夏から夏へ
佐藤 多佳子
軽やかなリズムで
主に文芸書を手がける作家(スポーツ記者とかスポーツライターとかではない)が、インタビューを元に、その素材を新鮮なまま一冊にまとめたノンフィクションである。題材は、2007年の夏に大阪で行われた世界陸上。それも4×100mリレーにまつわる話題、人物に限ったものだ。
正直この話題だけで一冊の書物になることに少しばかりの疑問を抱きながら読み始めた。だが、すぐにそんな心配はいらないことに気づかされた。
最終的には、この本があったからこそ北京オリンピックで銅メダルが獲得できたのではないだろうか、とまで思うに至った。
膨大で緻密な取材内容が記録されているが、決して表面的なインタビューの羅列ではない。愛情深く、かといって感情に流されることもなく、軽やかなリズムで書き進められて行く。文章のプロだから当然とはいえ「競技経験のない」小説家が書くドキュメンタリーが、この私(いちおう陸上の経験者でもあり、実際の決勝レースはこの目で見た。泣いた)にさえ肌感覚で“それあり!”な記憶を鮮やかによみがえらせてくれるのだ。
異なるものと出会って見える世界
一般にスポーツの感覚的側面は“やった者にしかわからない”という閉鎖的な思い込みの表現で成り立つことがある。確かに、よく知らないと見えてこない世界もあるが、どっぷりと浸り過ぎてしまうとかえって本質が見えなくなってしまうこともある。私が最初に抱いた不安感は多分にこういった理由によるものだ。
しかし、異なる感覚やある種の違和感と出会って初めて見える世界というのもある。たとえば、外国人が地域の伝統文化の見直しや伝承、発展に寄与することがあるでしょう? 私の生まれ育った北信濃の地には、フランス生まれの俳人や、老舗の造り酒屋にアメリカからきた若女将がいて、日本文化に新たな光を当て、地域の発展に貢献している。あるいは、海外青年協力隊などで、外国人として文化の異なる国や地域に行っている日本の方々の活動もこれに似ていると思うが、このような、異文化からの働きかけによってその文化にどっぷりと浸かっていた人たちが自分たちの独自性に気づき、伝統文化の伝承や発展の一翼を担うということは決して珍しいことではない。
その考えからすると、競技の素人(作家=異文化の人)が、玄人(選手、コーチなど=どっぷりの人)が気づかなかった競技の真髄に迫るきっかけをつくり、競技力向上に役立つことは十分にあり得ることになる。
プロセスが競技に役立ったのではないか
要は、記述する側の感受性やバランス感覚が大切ということなのだろう。そのことが次のような節に現れている。「“死ぬ”」ほどハードな冬期練習の取材に行って、「そういうきつい練習を見てみたいと思った。邪魔じゃないかと申し訳ない気持ちがありつつも、やはり、実際に見てみないといけない気がした。そして、実際に見て、かえって、“わからない”ことを実感」することになる。
そのうえで「その膨大な努力のひとかけらを見ること、それを言葉で記することに、大きな意味はないだろう。何かわかったふうなことを書くためには、陸上競技をよく理解した人間が、選手の冬期練習を何カ月もフルに追いかけて見ないといけない。そんな絶望感にひたりながらも、やはり、貴重なドキュメントに立ち会わせてもらったというすがすがしさは消えなかった」という感想を述べているのだ。
立場を明確にして、現象を素直に見つめているからこそ気づく違いを丁寧に書きとめ、理解を深めて行くという態度が貫かれている。このことは逆に、選手にとっては、インタビューされることで自身のことに気づき、記述されたものからのフィードバックを受けて考えが統合され、競技力の向上に役立ったと考えることも可能なのではないか。
本書に描かれている大阪で世界陸上が行われた時期(2007年、夏)と、出版の時期(北京オリンピックの直前、2008年、夏)、その少し前まで選手への取材がなされていたことを考え合わせるとなおのことその思いを強くさせられる。
今、ここに、その時を再現する力がドキュメンタリーにはある。しかも、それが一冊の長編の書物としてまとまることで、別次元の価値、意義が生まれ、未来につながっていくような気がするのである。
(板井 美浩)
出版元:集英社
(掲載日:2008-12-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ スポーツライティング
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肉体マネジメント
朝原 宣治
北京オリンピック男子400mリレー決勝での歴史的銅メダルは今なお記憶に鮮烈である。そのアンカーを務め、最近現役を引退したばかりの朝原宣治氏による新書。
