも言っている。「今、教育をしていて、僕も一番因るのは『先生、説明して下さい』という学生ですね。『説明して下さい』ということは、説明されればわかると思っているということですよ」。
説明と理解、その構図では言葉が神様である。身体、からだはどこにあるか。解剖学の身体、武術でのからだ。対談をきっかけに、自らの身体で考えていくのも面白そうだ。
(清家 輝文)
出版元:PHP研究所
(掲載日:2002-12-15)
タグ:身体 解剖 武術
カテゴリ 身体
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自分の頭と身体で考える
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叢書 身体と文化
野村 雅一
1996年8月、まず第2巻『コミュニケーションとしての身体』が刊行され、1999年に第1巻『技術としての身体』が刊行されたが、第3巻『表象としての身体』(写真)がついに今年7月に出て、全3巻が完成した。野村雅一、市川雅、菅原和孝、鷲田清一氏らが編集、執筆は数多くの研究者らが担当している。
ほぼ10年前からの仕事である。96年というのは阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こった翌年、身体や精神、信仰などへの関心が高まった頃でもある。とくに阪神淡路大震災では、わが身のみならず、互いの「からだ」を思いやる状況が自然に生まれ、生きているからだをいつくしむ気持ちの一方で、「透明なぼく」という表現は身体のありかが不明になっている状態も示していた。この時期から、「身体論」が多く世に出るようになった。
この叢書では、第1巻で人間の感覚の様態そのものから身体技術のさまざまな断片とそれらの社会的・文化的な意味について、第2巻で社会・文化的脈絡のなかで身体がおびるコミュニケーションとしての働きとそれを構成する秩序と構造について、第3巻でさまざまな文化の中で身体がどう解釈され表現されてきたかについてそれぞれ解明・検証している。
総じて論じるのは無理があるが、読者は今生きている私の身体を取り巻くものがあまりにも多く、深い層からなっていることに気がつくだろう。楽しみつつ考えつつ、読んでいただきたい。
野村雅一ほか編
第1巻:1999年6月1日刊、第2巻:1996年8月10日、第3巻:2005年7月1日刊、各4,200円
(清家 輝文)
出版元:大修館書店
(掲載日:2012-10-10)
タグ:身体 文化 コミュニケーション 技術
カテゴリ 身体
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叢書 身体と文化
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こころだって、からだです
加藤 忠史
「精神保健」「精神医学」に相当する内容のポイントを絞り、うつ病、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症、性同一性障害、ADHD(注意欠陥多動障害)、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、摂食障害など症例を交えて解説している。
本書では“こころの病気”という言葉が便宜上使われているが、「こころが病気になってるんじゃない。どんな臓器も病気になる。脳に病気が起きると、こころの具合が悪く感じられる」と筆者は述べ、「病気は身体がなるものである」と明記している。こころの病気となると「がんばれ」の一言で終わってしまいがちである。からだの病気として精神疾患を認識する必要があると言える。
筆者の私見や、まだ多くの研究によって確認されていない新しい研究成果などが取り上げられているコラムは示唆に富んでおり、13章「こころの悩み」を「解決すべき方法」に変える方法、にある専門家が用いるPOS(Problem Oriented System)での治療計画の立て方は、抱える悩みを整理するうえで参考になるだろう。
2006年1月20日刊
(長谷川 智憲)
出版元:日本評論社
(掲載日:2012-10-10)
タグ:メンタル 心 悩み 身体
カテゴリ 医学
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身体知
内田 樹 三砂 ちづる
内田樹(うちだ・たつる)氏は、フランス現代思想、映画論、武道論を専門とする神戸女学院大学教授。三砂(みさご)ちづるさんは、疫学を専門とする津田塾大学教授。この2人の対談集。副題は『身体が教えてくれること』。帯に「女は出産、男は武道!? 危険や気配を察したり、場の空気を読んだり。身体に向き合うことでもたらされる、そんな『知性』を鍛えよう」とある。
まず、女性の出産の話から始まる。お産のときはエンドルフィンハイの状態になり、産んだ直後はアドレナリンハイになっている。だから、産んですぐお母さんが「ありがとうございました」と冷静になっているのはよい出産ではない。助産婦さんの含蓄に富んだ言葉、助産婦さんと家で出産する意義を考えざるを得ない。
次に武道の話。「武道の場合だと、ほんとうにたいせつなのは、筋力とか骨の強さではなくて、むしろ感度なんです。皮膚の感度じゃなくて、身体の内側におこっている出来事に対する感度。あるいは、接触した瞬間に相手の身体の内側で起きている出来事に対する感度」(P.33の内田氏の発言)
きわめつけが以下のやりとり(P.170より)。
三砂 女性はパンツとかGパンをはいているから股に布がピタッとあたっているのですよ。それを、もう不快だと思わない。
内田 たぶんその部位の感覚がオフになっているんでしょうね。
三砂 主電源がオフになっていると思うのです。
内田 「主電源」ですか。
日常から着物で過ごす三砂さんの感覚のすごさがわかる。興味を持った人は読んで下さい。ソンはしません。
2006年4月24日刊
(清家 輝文)
出版元:バジリコ
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 感覚 武道
カテゴリ 身体
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身体の文化史
小倉 孝誠
近代フランスの文学と文化史を専門とする著者の『<女らしさ>はどう作られたのか』(法蔵館、1999)に次ぐ身体に関する著作が本書である。副題は『病・官能・感覚』。
「女性の身体とジェンダー」「身体感覚と文化」「病はどのように語られてきたか」の3部構成からなるこの本の特徴は、文学への身体論的アプローチを試みているという点である。主に近代フランスにおける身体とそれにまつわる欲望や快楽、感覚、病について、文学作品、回想録、医学書、衛生学関係の著作、歴史書、礼儀作法書などを基に考察している。日本の文学作品についても随所に出てくる。
文学において身体は常に取り上げられる要素であり、さまざまな作品を通じてその時代の身体の捉えられ方を知ることができる。病のくだりで「健康という、本来は私生活上の配慮であったものが、現代ではさまざまな行政と政治のメカニズムによって引き受けられるようになった」とあるが、そこに至る背景を読み解くうえでも参考になる。
2006年4月10日刊
(長谷川 智憲)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:身体 フランス 感覚 文化史
カテゴリ 身体
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人体 失敗の進化史
遠藤 秀紀
獣医学博士、獣医師である遠藤氏は、遺体を文化の礎として保存すべく「遺体科学」を提唱、遺体を知の宝庫と捉え、これまでも数々の著書を出版している。本書では、これまで解剖に携わった数々の動物の遺体から得た知識を基に、人間の身体について考察している。
人間の進化としてはよく二足歩行が取り上げられる。手に自由を与えたことにより脳を発達さえ、言語をも獲得したわけだが、「新しい身体は祖先を設計変更することでしか、生まれてこない。それが地球上で進化を繰り返していく生物たちの、逃れられない運命なのだ」と遠藤氏は記す。先祖となる生き物の身体の設計図が原点になっているからこそ、異なる進化をたどった鳥類や魚類などの身体の設計図を知ることは、ヒトがなぜ今のように進化したのかを知るうえで多くの情報をもたらしてくれるわけである。
では、私たちヒトとは、地球の生き物として、一体何をしでかした存在なのか。本書でも自問しているこの問いに対して、遠藤氏はヒトを前代未聞の改造品と位置づけ、“行き詰った失敗作”と結論づける。そこに至る経緯については本書を一読いただきたいが、読み進めると「そうなのかもしれない」と思わず感じてしまう。
2006年6月20日刊
(長谷川 智憲)
出版元:光文社
(掲載日:2012-10-11)
タグ:進化 身体
カテゴリ 身体
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「退化」の進化学
犬塚 則久
副題は「ヒトに残る進化の足跡」。ヒトは進化しているのか、それとも退化しているのか。この問題を本書ではヒトと動物の各器官で比較しその変遷にもふれていく。人類の起源は霊長類、哺乳類、脊椎動物の共通先祖、そして無脊椎動物から単細胞生物、ついには原核生物にまでさかのぼることができる。終章ではヒトのからだに見られる退化器官や痕跡器官を、4億年前から現代に至るまで順に並べているが、いろんな機能がこれまで消えて、生まれていることがわかる。ヒトのからだは生きるために進化していると言ってもよい。捉え方によってはそれを退化と呼ぶこともあるかもしれない。だが本書は哲学本ではなく、何が進化で退化なのかを比較解剖学や形質人類学、人間生物学など多くの資料に基づいており、まさにからだは生命の産物なのだと実感を持たせてくれる一冊になっている。
2006年12月20日刊
(三橋 智広)
出版元:講談社
(掲載日:2012-10-11)
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カテゴリ 身体
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脳と体に効く指回し教室
栗田 昌裕
最近、包丁を握っていて指がつって寄る年の波を痛感した。考えてみれば、キーボードを打つか、コップを持つくらいのことしかしていない。包丁は毎日のように扱うが、それでも指がつる! なんということだ。栄養の問題か?
と、思っているときに、この本が目に留まった。「指回しね」とあまり期待しないで読んだが、やってみる価値ありと判断。いや、やってみないとなんとも言えない。最初にその効果を自分で確かめるようになっている。立位体前屈を行い、次に首を左右に回し、どれくらいまでいったか確認、記憶しておく。そして、両手の指を合わせてドームのようにし、親指同士から始め、各20回、計100回行い、変化を見る。いずれも初めのときよりよい。「でも、2回目ということがあるしな」と一応保留にしておく。以下、指と脳、こころの問題などが語られていく。
念のために記しておくと、著者は内科医で、東大の理学部と医学部を卒業(大学院では数学専攻)、三楽病院を経て、現在東大附属病院内科勤務とある。座禅、ヨーガ、気功、東洋医学などにも通じている。
「心を込めて字を書くと心が成長する」というくだりもある。指の体操もさることながら、指からからだや心をみるのも面白い本。
2007年3月10日刊
(清家 輝文)
出版元:廣済堂出版
(掲載日:2012-10-11)
タグ:指回し 脳 身体
カテゴリ 運動実践
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脳と体に効く指回し教室
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匠の技 五感の世界を訊く
田中 聡
幻の三代目豆腐職人
豆腐屋の長男として産まれた私は、いずれ「板井豆腐店」の三代目として豆腐職人になるはずだった。
うちの豆腐は「大豆の風味がよく生きていて旨い」と評判だったようだ。ところが時代とともに近代的機械を使った量産化の波が押し寄せ、しかしそれに乗らずに一家の手作業だけでつくった豆腐を細々と売るだけではやがて立ち行かなくなってしまったらしい。私が4歳の頃、父親が豆腐職人からサラリーマンに身を替えて家計を支えることとなり、豆腐屋は廃業するに至った。そのため豆腐屋の三代目を名乗ることはできなくなったが、逆に家業に縛られることもなくなった。お陰で好き勝手な進路へ進ませてもらうことができ、現在のような立場に身を置いて好きな棒高跳びも(たしなむ程度ですが)続けたり、学生の練習指導を(冷やかし程度ですが)することができているのである。
独特の動きとリズム
おぼろげだが、豆腐をつくっている祖父や両親の姿を、祖母に背負われてワクワクしながら眺めていたのを覚えている。大豆を茹でて擂ったものを入れた麻袋を搾ると、後にはオカラが白い固まりとなって残されている。白く濁った液体しかないと思っていた袋の中から固体が取り出される瞬間が手品のようで面白く、せがんでやらせてもらうのだが、ほんのちょっとしか搾れず麻袋はまだ水っぽくてブヨブヨしている。代わって父がやると信じられないほどたくさんの搾り汁が取れ、カラッカラのオカラが出現するのだ。また、できたばかりの豆腐が、水を一杯に張ったフネと呼ばれる容器に放たれ、ゆったりと水の中で横たわっている姿は、何か巨大な生き物が水槽で泳いでいるようで幻想的だった。そして、そのとてつもなく大きな豆腐を祖父は左手1つで自在に操り、右手に持った包丁でスイスイと所定の大きさに切り分けてしまうのである。
うちのほかにも近所には建具屋、鍛冶屋、銅板屋、のこぎり屋、床屋があって、職人のオジちゃんたちが独特の動きとリズムを持って働いている姿はいつまで見ても飽きることはなかった。
また不思議だったのは、彼らにどんな質問を投げかけても、その都度子ども心にもストンと腑に落ちる答が返ってきたことだ。この人達は皆、今している作業の行程全体での位置づけがすべてわかっていて、作業の細部を見つめたり全体を俯瞰したり、意識を自在に行き来させることができていたのに違いない。つまり、基礎を踏まえているからこそ、どんな質問がきても相手の力量に応じた言葉で答を探し出してくることができたのだと思う。
一流アスリートとの共通点
そう考えてみると、昨今の日本の一流アスリートには、上記のような職人的雰囲気を漂わせている人が多いように感じられる。競技へ取り組む態度というか、行為の認識の仕方が非常に似ていると思うのだ。 動作はどれも簡単で自動的にやっているように見えるのだが、実は一つひとつに長い年月をかけて培われた基礎があるからこそのものである。それらは、容易に真似などできっこない動きであり、淀みなく美しい立ち居振る舞いでもあるのだ。
本書は、職人的仕事を生業とする人たちはどんな身体感覚を持っているのか、「五感のいずれかが鍛え抜かれているプロフェッショナル」な超人たちの話を訊き集めたものだ。
「生業のなかで特殊なまでに鍛えられた鋭敏な」感覚を持った人たちの話がテンコ盛りに盛り込まれ、ワクワク感に満ちた一冊となっている。
(板井 美浩)
出版元:徳間書店
(掲載日:2007-08-10)
タグ:身体感覚 職人 動作
カテゴリ 指導
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匠の技 五感の世界を訊く
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ピアニストは指先で考える
青柳 いづみこ
プロの世界観は面白い
何かの“プロ”が書いた本は、分野を問わず面白いものが多い。
山下洋輔というジャズピアニストの影響だ。プロの話にはその世界に本気で身を置いた者にしかわからない感覚や独自の物の見方が反映され、未知の世界に連れていってもらえるのが面白い、というような話が確か氏のエッセイにあった。
フリージャズというジャンルのただならぬプロである氏のエッセイ集も当然面白く、登場するミュージシャンたちの波乱に満ちた日常と、それを巧みに描写する文章力。そして何よりも文章のあらゆるところにただよう知性と教養に私は完全にノックアウトされ、昼夜を問わず読んでは笑いころげたものだ。
プレーヤーの文章には、人柄だけでなくその人のプレースタイル(この場合、演奏スタイル)が出るように思う。氏の文章は、隙間が見えないほどに文字が多い。しかし絶妙の抑揚とともにスピード感にあふれ、ぐんぐん加速するように話の世界に引き込まれる。と思っているうちに急転直下、畳みかけるように話題を展開させたと思ったら猛烈な盛り上がりをみせ、時には静かにフェードアウトするような余韻をもって、終わる。読み終えた後には心地よい高揚感が残る。実によく“スィング”する。彼の音楽もまた、まさに文章から受ける印象と同じように聴こえるのだ。
同じ印象を受ける演奏
今回紹介するのはクラシックのピアニストが書いたものだ。帯には「ピアニストの身体感覚に迫る!」「身体のわずかな感覚の違いを活かして、ピアニストは驚くほど多彩な音楽を奏でる」などとある。
どうも最近、“身体感覚”とか“身体を通して考える”といった記述があると、読みたくてたまらなくなってしまうクセがある。音痴なうえにピアノも弾けない私だが、未知の世界の身体感覚を味わってみたくて仕方がない。おまけにピアノの“プロ”が書いた本だ。面白いに違いない。
著者は、ドビュッシー弾きで、同時に研究者でもあるピアニストだ(近くにいた哲学の先生に聞いた)。文章から受ける印象は、まず、リズムとテンポが心地よい。どのページも文字の配置が美しく、字面からとても軽やかで華やかな景色が浮かぶ。音楽を聴いてみると(哲学の先生からCDを借りた。クラシック通なのだ)、おぉ! 果たして、そこには文章から受けた印象と同じ! 美しい音楽が響き渡るじゃないの!