本書は、北京での予選が終わってからの「重圧」の模様から始まる。タイム的には3位に入れる。逆に言えば、失敗できないというプレッシャー。アメリカ、イギリスなどがバトンミスで失格となる幸運はあったが、目の前にメダルは見えていた。そこからアンカーとしてバトンをもらいゴールを駆け抜けるまでの描写は読んでいるほうも「心臓がバクバクする」くらいである。
朝原氏は、中学ではハンドボールで全国大会に出場、陸上競技は高校から始めた。以来同志社大学を経て大阪ガス入り。そこまでコーチはついていなかった。社会人になり、ドイツへ留学、その後アメリカに移った。いずれもコーチについた。途中、足関節の疲労骨折を起こし、大きなスクリューを2本入れた。そうした経験から、コンディショニングでもレースでも「感覚」を重視する姿勢が生まれる。トップアスリートの生の声が聞ける1冊である。
2009年1月30日刊
(清家 輝文)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2012-10-13)
タグ:陸上競技 感覚
カテゴリ 人生
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つなぐ力 4×100mリレー銅メダルへの“アンダーハンドパス”
石井 信
素質を“磨く”
短距離は“素質”で走るものと思っている人が一般には多い。
確かに高校生ぐらいまでは“素質”すなわち、“センス”と“ノリ”ともう1つ“保護者のおかげ”、で走れている選手は多いと思う。しかし大人になってから、“大人の選手”としての競技力向上には、素質を“磨く”ことがいかに重要かという説明が、朝原宣治という選手のおかげで最近はしやすくなった。
朝原は、北京オリンピック(2008年)男子4×100mリレー(通称、4継=ヨンケイ)で、1走の塚原直貴、2走の末續慎吾、3走の高平慎士とつながれてきたバトンを、アンカーとして銅メダルへと導いた、チーム最年長(当時36歳)のメダリストである。彼は日本人として初めて100m走10秒1台(1993年)、次いで10秒0台(1998年)の扉を開き、2001年には10秒02と、幾度にもわたって日本記録を更新してきた。そして北京オリンピックでの銅メダルまで、なんと足掛け15年にもわたって短距離界を牽引してきた日本陸上界屈指の競技者である。
こんな偉業が、センスと若さの勢いだけでなされるわけがない。日頃、講義や部活動などの中で学生たちにこの例を挙げて“素質”だけではないという話を持ちかけても、数年前まではなかなか理解してくれず閉口していた。ところが今回の銅メダル獲得をきっかけに、“おお! あのアサハラ!”とすんなりわかってもらえるので大変嬉しい。
かつての一流どころがサポート
さて今回紹介する「つなぐ力」は、北京オリンピック銅メダル獲得の裏に隠されたドラマを追った、元陸上競技専門誌記者であるスポーツライターの手になるものだ。「スポーツでは、選手が主役であり、監督とか、コーチとか、あるいは競技連盟の役員は裏方としてこれをサポートする立場」にある。「この本は、そういうサポートに回る人を取材して」まとめたものである。 裏方といっても、高野進、麻場一徳、苅部俊二、土江寛裕などなど、選手としてもかつての一流どころが名を連ねる。本欄の筆者(1960年生まれ)世代にとっては、彼らの選手時代の活躍を目の当たりにした記憶もよみがえり、1冊で二度オイシい状態なのである。
中心的存在となる高野は、「発想力」の人だ。学生時代、400mのライバルとしてしのぎを削った麻場によれば、高野は「いろいろな発想をする能力があって、独創的な考え方」をするが、「ただ独創的なだけではなく、それをいかに実現していくかということも、着実にやって」のける。しかも「独善的にやっていくのではなく、必ず、われわれの意見を聞きながら進めて」いく人物であるという。
アンダーハンドパス採用の理由
4継のバトンパスは「オーバーハンドパス」が世界の主流である。これに対して日本は「アンダーハンドパス」を用いている。日本4継チームにおける「アンダーハンドパス」採用の提案者が高野なのだ。
バトンパスに際し、前走者と後走者は互いに腕を伸ばし合ってバトンを渡す。腕を伸ばし合うので、その距離の分だけ走る長さが短くてすむことになる。これを「利得距離」という。「アンダーハンドパス」は「オーバーハンドパス」に比べ、この「利得距離」が短いとされている。「利得距離」が短いということは、それだけ長い距離を走らなければならないことになり、タイム的にも無視できないほどであるとの計算もなされている。