ピアニストという人たちは実にいろいろなことを考えながら演奏をしている。指使いはもちろん、腕や脚、つま先や踵といった身体の部分のこと、もちろん全身の使い方、身体とピアノとの関係のこと、さらには演奏用の椅子、会場や聴衆の雰囲気といった環境などに加え、作曲家の意思や昨今の名ピアニストによる名演の歴史まで考えたり感じていたりして弾いている。要するに、クラシック音楽の学問体系を背負って弾いていると考えられる。にもかかわらず、恍惚の表情を浮かべたり、無心のまま指はあたかも自動的に動いているように見えたりすることもあるのだ。
ピアノは競技と違って、速く弾けるほうがよいとか、大きな音で弾いたほうが勝ちとかで勝敗を決めるものではないが、これらの技術は演奏の表現力を左右することもあるためピアニストにとって重要なファクターの1つとなる。手(手のひら、手指の長さ)も大きいほうが、どうやら有利に働くようだ。
勝ち負け以前に
こうなると、「ピアニスト」を“アスリート”に置き換えて読みたくなってくる。
アスリートたちも、当然いろんなことを考えたり感じたりしながらスポーツをしている。外国人選手に比べて不利な身体特性を克服するため日々涙ぐましい努力を続けていることなど、共通点が多いように思う。出版物やブログから読みとる限りにおいて、計り知れない精神力や知性を感じさせるアスリートも数多く存在する。
その一方でアスリートの場合、教養だの科学だの品性だのを無視し、大学で何を勉強したのか、どうやって卒業したのかわからないようなヤカラでも、“プロ”になれたり、“世界”と戦えたり、“オリンピック”に出場できたりすることも、残念だがあり得る。ピアニストの場合、音楽の体系や教養を身につけることなく演奏の技術だけに優れていたとしても、大成することなどあり得ないだろう。
本書は一見難解な部分でも、確かな理論と教養に裏づけられた説明が、平易な文章で丁寧になされている。したがって、ピアノの経験やクラシック音楽の知識がなくても読むのに心配はいらない。ただし、専門的な知識や経験があったほうがより深いところに理解が及ぶであろうことは、ほかのどんな分野にも共通することとして容易に想像がつく。
スポーツを行うということは、勝ち負け以前に、身体運動を通して教養を身につけようとする行為にほかならない。才能やガムシャラな肉体的努力だけでなく、ちゃんとした教養を身につけるための努力が必要だ。そのほうが、アスリートである前に“人”としての人生が、実り多いものになるだろう。自戒の念も込めてそう思う。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2007-12-10)
タグ:身体感覚 ピアノ
カテゴリ その他
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身体知の構造 構造分析論講義
金子 明友
「わざ」の伝承という難題
スポーツの技を伝えて行くにはどうしたらよいのだろう?「不世出の名選手を次つぎに育てていくコーチ、世界の王座に君臨し続ける選手を生み出す名監督は現実に存在」しているのだが「その固有な評価判断の深層構造」はなかなか語られることはない。「それは先言語的な動感意識の深層にあって言明しにくい」のかも知れないが、一般に「それらは『長年の経験によるのだ』とか『秘伝だ』といわれて、その人固有な能力に帰せられ」、一代限りで終わってしまう場合が多い。
今回紹介する「身体知の構造」は、身体文化における「わざ」の伝承という難題について体系化を試みたもので、恐ろしいほどの忍耐力で書き上げられた一連の書物の最新作だ。「わざの伝承」(2002)に始まり、「身体知の形成 上・下」(2005)に続く4冊目である。
最近私が“身体感”とか“身体知”などといったテツガクの匂いがする分野にめっぽう弱いことを知っている某氏の勧めで手にした。白状してしまうと、これがまた頭にガッツンとくるほど難しい。悔しまぎれに残りの3冊も読んでみたら、ようやく、解るかも知れないこともない…くらいの気持ちにはなることができた。悪口ではない。それほど壮大な内容が厳密な言葉をもって記されているということだ。
現象学的な立場から
この「わざの伝承」という難題を解くにあたり、本書の中では「精密性を本質とする自然科学的立場から身体運動を客観的に分析する」という態度はとられない。ビデオで撮影され映像として客観視された、いわば客体化された身体ではなく「私が動くという自我運動として、現象学的形態学の厳密性に基づいて」身体運動の伝え方を分析しようとしている。
科学の尺度では測れない微細な感覚やコツ、あるいはただの主観として片付けられてしまいがちな事象について、かたくななまでに科学とは別の次元、つまり現象学的な立場から(あらゆる先入見を排除して、とはいえ自分がある特有の立場でしか観察できないことを認識したうえで)の分析を試みているのである。
今さらだが、科学は万能ではない。ある事象を科学的に説明しようとするとき、厳密な実験条件を設定する必要がある。雑音を取り払い、問題点を明確にあぶり出すことで客観的に測定したデータが取り出されるのだが、同時に、ある限られた条件でしかそのことが成り立たないという不便さを背負うことになる。
しかも、そのデータのどの部分に着目して、どう解釈し、どのように考察を進めるかという段階で主観が入り込む可能性があるうえ、科学的理論が広く知れ渡るようになると、尾ヒレが付いたり逆にデフォルメされたりして本来伝えるべき内容とは異なった理論(解釈)が一人歩きしてしまう現象がしばしば生じる。正しい科学的な態度とは、定説をつねに疑うこと、というか、何か一つだけのことを正しいと信じ込むのではなく、いつもニュートラルな態度で物事を見つめようとすることだと思う。科学的な見方が正しい場合もあるが、それが全てではないし振り回されてはいけない。たとえば時計にしたって、瀬古利彦氏は『マラソンの真髄』で、「時計はみんなのタイムを公平に計る機械であって、自分の体調を測るものではない」と述べているが、このような状況が当たり前のように起こる。そこには現象学的なものの見方というのがやはり必要になる。
あくまで“私”
本書が科学的立場をとらないもう一つの理由として、こちらが本義だと思うが、フランスの哲学者 メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908~1961)による心身一元的な身体感の影響があるようだ。昔の教科書を引っ張り出してみた。「メルロー=ポンティは、身体のあり方は、芸術作品に似ていて、そこでは、表現する働きと、それによって表現されるものとが区別されないと云っている。つまり、意識としてのわたしが、身体のうちにいるのではなくて、意識の本性が志向性であるなら、身体こそが意識の根源的なあり方であり、しかもこの意識は『われ思う』ではなくて『われなし能う』ということになってくる」(阿部忍著、体育哲学、逍遙書院、1979)。映像として観察されたものは「物の運動」として捉えられており、精神と一体化した“私”の運動ではなくなってしまう。どんな身体運動も実際に行うのは、あくまで“私”であって、その“私”が“今まさに”行っている運動の感じを自得、伝承しようとする行為を記そうとしているのだ。
齢80になろうとする著者が、今まさに現役の学徒としてこの大作に挑んでおられる姿が思い浮かぶ。私感だけれど、ビデオ画像や動作解析データにも“今まさに私が動いている感じ”を身体に投影できるコーチや科学者も最近はいるのではないかと思う。皆さんの目で確かめて下さい。
(板井 美浩)
出版元:明和出版
(掲載日:2008-02-10)
タグ:身体知 コツ 現象学
カテゴリ 身体
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健康とスポーツを科学する
長尾 光城
本書は長尾光城・川崎医療福祉大学教授が監修を務められ、副題は「これからの幸せを求めて」。その内容は以下の通りである。1章・健康とスポーツ、2章・スポーツと身体、3章・スポーツと栄養、4章・スポーツとこころの健康、5章・スポーツと安全、6章・スポーツと健康問題。1章では健康とスポーツを定義し、またヘルスプロモーションとは何か、など概略的な部分についての詳細をまとめている。そして身体の構造については、その構造と役割についてをスポーツと関連付けながら整理し、図や表、写真を用いて解説している。
一般的にスポーツと関連付けて考えることが難しいとされる栄養の知識については競技毎に、また障害者スポーツの場合にはどのような問題点があるのかについてもふれられている。こころの健康については、ストレス・コーピングの具体的な方法をまとめ、その種類と分類も説明している。
本書はまさに健康とスポーツを科学する、その基本的なところをしっかりと押さえている。
2008年4月1日刊
(三橋 智広)
出版元:中央法規出版
(掲載日:2012-10-12)
タグ:健康 身体
カテゴリ スポーツ医科学
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運動・認知機能改善へのアプローチ 子どもと高齢者の健康・体力・脳科学
藤原 勝夫
それって本当?
科学的態度とは、常に疑問を持つということだと思う。定説となっている理論でさえ、むやみに信じてしまうことなくニュートラルな立場で情報と向き合う態度が、私たちスポーツ科学の発展を願う者には必要だ。
たとえば、子どもの体力低下が叫ばれて久しい。このことについて証明するデータは枚挙にいとまがないし、直感(あるいは刷り込み?)的には素直に同感してしまうのだが。体力とは環境への適応結果として現れたものが測定されるのだから、昔のような体力が今の社会には必要なくなったための必然的結果である、とも考えられないだろうか。なのに、子どもの体力が劣った劣ったと叫ばれているところに違和感を感じる。
はたまた授業の場において、現在の体力について感想を学生たちに書かせると “平均より強くてよかったです”、“落ちてて悲しかった”、“やっぱ体力は必要です”、“歳をとっても動けるよう部活ガンバリマス”などなど、判を押したように“体力あることはよいこと”のオンパレードとなることに違和感を覚える。
違和感ついでにもう1つ。“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”という表現がいろいろな場でなされますね。この言葉に違和感を覚える人は少なくないと思うのだがいかがだろう。病んだ人には健全な精神が宿らないの? と、突っかかりたくなってしまう。まあ、これ自体じつは誤用で、本来は“健全なる肉体に健全なる精神が宿るように祈りなさい”というのだそうで、こちらの表現ならまだわかる気がするけれど。
目的? 手段?
さて、上記3例に共通して感じる私の違和感とは“体力がないのは悪いことなの?”という点だ。なぜなら、運動できない子は“ダメな子”なの? という連想を禁じ得ないからだ。極論すれば、病気があったり何かの理由で運動ができない人たちの存在を否定することになりかねないという危惧さえ感じるのだ。
体力があることは、確かに日常生活の場において便利だと思う。しかしその測定値が平均から外れていることに一喜一憂し、本来、人それぞれの多様なQOL(Quality of Life、生活の質)を高めるための手段であるはずの体力や運動が目的化し、体力の“大小”を人の能力の“優劣”として短絡的に捉えてしまうことがないようにしたいものである。老いも若きもトップアスリートも、人それぞれに応じた“幸せな体力”のようなものがあると思うのだ。
やはり運動はよい
本書は、これらのヒネクレた疑問に対して、解決するためのヒントを多大にもたらしてくれる。「ウォーキングやジョギングなどのリズミカルな運動は、筋はもとより脳の働きを活性化」し、「片足立ち」や「旗あげ」遊びなどの比較的緩やかな運動でも「前頭前野」の働きが活発になるそうで、「発育期に身体運動を行うことによって、大脳皮質のネットワークが強化され」「前頭前野」の機能が維持されると考えられるようだ。
前頭前野とは、いわゆる“良識”を司る脳の部位だそうだから、子どものときに運動を“実体験”するのはよいことなんだな。それも、緩やかな運動でも活性化するのだとすると、運動が苦手だったり、身体が弱かったりする子どもでも大丈夫そうだな。「コンピュータゲームに慣れてくると、前頭前野の活動は、ゲーム中に低下」するので好ましくないらしい。だけど、ゲームをしている時の子どもの集中力ってのもスゴいんだよなあ。α波がいっぱい出るみたいだし、別の解釈が成り立たないもんかなあ。
子どもの「体力低下の直接的要因は、身体活動量の減少であるが、間接的要因には就寝時刻・起床時刻の遅延化、睡眠時間の短縮化、朝食欠食などの生活習慣があげられる.それらが影響して低体温、自律神経失調、貧血などが惹起され、体調不良の子どもが激増している」のだという。
なるほどなるほど。測定された体力には環境に適応した結果が表れるのだとすると、体力測定値が下がるということは、裏側に好ましくない生活習慣があるということなのか。
などと考えながら読み進めるうちに、実はこれらのほとんどのことは私の“身体”がすでに知っていることに気がついた。さらに、本書の著者たちが考える手がかりとして自分の身体を見つめ、身体のイマジネーションによって研究を重ねてこられたのであろうことに気づかされた。やはり運動ってスゴい!
(板井 美浩)
出版元:市村出版
(掲載日:2012-10-12)
タグ:体力 身体 認知
カテゴリ 身体
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舞踊・武術・スポーツする身体を考える
中村 多仁子 三井 悦子
身体体験や感覚を言説化・言語化することの難しさは、スポーツに携わる者でなくとも日常生活の中でしばしば感じることである。病院で医師に症状を説明するとき、ブティックで服を試着したときetc…。だからこそ、擬音やボディーランゲージを多用した長嶋茂雄のバッティング指導などがユニークに紹介されたりもするのだろう。
本書はスポーツや舞踊、武術を主な素材に、それぞれのフィールドの専門家がそうした身体感覚の言語化を試み、語り合った14時間に及ぶディスカッションの様子を記録した一冊である。
とくに、女子体操で2度のオリンピックに出場、メダルも獲得しているだけでなく現在は地唄舞の名手としても名高い中村多仁子氏の数々のエピソードやそれに基づく発言は非常に興味深い。金メダリストのベラ・チャスラフスカも評価した、日本的で抽象化された動きの分節や表現、そのチャスラフスカなどとは対極にある「体操の技をする体型」につくり上げられたコルブトら東欧の選手の身体への違和感、そして地唄舞における所作や動作感覚といったものから世阿弥の『風姿花伝』の解釈に至るまで、難しい表現を用いることなく丁寧に解説、言語化してくれている。
素人に毛が生えた程度とは言え、舞踊やスポーツを学んだことのある身としてもそうした作業の難しさをしばしば感じていただけに大いに納得させられる表現が多かった。
また、冒頭から語られ、ディスカッションを通じてのキーワード、キータームともなっている「主体的に○○される」という一見矛盾しているかのような言葉も、スポーツや舞踊のみならず、時には生活全般においても当てはめることができる事象の捉え方として深く印象に残るものである。
いずれにせよ、スポーツ科学、とくにストレングス&コンディショニングやフィットネスと呼ばれる世界に身を置くわれわれ指導者にとって、数字や映像といったデータが重要な事は言うまでもないことだが、こうした「言語」もまた避けて通れない領域なのだと改めて考えさせられる一冊である。
(伊藤 謙治)
出版元:叢文社
(掲載日:2012-10-13)
タグ:舞踊 武術 身体
カテゴリ 身体
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フェルデンクライス・メソッドWALKING 簡単な動きをとおした神経回路のチューニング
ジェームズ アマディオ 橋本 辰幸
本書のタイトル、フェルデンクライスメソッドとは物理学者モーシェ・フェルデンクライス博士によって開発されたメソッドで、「動き」を通して人間の持つ潜在能力を引き出す学習システムである。私は体験したことがないが、聞くところによるとこのメソッドは、レッスンでのさまざまな動きを体験することで、これまでに身に染みついた動きから離れ、より自然な動きや姿勢を獲得し自分の身体への気づきを高めることができ「心地よい体の動きが“脳”を刺激し活性化させる」ボディーワークだそうである。
本書では、レッスンの具体的な方法が豊富な写真と付属のDVDで解説されており、寝て行うレッスン、立位・歩行によるレッスン、トレッドミルでのレッスンと段階的に進みそれぞれの実践者にあったプログラムを選べるよう構成されている。ただ、理論的背景などにはあまり触れられておらず、なぜそのような姿勢や動作なのかの説明がないのが残念だが、姿勢や動作を改善することでパフォーマンスを向上させようとする選手・指導者やリハビリテーションに関わるセラピストには、新たなアイデアを引き出してくれる一冊となるだろう。
(打谷 昌紀)
出版元:スキージャーナル
(掲載日:2012-10-15)
タグ:身体
カテゴリ ボディーワーク
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スポーツ常識の嘘
横江 清司 スポ-ツ医科学研究所
スポ-ツ医科学研究所“突き指は引っ張っておけばよい”、“運動は長時間続けなければ減量効果がない”。
一度は耳にしたことがあるスポーツの常識。これが全部“嘘”であるという強烈なインパクトから始まる本書。
中を開くと、序文よりも目次が先に書かれ、興味深いタイトルが“えっ!?”という驚きがさらに読者をひきつける。しかし本文を読んでみると、まったくの嘘というわけではなく、解釈を間違えると思わぬ危険性もあるのだと示唆する内容だ。
今日、スポーツ愛好家が増える中、作者の“ケガをしないでスポーツを楽しんでほしい”という思いを感じることができる一冊だ。
(藤井 歩)
出版元:HIME企画
(掲載日:2012-10-16)
タグ:身体
カテゴリ スポーツ医科学
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身体障害者のためのスポーツ指導 身体不自由編 視覚・聴覚・言語障害編
大阪市障害更生文化協会
身体障害者のためのスポーツ指導 身体不自由編
身体障害者のためのスポーツ指導 視覚・聴覚・言語障害編
身体障害者のスポーツは、リハビリテーションとしてのみならず、広く楽しむスポーツとしても行われるようになってきた。ここに紹介する2冊は、「市民スポーツの指導者が積極的に障害者を受け入れ、みんなの中で、いっしょにスポーツの指導をすすめていくための資料として」作成されたものである。
発行所である大阪市身体障害者スポーツセンターは、昭和49年、在宅の身体障害者のために、家族ぐるみで気軽に利用できる総合的スポーツ施設として開設されたもので、開館4年半で利用者は延べ50万人にのぼるという。その4年半の事例を中心にまとめられているが、「あとがき」にある通り、「身体障害者が一市民としてみんなのスポーツの輪に入れることを願って、市民スポーツの指導者と養護学校のみならず、すべての学校の先生方に参考としていただきたい」ものである。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:大阪市身体障害者スポーツセンター
(掲載日:1981-12-10)
タグ:運動指導 身体障害者
カテゴリ 指導
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分子レベルで見た体のはたらき
平山令明
人の身体は何からできているか考えたことはありますか?
人間の身体の細胞はどれだけあり、どんな働きがあるか考えたことはありますか?