なのになぜ、日本は「アンダーハンドパス」を取入れているのか。「オーバーハンドパスは、バトンを点で渡さなければならないのに対して、アンダーハンドパスなら線で渡すこと」ができる確実性や、選手にとって「自然に渡せる」「やりやすい」と好評であるなどの利点が紹介されている。
それらを容認しつつも要所に挟まれる高野のコメントは、その視点がやはり独特である。提案者として一歩先を見つめているからか、読み手の予想を心地よく裏切ってくれるのである。センスや勢いだけでない、素質を“磨く”ことに多くの労力をさいた選手時代の経験が高野の発想のもとにあるだろうことは想像に難くない。
“名選手、必ずしも名監督ならず”とは、ひところよく聞いた言葉であるが、こと陸上短距離界に関してはいずれ死語となるに違いない。
(板井 美浩)
出版元:集英社
(掲載日:2009-12-10)
タグ:陸上競技 リレー
カテゴリ スポーツライティング
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インベストメントハードラー
為末 大
為末 大。
言わずと知れた、400mハードルの選手。世界大会において、トラック種目で日本で初めて2つのメダルを獲得した、プロの陸上選手である。
今まで読んできたスポーツ選手の著書は、その選手がスポーツを行う上で特化している能力についてスポットを当てて書かれたものが多かった。しかし、この本の帯には大きく「為末大」と書かれた横に、「初期投資30万円が現在2000万円に増えた話」と書かれていた。そしてインベストメントの意味は、「投資」である。
本の題名と帯のコメントから推測すると、プロの陸上選手である為末大が投資で儲けた話について書かれたと予想されるが、読み進めていくと全く違う内容であった。
なぜ、投資を始めたのか。投資とはどういうものなのか。為末選手が陸上競技を通して経験してきたことや、確固たる人生哲学に基づいた投資の話は、お金の話だけにとどまらずとても興味深い。多角的で広い視野を持つこと、興味や疑問を紐解いていくこと、プロだからこそのお金の捉え方など、世界を舞台に戦うアスリートのみならず意識していきたいこと多々である。
(石郷岡 真巳)
出版元:講談社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:陸上競技 投資
カテゴリ 人生
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日本人の足を速くする
為末 大
本書の第一章にある「何万回、何十万回と着地する中で、地面に着いた足の上に骨盤が乗り込み、股関節のあたりに地面を踏んだ感触が直接に伝わってきて、体がスムーズに前に進んでいく感覚をつかんだのです」という一文に、著者である為末氏の探求が始まった瞬間の感覚がよく表れています。
日本人がフィールド競技では勝てないと言われている中、日本人の体型や精神的な特徴を考慮した上で、「どうやったらうまくいくのか、自分の頭で考え、工夫を凝らし、イメージして、体をコントロールする。その過程で能力が開発され、さまざまな状況に対応する力が伸びていくのだと思うのです。」と本書の中にも書いているように、勝つための戦略をつくり上げ、そして自身がメダルを獲得することができたレースへの攻略法を書き記した一冊です。
(大槻 清馨)
出版元:新潮社
(掲載日:2013-05-21)
タグ:陸上競技
カテゴリ 身体
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走りながら考える 人生のハードルを越える64の方法
為末 大
本書は侍ハードラーという異名を持つ為末大氏が25年の競技人生の中で考え、悩み、実践してきたことが赤裸々に書かれている。
陸上の世界選手権のトラック競技(400mハードル)で、2度のメダルに輝いた同氏だが、競技人生の中では数々の挫折も経験している。彼の「挫折」の捉え方は非常に面白く、「挫折があるからこそ感じる本当の喜びと優しさもある」と本書で語っている。人生は思い通りにいかないことがほとんどであり、努力は報われないことが多い。頑張った人が成功するわけでもなく、それでも人は懸命に生きるしかない、と。エリート・アスリートである著者が放つ、これらの言葉は、私たちに元気を与えてくれる。
考えすぎて動けない人が多い中で、「走りながら考える」というタイトルは、陸上競技選手、為末大をうまく言い表しているなと思う。その一方で、競技をしながらも陸上競技の先に何をしたいのかを常に考えていた著者には、1歩先、2歩先を「考える力」があったのであろう。
今まさに競技人生の中で戦っている人はもちろん、ビジネスパーソンにも一読の価値がある。