「分子」というと難しさが出てくるかもしれませんが、本書は文章だけでなく図やCD-ROMを使い、よりわかりやすく解説されています。身体についていろんな情報が出ていますが、より深めていくと面白いことがわかってきます。本書は自分の身体についてそんな面白さを深めていける一冊です。
(大洞 裕和)
出版元:講談社
(掲載日:2015-07-06)
タグ:分子 身体
カテゴリ 生命科学
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身体言葉に学ぶ知恵1
辻田 浩志
本書は、タイトルの通り身体の様々な部位にまつわる言葉の解説である。読んでいて思わず「へぇ」とか「なるほど」と、無意識に声が出る。普段、何げなく使っている身体言葉の語源の解説は、トレーナーとして活動している私の知的好奇心をそそる。また、単に言葉の語源の解説にとどまらず、整体師として、日々人の身体に真剣に向き合っている著者自身の体験や考察も興味深い。
長い日本の歴史の中で、先人たちの作った身体言葉には、現代のトレーニングやリハビリでも十分に役立つ知恵がつまっていて、身体言葉の知恵に注目した著者のその観点は、今までにない面白いものである。
(久保田 和稔)
出版元:ブックハウス・エイチディ
(掲載日:2016-04-14)
タグ:言葉 身体
カテゴリ 身体
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動きが心をつくる 身体心理学への招待
春木 豊
長年の研究成果をまとめた著書「身体心理学」に続き、身体の動きと心の関係を明らかにしていく。「身体」ではなく「身体の動き」に着目しているのが興味深い。例示された中でも呼吸や姿勢を始め、筋反応といった切り口はスポーツにも通ずる。筋弛緩により心の緊張もほぐれるといった具合である。
全体としてはアカデミックな内容で、直接日々のスポーツ活動に応用できるというわけではないが、普段と違った視点から動きについて考えると、新たな発見があるのではないだろうか。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:講談社
(掲載日:2012-07-10)
タグ:身体 動き
カテゴリ 身体
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痛くない体のつくり方 姿勢、運動、食事、休養
若林 理砂
2年先まで初診予約が埋まっているという若林氏が「患者を減らしたい」と筆を取った。
まず現代人がいかに身体の痛みに鈍感かを、実際のエピソードを交えて訴える。認識を変えることはもちろん、病院に行く前に相談できる人の存在の大きさが伝わってくる。次に受診の結果、重大な病気ではなかった場合の対応として、鍼灸師である著者ならではの「ペットボトル温灸」「爪楊枝鍼」といった自分でできる方法を紹介。そして痛みを予防すべく、望ましい姿勢、食事、睡眠、心的ストレスとの向き合い方をまとめた。心身は全てつながっているのがわかる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:光文社
(掲載日:2016-01-10)
タグ:鍼灸 身体 ストレス
カテゴリ 身体
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数学する身体
森田 真生
なぜ競走に感動するのか
100m走の世界記録は言わずと知れたウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の9.58秒。2009年の世界選手権(ベルリン)で出されたものだ。
ボルトは前年のオリンピック(2008年・北京)でも当時の世界記録となる9.69秒で優勝しており、度肝を抜くこの異次元的な世界記録更新劇は、多くの人にとって記憶に新しいことと思う。
しかしですね、ちょっと意地悪にこの記録を単なる数値で表してみたらどうなるだろう。9.58秒と9.69秒、その差はたった0.11秒、まさに“瞬く間”でしかない時間、距離にして1mちょっとくらい速くなっただけのことになる。図鑑を見ればボルトより速く足る動物はいくらでもいるし、そこらの犬でさえ7~8秒で100mを駆け抜けるのがたくさんいるではないか。そういう動物の速さに比べたら、人間は圧倒的に遅い部類に入ってしまう。こんな、むしろ“のろま”な人間の競走を見て、なぜ我々は感動するのだろう。
それはきっと“身体の同一化”のようなことが起こっているからではないかと思う。たとえばテレビに映し出される場面に身体ごと入り込んだように、あるいは自分の身体の中にレースシーンが投影されるようにイメージされる、そのようなことが皆さんにはないだろうか。実態としてボルトになったような“感覚”とは違う、場面全体が“情緒”として身体の中に昇華されたような状態というべきか。テレビ画面を見ているだけにもかかわらず、シーンと一体化し、かつ俯瞰するように、間合いを自由に行き来しつつ身体ごとレースを体感するのである。このような“自在な身体”を私たちは誰でも持っていて、同時に、“記録”の裏側や、背景にある物語とかといった“味わい”を読み取る力があるからこそ、“価値のある差”を見出し、感動することができているのではないだろうか。
また、“数”ということに関していえば、世の中には“数”の価値を読み取る力が常人とは比べものにならないほど強く、たとえば「17」と「18」の間には「味わう」べき大きな違いがあるという感性を持つ人たちがいる。数学者である。
情報から浮かび上がる像
今回は「30歳、若き異能の」数学者、森田真生による『数学する身体』。
高校時代、バスケットボールに打ち込んだ森田は、「勝ち負けよりも、無心で没頭しているときに、試合の『流れ』と一体化してしまう感覚が好きだった」。そうした経験の中から「身体」に興味を持ったようだ。大学では初め文系学部に学んだが、岡潔(数学者)によるエッセイの文庫を手にしてから数学を修めようと決心したという知的好奇心のうねりを経て、現在「京都に拠点を構え」る「独立研究者」である。
数学「mathematicsという言葉は、ギリシャ語の(学ばれるべきもの)に由来」する。単に「数学=数式と計算」という理解しかない私にとって、「=」という記号が実は16世紀になって発明された(こんな最近の出来事だったのだ!)ことや、「17」が素数(1と自分以外では割り切れない数)であることで、たった1つしか違わない18や16とは味わいが大きく異なり、だから、数学科の学生の飲み会では「居酒屋の下駄箱が素数番から埋まっていく」ことなど、驚きの記述が連続する。
何かその先にある「風景」が見たいという積極的な動機のもとに、ものすごい吸収力で情報を蓄え、大量の知識がつながりをもって身体に収まっている様子が、全編通して読み取れる。
頭がいい人は違うぜ、と片づけてしまえばそれまでだが、運動がものすごくできる人(オリンピアン・メダリスト)が、実はものすごく努力しているように、勉強がものすごくできる人も、ものすごく勉強しているのだ。書物の中から得た知識が森田の前では像を結び、著者や景色が時代・場所を超え、まるでホログラムのように浮かび上がってくる。それは、森田がそこまで資料を読み込んでいるという証拠だろう。“体育会系だから走るしか能がありません”という前に、“味わい”を探すつもりで読んでみることも“イメージトレーニング”になるのではないか。森田も元はバスケ少年、ルーツは同じだ。きっと同一化できる部分が見つけられるに違いない。
( 板井 美浩)
出版元:新潮社
(掲載日:2016-02-10)
タグ:数学 身体
カテゴリ 人生
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身体の使い方、鍛え方 スポーツがうまくなる
谷本 道哉 石井 直方
まず身体構造やトレーニング原理を理解し、具体的なメニューの紹介に入る。そしてベースとなる身体をつくった上でコツの習得へ、という流れがわかりやすく整理されている。本書で強調されるのは、「何のためにトレーニングするのか?」を常に考えることだ。
トレーニングを初めて取り入れるアスリートはもちろん、基本のメニューがコンパクトにまとめられているため、これから現場にでる指導者も持っておきたい。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:マイナビ
(掲載日:2013-01-10)
タグ:身体 トレーニング
カテゴリ トレーニング
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身体のいいなり
内澤 旬子
うらやましい心のしなやかさ
世にあまたの“スポーツ感動物語”があるが、実は主役(選手)にとっては“好きで夢中にやった結果そうなっちゃっただけの物語”を、まわりの感動したい(させたい)者たちが寄って集って感動の物語に仕立てているだけなのかも知れない。“がんばる”ことは選手にとって当たり前のことだからだ。
そんな“がんばった姿”に、私の妻は我慢することなく感動し、大いに涙を流す。スポーツ番組やダイジェスト、さらにはお涙ちょうだい式の“がんばった”物語を観てもそうで、見事に制作者の意図にひっかかり、ボロボロと大粒の涙を流す。そのたび子どもたちから冷かされているが、子どもたちは、そういう母を茶化しては自分も泣きそうになったのをごまかしているのだ。
齢をとると涙もろくなるというが、むしろ感受性が豊かになり素直に反応できるようになった結果がそうさせるのだと思う。心が弱くなったり脆弱になるのでなく、むしろ心がしなやかになるのだ。
うーむ、素晴らしい。妻のような素直(単純?)な人格を手に入れたいものである。私はというと(涙もろい年頃になって早幾年だが)、冷やかされるのが嫌で、バレないよう目をぬぐったりしている体たらくなのだ。
さて今回の『身体のいいなり』は、乳癌を患い、治療の「副作用から逃れたくて始めたヨガにより」、癌の発覚前より「なぜかどんどん元気になっていった」自らの体験をつづったエッセイである。決して“闘病記”ではないと著者の内澤旬子はいう。闘病記とは、よほど「進行した状態の癌の治療に向き合う場合」をいうのであって「初期癌の治療で『闘う』と言われても、気恥ずかしく申し訳ない気持ちで一杯になる」のだそうだ。「世の中にはもっともっと苦しい、それこそ文字通りの『闘病生活』を送っている人がたくさんいる。それに比べたら私の癌なぞ書くほどの体験と思えない」という気遣いもあってのことなのだろうと思う。
身体の声を聴く達人
「生まれてからずっと、自分が百パーセント元気で健康だと思えたためしが」なく、「『病気とはいえない病気』の不快感にずっとつきまとわれてきた」身体がどんどん元気になってきたというのだ。その体調のよさとヨガとの因果関係はわからない(著者も言及していない)が、しかし小さい頃から「じりつしんけい、とか、きょじゃくたいしつ、という言葉を聞き知って」おり「当然のことながら、運動は大嫌い」だった著者が、「筋肉オタク」を自称するまで「ヨガ」にハマっているのである。その理由は「気持ちいい」からだ。「マット一枚のスペース」があればでき、身体によさそうなヨガを「スピリチュアルなものとは距離」を置きつつ恐る恐る始めたところ「なんの魔法をかけたのですかというくらい」「布団に入った瞬間にことりと眠りに落ちた」ほどに不眠から解放されたのだ。そして「そのうちに終わった後、身体の真ん中、心臓の裏側あたりが強烈に気持ち良くなる」身体感覚との出会いで決定的にヨガが好きになっている。運動など苦手でも、このような身体の声を聴けることは立派に“体育の達人”といえる。
癌以前にも「足指を一つずつつまんでほぐしてもらい、身体のどこかに手を当てて、身体の中に流れのようなものを作るという」「操体」という「治療術」で「ある日突然、腕がくるくる」と「動かしたかったように」動くという体験をしている。さぞ気持ちよかったろうと思う。
この“キモチイイ”というキーワードは重要で、ちょっとしたボタンのかけ違いで“がんばる”ことが先行すると、いとも簡単に人は運動嫌いになってしまう。
身体は、がんばりたい?