(浦中 宏典)
出版元:ダイヤモンド社
(掲載日:2014-03-12)
タグ:陸上競技 人生
カテゴリ 人生
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体育会力
礒 繁雄
本書のタイトル・表紙や帯からは一般的な体育会で培われる能力に関するビジネス書のように思われるかもしれないが、早稲田大学競走部の礒監督による組織論である。著者が早稲田大学競走部の指導にあたってからの組織づくり、さらには今後変化していくであろう体育会の形について、惜しみなく書かれている。
冒頭で、「『体育会』は有機体に富んで、その中に生きる者たちによって常に少しずつ構成を変えていく有機体である」と述べているように、個々の選手の指導だけでなく、日本一の組織づくりに重きを置き、「個人」が育つ「組織」をつくるためのさまざまな取り組みが紹介されている。一般的な体育会のイメージである礼儀や上下関係などを徹底した上での著者の考えやプランニングが述べられており、心理学やバイオメカニクス的手法を用いた指導なども非常に面白い。途中、教え子であるディーン元気選手、ディーン選手の高校時代の恩師である大久保良正氏との対談や、高校時代の顧問である松本芳久氏の対談が盛り込まれており、著者の持論に至った経緯などが赤裸々に書かれている。
組織を強くするために体育会のノウハウが用いられることは多いが、個を強くする体育会のノウハウが書かれた本というのは非常に珍しいのではないだろうか。また上記のように本書は著者のオリジナルな考えがふんだんに盛り込まれており、読者が持論を構築していく上での大きな支えになるような一冊でもある。
(山下 大地)
出版元:主婦の友
(掲載日:2014-11-01)
タグ:陸上競技 組織
カテゴリ 指導
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体育会力
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ウサイン・ボルト自伝
ウサイン・ボルト 生島 淳
よい本とは
私は最近、本の良し悪しについて感じたことがある。わかりやすいことや、共感できることが書いてある本は、実は意味がないのではないか。自分が漠然と思っていたことが言葉になっていて、「そうそう、それが言いたかった」というのは確かにうれしい。しかし、自分の理解が及ばないことや思いつきもしなかったことが書いてある本を読んだ方が、たとえそれを理解できなくても、自分の肥やしになり世界が広がるきっかけになるかもしれない。だから、共感できない・理解できない本をよい本というべきなのではないか。
本書は、盛りに盛った自慢話である。それに、ずいぶんとあけすけだ。こう感じるのは、私が謙虚さと節度を美徳とする平凡な日本人だからかもしれない(ジャマイカでは普通のことなのだろうか?)。しかし、それでいて嫌味がなく、読後感は不思議と爽やかである。
印象に残るシーン
ボルトといえば、非常に印象に残っているシーンがある。
何の大会のテレビ中継だったか忘れてしまったが、とにかくオリンピックか世界陸上の4×100mリレーの決勝。
レースのスタート直前、第3コーナー上で待機している3走のボルトの様子がアップで写っている。「On your marks」のコール後に観客に静かにするよう促す「シィーッ」という効果音(?)が会場のスピーカーから流れる。ボルトは微笑みを浮かべながら、それに合わせて人差し指を唇に当て、次いで両掌を下に向け軽く上下させ「静かに静かに」というジェスチャーをしていた。
決してふざけているわけではない。リラックスというよりも、本当に無邪気に決勝レースを楽しんでいるように見えた。そのおどけた姿を見て、私は、この人には誰も敵わない、と思った。
強さの秘密
どうやらボルトの強さの秘密は強烈な闘争心と自負心にあるらしい。
まず闘争心。強敵や敗北がボルトの心に火をつけ、大きなレースになればなるほど燃える。
私も一応陸上競技者であったのだが、ボルトのように「相手をやっつけてやる」という気持ちでレースに臨んだことは一度もなかった。むしろ逆に、他の選手のことは意識せずに自分の最高の走りをして自己ベストを狙うことだけに集中していた。
勝ちたい気持ちは当然あるのだが、よい記録を出せば順位は後からついてくると考えるようにしていた。他の選手のことを気にすると集中できなくなってしまうのだ。これは私の取り組みの甘さと気持ちの弱さの表れなのだろう。