「『がんばって』は私がなにより嫌いな言葉」なんだそうだ。しかし治療に関して著者は「それなりに大変な思い」と控えめに表現はしているものの、「二度の部分切除を経て乳腺全摘出、そして乳房再建と手術」を重ねるなど、相当な修羅場をくぐって癌と闘い、“がんばって”生きてきたことは想像に難くない。
表紙のイラストにしても、裸の女性が右手を植物に絡まれながらも、左手で乳房を引ん剝いて“病気のいいなりになんかなるものか”とばかりにベロを出し、がんばっているではないか。“がんばる”という行為は、“キモチイイ”という身体感覚の反対側にあるようなものかもしれない。だけど運動の“キモチイイ”を知っている人は、“がんばった”先に“キモチイイ”が待っていることも知っている。
そんなに“がんばらない”ことにがんばらないで、“がんばりたい”と身体が言っているのだから、がんばる“身体のいいなり”になってもいいんじゃないかなあと、お節介ながら思うのである。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-10-10)
タグ:身体 不調 闘病
カテゴリ 身体
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自重筋力トレーニングアナトミィ
ブレット・コントレラス 東出 顕子
いつでも、どこでも行えるのはもちろん、フリーウェイトの土台づくりにもなる自重トレーニング。約150種を取り上げ、他の「アナトミィ」既刊と同じく、ターゲットとなる筋が一目でわかるイラストとともに詳しく解説している。
1つの部位につき難易度が4段階に分けられており、一般の人からパフォーマンスアップを目指すアスリートまでさまざまな対象のトレーニング指導に活用できる。
プログラム計画についても言及されており、1冊で自重トレーニングの知識を網羅できるような構成となっている。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ガイアブックス
(掲載日:2014-12-10)
タグ:身体 トレーニング 自重
カテゴリ トレーニング
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近くて遠いこの身体
平尾 剛
どのように共有するか
著者は元ラグビー日本代表で、現在は大学の講師。スポーツ教育学と身体論が専門で、「動きを習得するために不可欠なコツやカンはどのように発生するのか、そしてそれを教え、伝える(伝承する)にはどうすればよいかについて思索しています。」とのこと。タイトルにも惹かれて本書を買ったのだが、残念なことに、これについて全くと言っていいほど触れられておらず、著者自身の回顧録のような内容である。オビの推薦文にあるように、本書の内容(=著者の経験知)が「パブリックドメイン」として共有できるとも思えない。感覚も身体の動きも人によって千差万別。たとえトップ選手の感覚であっても、それを共有し、他人が自分の経験知とすることができるものなのだろうか。
「身体能力を高めたい僕たちが本当に知りたいことは、そこに至るにはどうすればよいかという方法論である。でも残念ながらそんな方法論は存在しない。自らが試行錯誤しながら身体を使い続けるなかでの体感を、ひとつ一つかき集める以外に、そこに至る方法はないだろう。」と本文にある。ということは、結局、自分であれこれ試してみるしかないということなのだ。そこに先人の経験知を共有していれば、その試行錯誤の方向性が定まりやすいということはあるかもしれない。だが問題は、それをどうやって共有するか、ということだ。
伝えるために必要なもの
本書で、漫画「バガボンド」について触れられている。吉川英治著『宮本武蔵』を原作とする人気長編漫画である。著者曰く「身体論の研究にはもってこいの書」だそうだ。そこで私は、司馬遼太郎著『北斗の人』を連想した。
幕末に隆盛を誇った「北辰一刀流」の開祖・千葉周作が主人公の歴史小説である。司馬曰く「北辰一刀流がなければ、幕末の様相も多少変わっていただろう」というほどの革命的な流派だそうだ。「『他道場で三年かかる業(わざ)は、千葉で仕込まれれば一年で功が成る。五年の術は三年にして達する』という評判が高く、このため履物はつねに玄関から庭にまであふれ、撃剣の音は数町さきまできこえわたって空前の盛況をきわめた」というほどであり、その特徴は「凡才でも一流たりうる」という独特の剣術教授法であった。そして千葉は、剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場で新しい体系をひらいた人物なのだそうだ。
一方、武蔵が開いた「二天一流」は幕末期には衰退していた。武蔵が記した「五輪書」にも刀の持ち方とか足さばきとか、具体的なことが書いてあり、摩訶不思議な言葉を並べているわけではない。たとえば「太刀の取様は、大指人さし指を浮けて、たけたか中くすしゆびと小指をしめて持候也」という具合である。しかし、この違いはなんだろう。時代背景も違うし、流行が流行を呼んだということもあるかもしれない。そもそも2人の剣豪を比較するつもりもないのだが、ここで私が考えたいのは「凡人でも一流たりうる」ためのコツやカンを、他人に伝えることは可能なのかということである。
本書にあるとおり「言葉を手放し、『感覚を深める』という構えこそが、運動能力を高めるためには必要」であり「『感覚』を拠り所にすれば、そこには努力や工夫の余地が生まれる」のだとしても、その感覚や経験知を伝えるためには結局言葉や方法論が必要なのではないか。
ブルース・リーは映画『燃えよドラゴン』(1973)で「Don’t think! Feel!」と有名なセリフを言ったが、実際には「感じろ!」だけではコツやカンを伝えることはできない。もっとコツやカンとは何ぞやということを掘り下げないと、それをどう伝えるかも考えられない。
本書に紹介されているエピソードに興味深いものがある。ラグビーの強豪ニュージーランドの20歳以下の代表チームと対戦した際に著者が経験した「狩るディフェンス」だ。わざと走り頃のスペースを空けて走りこませ、挟み撃ちにするのだ。ニュージーランドのラグビーの中でその技が伝統として継承されているという。メンバーの入れ替わる代表というチームで、阿吽の呼吸が必要なこういうプレーがどのように伝承されているのか。イメージなのか感覚や経験知なのか。ここにコツやカンとは何か、どう伝えるかというヒントがあるように思う。とても興味深いテーマに挑んでいる平尾氏の続編を期待したい。
(尾原 陽介)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2015-04-10)
タグ:身体感覚 ラグビー 教育 コツ カン
カテゴリ 身体
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近代日本を創った身体
寒川 恒夫 中澤 篤史 出町 一郎 澤井 和彦 新 雅史 束原 文郎 竹田 直矢 七木田 文彦
まず驚いたのは本書のテーマと切り口です。近代日本史でもなくスポーツが日本に普及するいきさつでもなく、明治時代から戦後の昭和に至るまでの日本人の身体を通して見る国家であったり健康であったりスポーツであったり、盛りだくさんのテーマがあります。普段見ることのない角度からの近代日本からは、歴史の教科書にはないものが見えてきます。
江戸時代にはスポーツのような競技の概念はなかったようです。武道・武術が近いのかもしれませんが、やはり戦を前提としたもので、今の時代のように身体を動かして楽しむというレクリエーション的な要素は少ないのかもしれません。現在の日本人から見れば全くの異文化ともいえます。
明治以降、ヨーロッパを中心とした諸外国との交流があり、人種による体格の違いに劣等感を持ったり、江戸時代には寛容であった「裸体」に対する文化の違いに当時の日本が焦りを感じていたことを初めて知りました。
「体育会系」という風習の生い立ちというテーマも今まで触れる機会はありませんでした。それが政治的な背景で生まれ育った概念で、また体育会系というのが縮小傾向にあるのもまた政治的背景。不思議なつながりに翻弄されるさまは一つのストーリーとなっています。
スポーツをプレイと捉えるのではなく人間形成であったり教育の一環として捉える日本ならではのスポーツ感にも、時代の背景が潜んでいることに気づかされました。
明治維新から戦争まで動乱の近代日本の歴史を通して見る身体には、その時々の日本の問題点が隠されていました。そしてそれらは過去のお話ではなく今の時代にもつながるテーマがいくつもありました。現代の問題を読み解くカギは、知られざる歴史にこそあるのかもしれません。
(辻田 浩志)
出版元:大修館書店
(掲載日:2020-12-09)
タグ:近代 身体 日本
カテゴリ 身体
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アスレティックボディ・イン・バランス
Gray Cook 石塚 利光 菊地 真也 鈴木 岳 友岡 和彦 山下 貴士
本書を読み進めるうちにイメージしたのは自動車です。もし自動車のタイヤがねじれていたら、もし自動車の車軸がぶれていたら、高速で走れば走るほど故障や事故の可能性は高くなります。ともすればパワー中心の性能に目がいきがちですが、それはバランスがとれているという前提があってこその話です。
本書の特徴は、そのような身体のバランスから始まるトレーニングの順序の重要性を説いたところにあります。パワーやスピードを得るためのトレーニングは重要ですが、まずその前提となるバランスを整えてからパワー、スピード、アジリティを高めていき、最後に競技に必要な動きを高めるという手順は合理的です。
単にパフォーマンスの向上だけではなく傷害の回避や競技者の潜在的な問題点の洗い出しに役に立ちそうです。筋肉や関節の役割を明確にし、それらのつながりを把握するという取り組みは大きな意義があります。今まで漠然と鍛えていた身体の部位も、役割と他の部位との関連性がわかれば、おのずとトレーニングの目的も明確になり、自分の身体とその動きにも理解が広がるはずです。
(辻田 浩志)
出版元:ブックハウス・エイチディ
(掲載日:2020-12-16)
タグ:身体 バランス 評価
カテゴリ スポーツ医科学
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自分の頭と身体で考える
養老 孟司 甲野 善紀
解剖学の権威・養老氏と古武術を追求する甲野氏による「日本人の身体観」についての対談。話は「頭と身体で考える」というテーマから徐々に両氏の興味へ、そして日本社会の問題点へと逸れていくというバラエティに富んだ内容だ。自分の身体に問いかけてみると、意外なことが見えてくるかもしれない。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:PHP研究所
(掲載日:2000-02-10)
タグ:身体 解剖 古武術
カテゴリ 身体
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「からだ」を生きる 身体・感覚・動きをひらく5つの提案