が、ボルトは違う。「タイムを狙うことは考えない」「最強の選手に勝たなければ面白くない」「記録はトッピング、金メダルはケーキそのもの」というように、勝つことを最大の目標としている。「おいブレーク、こんなことは2度と起きないからな」2012年のジャマイカ選手権で、チームメイトで後輩のヨハン・ブレークに優勝をさらわれたときに、ボルトがブレーク本人に宣戦布告した言葉だ。
なんという負けず嫌いなのだろう。
そして自負心。2009年の自動車事故で九死に一生を得たボルトが感じたのは、神からのメッセージだった。「俺が生き残ったのは、地球上で最速の男として選ばれたというお告げであり、事故は上界からのメッセージだと受け取った。勝手な考えかもしれないが、神は最速の男の座に就くのは俺だと考えているようだ」
また、別のページではこんなことも書いている。ドーピング問題に対しての考えだ。「だいたいドーピングというのは、競争できるだけの身体的能力を欠いている連中がするもので、俺はそんな問題は抱えていなかった」
普通、こんなこと言えない(これもジャマイカでは普通?)。
世界が広がる本
自分の才能と努力に絶対の自信を持ち、最高の舞台での強敵との勝負を楽しんでいるからこそ、レース前のおどけたしぐささえも観客には愛嬌と映るのだろうか。 次元が違いすぎて共感できることはほとんどないが、トップアスリートの精神状態に触れることができて、世界が広がる本だと思う。ただ、もし日本人がボルトの流儀を真似をしたら総スカンを喰うことは間違いないだろうが…。
(尾原 陽介)
出版元:集英社インターナショナル
(掲載日:2016-04-10)
タグ:陸上競技 自伝
カテゴリ 人生
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体育会力 自立した「個」を育てる
礒 繁雄
2種類の「好み」
“ポジティブな好みとネガティブな好みが人にはある”。こんな意味のことを言ったひとがいる。ポジティブな好みとは、“こういうものが好き”という能動的なもので、“今日はカレーが食べたいね”“うん!イイね!”という明るい感じ。対するネガティブのそれは“○○ではないもの”“嫌いなものを取り除いたもの”が好きといった否定的で受動的な志向から好みが形成されるタイプで、“何が食べたい?”と尋ねられたら“美味しいもの”などと抽象的な答え方をして相手を困惑させるイヤミなやつだ。困ったことに私はこちらの人間だった。
ところが、そういうのに限ってプライドだけは高いから人付き合いは大変だ。自分を肯定するために、まずは相手を否定する。だから、ひとの短所を探し出しては、アイツのここが嫌いあそこがダメと否定して自分を正当化しようとするのである。自分より才能があって能力の高い人を否定するほど快感を覚えるから、日本中の、世界中のスゴいやつら全てをドンドン、トコトン、完膚なきまでに否定していったら…アレッ?…誰も?…私も?…いなく?…なっちゃったぞ!
気づき
イヤなやつを抹消すれば有能な自分が残ると思って頑張ったのに、やっとの思いでみんな消したら私という存在も認識できなくなってしまった。世界中の人が皆消えてゼロになっちゃった。相手との対比の中でしか肯定できない自分は、否定すべき相手がなくなることで肯定したい自分すら否定してしまったのである。でも待てよ。ならば、逆に相手を肯定することから始めたらどうなる? 相手の良いところを見つけ、受け入れ、素直になって…おお!…いいぞ!…何だか私も肯定されているようだ。ゼロ(無)は裏返すと無限大とイコールだったのだ!ここにおいて、ネガティブを否定することがポジティブに成り得ることに初めて積極的に気がついた。つまり“悟り”だ。どこか違っているかもしれないが、つまりは、そういうことだ。
やれやれ。我ながら面倒くさい性質だが、そう気づいてからは色々な意味で生きるのが楽になった。油断すると今でも“ネガティブ魂”がアバレそうになるけどね。
ちゃんとしたスポーツ選手には“ポジティブ魂”優勢なひとが多いような気がする。物事をいちいちネガティブからポジティブに捉え直している暇などない。始めからポジティブに取り組んだ方が良いに決まっているからだ。当たり前か。
新しい体育会魂
さて「体育会力」。早稲田大学の競走部(=陸上部)監督、礒繁雄の手に成るものだ。礒は、「三大大学駅伝制覇」「関東インカレ」および「日本インカレ」総合優勝「つまり、学生陸上競技の主要大会の完全制覇」へと競走部を率いた名伯楽である。
平成生まれの「やさしい」気質をもった学生たちと、ポジティブな姿勢の礒が向き合い「学生スポーツの中から、世界で戦える個人が育つ」組織がつくる、新しい(あるいは、真の)体育会魂について語ったものだ。