久保 健 高橋 和子 三上 賀代 進藤 貴美子 原田 奈名子
学習指導要領に「体ほぐし」という新しい内容が導入される以前から、独自の立場で「からだ」という問題に取り組んできた人たちの著書。モダンダンス、舞踏、ソマティクスや、操体法、野口体操などの身体技法を「からだ」に“すまわせてきた”著者らによる「からだ」観の捉え直しとその方法論。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:創文企画
(掲載日:2001-03-10)
タグ:身体
カテゴリ 身体
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からだには希望がある
高岡 英夫
「ゆる」と「極意」でお馴染みの高岡氏による最新書。スポーツパフォーマンスの中でも上位に位置づけられるであろうバランスや軸の獲得について、マイケル・ジョーダン、イチロー、変わったところでは五重の塔や浮世絵に描かれた花魁などを例に挙げながら解説していく。高岡氏ならではの世界が繰り広げられる。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:総合法令出版
(掲載日:2002-02-10)
タグ:身体
カテゴリ 身体
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スポーツ選手なら知っておきたいからだのこと
小田 伸午
“言葉”が選手を変える
「からだの力抜いていけよ!」「リラックスしていけよ!」。これは、よくスポーツ場面で聞かれる言葉である。選手のパフォーマンス向上を願って発せられる言葉だと思うが、実はよく考えてみるとこの言葉はおかしい。なぜなら、スポーツの場面でからだの力を完全に抜く場面は皆無に等しいし、第一それではスポーツという活動が成り立たないからである。単なる応援のつもりならば、こんなあいまいな言葉でも許されるだろうが、こと指導者ともなれば、この場合は「余計なところに力をいれるなよ。余分な力もいれるなよ」が正しいであろう。さらに続けるならば「そのためには、具体的にはこうするといい」とアドバイスしたいところだ。
このように、スポーツの指導場面においては、当然のことながら多くの“言葉”が用いられている。本来なら、適切な言葉でその競技スキルに見合った“力の入れ所”と“抜き所”を指導できてこそよい指導者ということになるところだが、実際には動作を見た目で言葉にして指導に使っていることも多々ある。たとえば、本 書 に は 次 の よ う な 文 章 が で て く る 。(競泳クロールの手のかき動作について)「プル(引く)という表現も要注意です。外から見るとプル動作のように見えますが、動作感覚としてはプッシュ(押す)です。水泳のかき動作は、水の中で手を後方に動かす動作であると勘違いしやすいですが、手の位置が後方に移動するのではなく、からだが前に進むのです。」とすると、たとえ選手が一流の素材を持つ選手であったとしても、指導者の観察眼が二流ならば、選手には「水をキャッチしたら自分のほうへ引っ張るんだ」と指導してしまうだろうし、トレーニングは“引く”に力点が置かれてしまうであろう。本当は、“押す”感覚が正しいはずなのに、コーチには正反対の感覚を指導された......。指導者の責任は重い。
“常歩”と“押し”
“なみあし”と読むそうである。世界陸上の200mで並み居る強敵を押しのけて堂々 3 位に入賞した末次慎吾選手が取り入れたとして有名になった“なんば”走りを本書ではこう呼んでいる。理由は「なんばというと、多くの人が(歩行などの)遊脚期の足と手が(同時に)前に出るというふうに勘違いしています。また、なんばでは、左右軸のいずれか片方に軸を固定して使う場合が多くありますが、スポーツの走動作では、左右の軸をたくみに切り替えていく動きになります。そこで、私たちの研究グループは、スポーツ向きの二軸走動作をなんばと言わずに『常歩』という言い方であらわすことにしました。」この二軸動作の詳細については本書に譲るが、ここでも前述した水泳同様に感覚の誤解を指摘しており、走動作においては“蹴る”という感覚ではなく、振り出し脚に腰を乗せていく感覚を強調すべきであると言っている。こうすると、自然に身体の軸は左右二軸となり、からだが前に出る運動量が格段と増すという。また、このときの足裏の感覚も“蹴る”ではなく“押す”、振り出した脚の膝は“突っ張る”のではなく“抜く”というのである。このような新感覚の指導言語は、正しい身体動作の理解から生まれたものである。
「コーチは選手とよいコミュニケーションを図れ」は当然のことだが、必ずしも問題の中心を指摘することがよいとは限らない。ときには、選手がうまくできない部分から意識をはずしてやり、違う言葉で正しい感覚を教授してやることも必要だ。自分の使った言葉によって、選手に新たなパラダイムシフトが起これば、指導者冥利に尽きるというものである。
(久米 秀作)
出版元:大修館書店
(掲載日:2005-07-10)
タグ:身体 動作
カテゴリ 身体
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動く骨(コツ) 野球編
栢野 忠夫 岩崎 和久
体幹内操法について、対談を中心としてカラー写真の資料を多用して解説されている。同タイトルの書籍を野球をテーマにムック化したものである。あらゆる動作の基本は、三原色と呼ばれる屈曲・伸展・側屈であるという。頭部、胸部、下腹部の3つの球を意識し、それの中心を結ぶ軸の5本の軸(体幹内と四肢)を感じ取れるようになってくると、動きの質が高まるという。対談では、野球の指導者が、身体操作の真髄について語り合っている。動きを見ながら実践できる50分のDVDが付属している。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:スキージャーナル
(掲載日:2008-08-10)
タグ:野球 身体感覚
カテゴリ 身体
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近代日本を創った身体
寒川 恒夫 中澤 篤史 出町 一郎 澤井 和彦 新 雅史 束原 文郎 竹田 直矢 七木田 文彦
心身を耕す
“耕すからだ”というセミナーを3年ほど前から開講している。“畑”を耕すのではない、耕すという身体的行為を純粋に愉しむことで太古の昔から人に備わっている原初的な身体能力に気づき心身を耕そう、という目的で行っているのである。ちなみに、私の勤める大学にはソツロン(卒業論文)がなく、代わりに、6年の卒業年次のソツシ(卒業試験)に合格した者が、ソウハン(総合判定試験)という国家試験以上ともいわれる難易度の試験に合格したのち、卒業が認定される。
そういう中で、セミナーは卒業認定に必要のない単位取得を目指す、いわば“余計な労力を費やす科目”ということになるのだが、趣旨をしっかり理解し、嬉々として受講してくれる学生も少なからず存在するのである。
セミナーでは私は教えることは何もなく、学内の空地に“教材”として定めた地面を学生とともにただただ耕す。
古い建造物のあったこの空地は、粘土質なうえにおびただしい瓦礫が埋められており、三本歯のクワなどすぐに曲がってしまった。考えが甘かったことを反省しつつ、ツルハシを用いて粘土を瓦礫もろとも掘り起こす作業を続け、約2アールの広さを耕すのに1年を要した。また、ものは試しと埋めた(植えたのではない)ジャガイモは、こんなヤセた土地にもかかわらず、立派な地下茎を生らせて植物のたくましさを教えてくれ、ジャガイモに尊敬の念を抱いたりした(ついでながらジャガイモを埋めたのは、作物がないと他の学生にいぶかしがられるので“畑”をやっているように見せるのが狙いである)。
2年目には、最初は粘土質で生き物感のなかった土地に明らかに生物の多様性が生まれ、土が柔らかく感じられるようになった。夏には耕す端から草が伸びて来、雑草の足の速さに驚愕しながら“人間て非力な存在だよなあ”などと言って哲学をした。
3年目の今年は、根粒菌による土壌改良の様子を観察するため枝豆の種を撒いた(蒔いたのではない)ところ葉は生い茂り実がたわわに生ったので、収穫を目的にするものではないが実った枝豆はありがたく頂戴した。
身体に対する意図
さて今回は『近代日本を創った身体』。編著者の寒川恒夫を含む、8名の手になるものだ。
「外から新しい文化がもたらされるのがきっかけで」「日本人のそれまでの在り方を一変」させられることがある。「からだ」すなわち「心身を孕んだ身体」は、命の母体として個人の枠を超えて、時代々々の文化も載せているのである。
その「からだ」が「明治という時代」に「欧米の近代文化」導入のため、「まるごと意図的に、それも国策として」「ごく短期間に国民を広く深く変えることが目論まれた」。「身体の動かし方から、身体についての考え方まで」「近代社会には、近代社会にふさわしい『からだ』がある」からである。
そしてそれを「どのように創っていった」のかを、「国際比較の中で発見された日本人の『劣った身体』や近代社会が否定する『はだか』から、臣民に求められた身体、国家をリードする官僚の卵である帝国大学生に求められた身体、近代企業が期待する身体、さらには、人を国の人的資源とみて、休むことさえ管理する『リ・クリエイトされる身体』まで及んで」考察されている。
スポーツの動作と生活に密着した動作
近代スポーツは、競技条件の公平性を求めてルールの合理化や施設・用具の整備がなされてきた。競技が細分化し専門化するほどに必要とされる体力・技術は特化したものとなり、練習やトレーニング法さらには用具もそれに伴って、たくさんの人為的意図を盛り込んで変化(すなわち科学的に発展)させられてきた。
それはまた、特化するほどに生活の場にある動作からは逸脱していくが、現代に生きる私たちはこのような“人工的”に整えられた身体活動を特段の違和感を覚えることなく受け入れている。
一方、耕す・掘る・薪を割る・ノコギリを挽くなどの、古くから生活に密着した動作は自ら体得するものであり、受け継がれる中で“自然”に工夫が加えられてきた。しかしこのような身体活動は、今では接する機会が少なく、実施するのにむしろ敷居が高く感じられる動作となってしまった。
しかしながら、このような生活とともにあった“自然”な動作と、競技のような“人工的”動作との間には、隔たりがあるようでいて実は共通する点が多いように思われる。“耕すからだ”では、このあたりのことに考察を広げていきたいと考えているところである。
(板井 美浩)
出版元:大修館書店
(掲載日:2017-10-10)
タグ:近代 身体 日本
カテゴリ 身体
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心が揺れがちな時代に「私は私」で生きるには
高尾 美穂
この本を手に取る方は、きっとこのタイトルに答えを欲していると思います。産婦人科医でスポーツドクターで産業医で、ヨガの指導者という多くの肩書をもつモヒカン医師、高尾美穂先生がコロナ禍で始めたラジオ「高尾美穂からのリアルボイス」にて配信した内容をまとめた一冊。
・「私らしい私」をつくるには?