礒は話術の名人だ。監督として「理論プラス経験タイプ」の冷静な分析眼と客観視でもって組み立てた緻密な論理を、湧き出る自信とともに“これでいいのだ”と言い切ってしまう。すると不思議なことに読み手は“ああ、ナットク!”と胸の内で手をたたいたりさせられているのである。損得や、誰かとの比較ではない“情熱”がベースとなった、自分の理想、自分の考えを、ただただ真摯に述べているからだと思う。
たとえば、「僕の役割は、学生たちがアスリートとして一番華々しく、一番輝いている時にスポーツをやめさせ社会へと送り出すことだと、はっきりと言うことができます」。また、「進学のために将来のためにスポーツをする、つまり日本社会の安定志向に学生を巻き込む危険をはらむ」現行の入試制度についての言及、あるいは「これからは『導かないで導く』ことを追求しようと考えて」いるのだという。“えっ?”という展開にも流石な解答が隠されている。太刀打ちできずとも、見習ってみたいものだと思った。
(板井 美浩)
出版元:主婦の友社
(掲載日:2014-02-10)
タグ:体育会 陸上競技
カテゴリ 指導
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諦める力
為末 大
なぜ反発という反応か
ネガティブなイメージの「諦める」と、ポジティブなイメージの「力」が合わさったタイトル。数ある「力」関係の本の中で、これほど身も蓋もないタイトルも珍しいと思う。だから、しばしばウェブなどで本書について「炎上」したりするのだろうと思う。
その炎上騒ぎを眺めていると、この「諦める」に対してしばしば引き合いに出されていたのが、人気バスケ漫画『スラムダンク』の「諦めたらそこで試合終了ですよ」という安西監督の名セリフ。だがこの漫画でも、実は諦めている場面もある。主人公たちが諦めないのは「試合に勝つ」ことであって、「手段」は諦めている。とくに、クライマックスの試合。主人公チームのエースが、相手チームのエースに対して1 on 1で挑むが、どうしてもかなわない。そこで味方を生かすパスを出すよう戦法を切り替えることで劣勢を打開していく。漫画ではそれを「プレーヤーとしての成長」という描き方をしていた。
著者が言っているのはそういうことなのだと思う。ただ、著者である為末氏は、世界陸上銅メダリストという、我々から見たら「成功者」であるので、その成功者から「見込みのなさそうなことは諦めた方がいい」と言われると反発も大きいのだと思う。だが、為末氏としては、世界で勝つために100mから400mHに転向したのに、それでも世界一にはなれなかったのだから成功できなかった、という思いが強い。そういう経験から導き出されたのが「諦める」ということなのだと思う。「スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすら乗れない。僕よりも努力した選手も一生懸命だった選手もいただろう。でも、そういう選手が才能を持ち合わせているとはかぎらない」、これなど、多くの人から反発を買うこと必至である。しかしこれは、誰もが薄々、あるいははっきりと感じていることなのではないか。「それを言ったらおしまい」とばかりに、「やればできる」のだと安易に撤退の決断を先延ばしにしているだけなのではないか。「そのときの率直な感想は、『自分の延長線上にルイスがいる気がまったくしない』というものだった。僕がいくらがんばっても、ルイスにはなれない。僕の努力の延長線上とルイスの存在する世界は、まったく異なるところにあると感じた」というのは、為末氏がカール・ルイスの走りを生で見たときの述懐である。
さすがだと思う。身体的才能に加え、こういうドライなセンスが、氏を世界的トップアスリートに押し上げたのだと思う。
「諦める力」とは
「やればできる」に対する「それじゃあ、できていない人はみんな、やっていないということなんですね?」という著者の問い。私なら何と答えるだろう。
仮に「できる」を「目的が達成されること」、「やる」を「目的を達成しようとする意志を持って行動すること」と定義する。この場合、「やる」は「できる」の必要条件、「できる」は「やる」の十分条件、ただし「やる」は「できる」の必要十分条件ではない。
問題は何をもって「できる」とするのか、だ。それをもっと突き詰めて考え、そのために何を「やる(あるいはやらない)」べきかを戦略的に捉えようよ、というのが本書の趣旨だと思う。
自分が思い描いている自分と、本当の自分とのギャップ。それを見極め、できそうなこととそうでないことを冷徹に切り分けていく。「諦める」とは「明らめる」である。「力」とは「能力」であり「エネルギー」でもある。自分が本当にやりたいことは何なのかを明らかにし、どんな手段をとれば達成可能なのか見極めるには、相当に高い分析能力と膨大なエネルギーを必要とする。