・つらい気持ち、不安とどう向き合う?
・こんなコミュニケーションが望ましい
・女性の体について知ってほしいこと
・人には聞けない性の悩みに答える
・これからの家族とパートナーシップのあり方
・人生とキャリアの歩み方
・私が人生でしていきたいこと
・高尾美穂から「妹たちへ」
と、9つのチャプターに分けて様々な質問に答えたり、アドバイスをしたりしています。
女性のココロとカラダを熟知した先生の言葉は、多様性やジェンダー問題が問われるこの時代の人生にとって、ちょっとしたヒントになりました。私自身の不安や悩みだけでなく、仕事上、相談を持ちかけられることも多々あるので、答え方や言葉の選び方という点で、非常に勉強になった一冊です。
(山口 玲奈)
出版元:日経BP
(掲載日:2022-02-25)
タグ:女性 身体 コミュニケーション 性
カテゴリ 人生
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狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー
安井 眞奈美
まず、次のような場面を想像してみましょう。あなたはいつも通り、日課である散歩をしていました。そのとき、ふいに腰の痛みに襲われます。「この痛みはなんだ?」と不安に思い、病院で医者に診てもらいましたが、原因は何も分かりませんでした。ただ、腰の痛みは確かに今も存在しています。あなたは痛みの原因を明確にするために、色々な病院を回り、色々な検査を受けました。それでも原因は分かりません。「もしかしたら原因はこれかもしれない」と医者から指摘されたので、それらを手術で取り除いてもらい、一時的に痛みの緩和が得られたりはしましたが、またすぐにぶりかえしてしまいます。今となっては、もはや八方塞がりな状態で、痛みは医学的な理解可能性・説明可能性を超えたものとして立ち現われています。
なぜこのような例をはじめに上げたのかというと、医学的な理解可能性・説明可能性に閉じられている病いは時代を問わず存在していたということを、まずは現代の文脈に即して例示してみたかったからです。もちろん、このような経験は現代人だけがしているのではなく、少なくとも有史以来、似たような場面は人々の生活の中に存在していたと考えられます。古来から、医学的実践は呪術的・宗教的実践と複雑に絡み合いながら発展してきました。いわゆる「未開社会」などでは、外傷と結びつけることが困難な痛みは、外部から「何か」が身体内に入り込んだことによって引き起こされるものなどと理解されていました。それは悪魔の仕業かもしれませんし、他人による呪いの類いの可能性もあります。自分に恨みを持った他人が、呪術によって「呪力の込められた物体」を知らぬ間に私の体内へと打ち込んだことによって痛みが生じたのだと考えられたりしていたのです。今を生きる私たちは、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を語る言葉を、一体どれほど持ち合わせているのでしょうか。あるいは、仮にこのような語りが現代においては妥当でないことを認めたとしても、その根底にある「何か」から医学の本質のようなものを知ることができるのではないか、と私などは考えてしまうのであります。
前置きが長くなりましたが、今回の書評で取り上げる安井眞奈美さん(以下、敬称略)の『狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー』は、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を、私たちの祖先はどのように認識し、語り、対処してきたのかという点について、豊富な資料をもとに分析した書物であります。安井は、この本の「はじめに」で、小林和彦の「神や妖怪は『不思議』の説明のために存在しており、とくに『災厄・不幸』の説明に利用されてきたのが妖怪たちであった」という指摘や、伊藤龍平が「妖怪」を「身体感覚の違和感のメタファー」と定義したことなどをもとに、「妖怪に『狙われた身体』の伝承を、身体に『不思議な現象』が生じたときの説明と対処の方法である」と読み直し、分析することを目的としていると説明しています(7-8頁)。それによって「『狙われた身体』の伝統や習俗は、人々が自らの身体をどのように捉え、襲われる危険と折り合いをつけながら生きてきたのか、その足跡を伝える情報として解釈できる。それゆえ、時代に応じた危険や問題への対処法を併せもった伝承として読み解いていくことができる」のです(206頁)。これは、非常に興味深い視点だと言えます。「『狙われた身体』の伝承や習俗は、狙ってくる相手や敵を可視化し、あらかじめ備えることを可能にした」という安井の指摘は、非常に示唆的であり(同上)、このような「狙われた身体」という概念は、現代の文脈にも存在しています。例えば、安井は第1章で、2020年以降に流行した新型コロナウイルス感染症の事例を引用し、そこでは「戦争」や「戦い」というメタファーが用いられていたことを指摘しています(10-11頁)。まさに私たちは、「見えない敵」としての新型コロナウイルスによって攻撃される「狙われた身体」を防衛するための「戦い」を繰り広げてきたと言えるでしょう。また、上述の未開社会の例のように、外傷と結びつけることが困難な痛み、例えば腹痛や頭痛がどのように理解されてきたのかという点なども分析しています。このような分析によって示唆されることは、私たちがそれを「何である」と認識するかによって、その対処法として「何を用いる」かが規定される可能性があるということです。「外から来る何か」が原因であれば、それが入ってこないようにする方法が取られるでしょうし、もし既に入ってしまったのであれば、それを追い出したり、内部で沈静化させるなどの方法が取られることになるでしょう。
このように考えてみると、もしかすると現代医学も似たような構造を備えているのではないかという問いが立ち現われてきます。「がん」や「病気になった臓器」は取り除かれるし、身体内に侵入したウイルスは抗ウイルス剤によって沈静化されます。あるいは、入ってくることを未然に防ぐため、「予防」的な手段がとられるでしょう。私たちは決して、安井が分析しているような例を「昔の人たちの考えにすぎない」と簡単に切り捨てるべきではないし、実際のところ、そのような認識の延長線上にいるにすぎないというと過言かもしれませんが、非常に多くの示唆が得られることを認識し、詳細に分析するべきなのでしょう。
また、安井はそれだけではなく、伝承や習俗がどのように語られてきたのか、誰によって語られてきたのかなども分析しています。1930年代に流行した「蛇に襲われる女性」の例などは、社会的弱者とみなされていた女性の物語が、男性や村の物知り、医者などによって語られたというジェンダー的・認識論的、あるいは死んだ者と生きた者という存在論的な「語りの非対称性」を明らかにしています。このような「語る者-語られる者」という認識論的・存在論的な非対称性や権力構造に基づく非対称性は、現代医学の現場における「医師(医療従事者)-患者」の非対称性という構造を分析する際にも役立つ可能性があるため、非常に示唆的であると言えるでしょうし、それらに付随するであろう多くの倫理的問題を自覚するためにも重要であると考えられます。
私たちは、単に「前近代的であるから」といって、このような身体観を切り捨てるべきではありません。そこでは、現代とも共通する多くの構造が共有されており、現代の文脈における医学的・倫理的な問題を解決する糸口を掴むことができる可能性が含まれているということを、豊富な資料に基づく詳細な分析によって提示したことは、本書が多くの人に読まれるべきものであるということを示しています。また、ジェンダー論的な問題点も多く指摘されていることから、本書で扱われているのは単に「医学的」な問題ではなく、もっと広く「社会的」に開かれた問題であるという点で、本書は非常に多くの示唆に富んだ書物であると言えるでしょう。
(平井 優作)
出版元:平凡社
(掲載日:2023-10-26)
タグ:身体 妖怪
カテゴリ その他
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