その一方で、目的を達成しようと創意工夫する過程こそが面白い、という魔力も存在するので、理屈で簡単に切り分けられないところが、なかなかやっかいだ。その魔力が手段を目的にすり替えてしまう。私などはその典型だと思う。
やればできる、への答え
さて、件の問いに対する私なりの答えはこうだ。「やればできるとは限らないが、やらなきゃできない」
だいたい、目的なんて変わるものだし、そんなにはっきり手段と目的を区別できるものでもない。そもそも、成功しなきゃいけないなんて決まりもない。だから、行為に意味を求めるより行為そのものを楽しみたい。
それもまた成功の1つだと思うのだ。
(尾原 陽介)
出版元:プレジデント社
(掲載日:2014-08-10)
タグ:陸上競技 努力 才能
カテゴリ 人生
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諦める力
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ラスト・ワン
金子 達仁
「常識」と寛容
アスリートの姿を見て我々は感動する。彼らが己の翼を最大限鍛え抜き、我々の持つ「常識」から外れた空を飛翔しているからだ。しかし一方で我々は彼らに狭量な「常識」を強く求め、そこから外れていると激しく糾弾することがある。
世間の「常識」からみても非の打ちどころのない存在で、しかもその「常識」を飛び越えた部分も潤沢に持つ。これが理想的なトップアスリートであることに間違いはない。だが、少し贅沢ではないかとも思う。誰もが身につけた様々な形の翼は、スポーツの領域のみならず多種多様な世界を羽ばたく力を持つはずだが、多くの人々は自分の翼に「常識」という拘束具を付けて飛ぶことから目をそらす。そして未知の空を飛ぼうとしている存在に石を投げ、翼を傷つけようとすることがある。
スポーツ界でも「従順であれ」と指導者や関係者は言い、「応援してやってるのに」とファンは言う。煽るだけ煽って空気をつくり、勝手に失望してマスコミは叩く。もちろん健全なサポーターたちが数多存在し、彼らは健全なる声援と健全なる批判でアスリートを支える。だが時に聞くに耐えない様々な雑音がそこに混ざり、アスリートの心を毒することが意外と頻繁に起こっているのだ。
そんな中でアスリートはスポーツ以外の部分でも強靱な精神を鍛えていくのだろう。しかし、我々は「常識」を越えようとする挑戦に、その一種異質なありように、もっと寛容でいいのではないか。
さて本書は、事故で右足の膝下を失った陸上競技アスリート、中西麻耶選手のドキュメンタリーである。虚構によらず事実の記録に基づく作品ということになるが、そこにはどうしても書き手の心情が脚色の色を持って滲んでしまう。あまりに劇的に表現しすぎることも健全さを逸脱する要因になるように個人的には感じるが、そこを差し引いても中西選手の「ラスト・ワン」の脚と義足による挑戦は興味深い。ご本人を直接存じ上げないので、本書の著者である金子達仁氏の目を通じての印象であるが、およそおとなしく枠にはまっているタイプではなさそうである。
彼女はロンドンオリンピックに出たかった。出るだけでなく勝ちたかった。「誰もやったことのないこと」に挑戦したかった。そのための最善と思われる方法をなりふり構わず取ろうとした。周囲に迷惑をかけ顰蹙を買うことを気にするよりも、その目標に到達することのほうが重要だったのだ。
周囲への配慮に囚われれば「常識」の枠内に収まらざるを得なかったかもしれない。しかし彼女はそこには止まらなかった。そして活動資金やスポンサーを獲得するために、彼女にとって「ラスト・ワン」の方法と思われたセミヌードカレンダー制作を行った。彼女の理解者のひとり、義肢装具のスペシャリストである臼井二美男氏による競技用義足を鍛えた身体に装着した彼女のそのままの姿を公開したのだ。それは確かに美しいものだった。
その手段には当然賛否両論がわき起こる。世間というものは「常識」を振りかざし、わざわざ声を上げて攻撃する。同じコンディションを持つ人たちの中でも評価は分かれたのではないかと思う。賞賛する声もあっただろう。しかし否定する言動や処遇だけが毒物のように彼女の心の奥深くを浸食し蝕むことになる。タフだったから走り続けてこられた、というより、そうすることでしか自分を支えきれなかったからなりふり構わず走り続けてきた彼女は、支えを失う。
自分の枠の、内と外
自分の考えの枠をはみ出してしまった人間を目の当たりにすると、「常識」のある人たちは自分の枠が壊れて大切なものが流れ落ちてしまうように感じるのだろうか。その存在を否定することで自分の存在を守りたいという防御システムが作動するかのように湧き出す感情があるのだろうか。その感情には自分では認めたくない羨望や嫉妬が混じり、それを否定するためにさらに怒りを混じらせる。そして自分を、自分のいる場所を穢されたような思いでそれを正当化する。
しかし「常識」を盾に自分の枠外のものを糾弾する姿勢それこそが、我々がよくよりどころにするスポーツマンシップに反するものではないか。「真に認めてはいけないこと」と「認めたくないこと」の違いは自覚しなければならないのに。
だがそれにしても、あえてエピローグに追いやった「ラストワン」の真実。その扱いはないだろう。再び物議を醸して彼女の周囲をざわめかせるかもしれないその内容の是非ではない。彼女が懸命に前を向き続けなければならなかった根源に、また彼女の心が壊れていくそもそもの根源になり得たこの事実を抜きに仕上げたこのドキュメンタリーは、最後の最後でその土台を大きく揺るがしてしまったからだ。読み物としてはそう扱わざるを得なかったのかもしれないが、残念である。
(山根 太治)
出版元:日本実業出版社
(掲載日:2015-03-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ スポーツライティング
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スポーツ貧血
平澤 元章
30年近く高校の陸上部を指導してきた著者が、現場での経験やネットワークをもとに、スポーツ選手の貧血の対処法と予防法に迫った。
前半は、高校生と先生の対談形式でスポーツ貧血のメカニズム、一般的な貧血との違いを解説する。現役の競技者にも理解してもらいたい、それによって競技に打ち込んでほしいという著者の願いが伝わってくる。また2章以降は、教え子たちの血液データをもとに試行錯誤と成果が綴られる。とくに卒業生の生の声が座談会として収録されているのは本書ならではだ。
他にも各学校の取り組み例が具体的に書かれ、読みごたえがある。陸上長距離選手に限らず、明日から実践できるヒントが詰まっている。
(本書は自費出版に近い形での刊行物のため、購入および問い合わせについては、http://kakekko.nomaki.jp/sub12.html を参照ください)
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:
(掲載日:2015-10-10)
タグ:陸上競技 貧血
カテゴリ 指導
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一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート
上原 善広
「溝口和洋? そういえば、そういう選手いたな。」というのがこの本を手にしたときの率直な感想だった。現役時代の写真を見て思い出した。あの時代にして、やけにマッチョなガタイをしていたのが印象に残っていたからだ。
溝口氏はカール・ルイスが活躍していた時代、日本を代表するやり投げ選手だった。1984年ロスアンゼルスと88年ソウル五輪に連続出場。翌89年の国際陸上競技連盟主催のワールドグランプリに日本人選手として初出場し、やり投げで総合2位になった実績を持つ。彼の持つ87m60cmという日本記録は未だ破られていない。
溝口氏は陸上界で無頼と呼ばれていたらしい。アスリートでありながらヘビースモーカーである。連日、夜の街に繰り出しては酒と女を嗜む。そして大のマスコミ嫌い。現在であれば、アスリートの倫理観からして到底受け入れられるはずはなく、相当なバッシングを受けているに違いない。そういう意味では、時代が彼に対してまだ寛容だったのだろう。
数多くの破天荒な伝説を残してはいるが、一つ評価できるところを挙げるならば、ウェイトトレーニングにいち早く着目していたことである。彼の身長は180cmであるが、それでも外国人選手と比べて小柄だったことやパワーの差を痛感していたようだ。ウェイトトレーニングは現在では当たり前に行われているだけに、彼には先見の明があったといえる。ただ、彼の感性に基づく独自のトレーニング理論には、我々トレーニング指導者からして、首をかしげるところが多々あるのも事実である。なにしろ1回のトレーニング時間が12時間、ベンチプレスだけを8時間ぶっ通してやったこともあるそうだ。ここまでくれば、もはや体力的限界を越えて「根性」らしい。煙草に関しても「煙草は体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているのと同じ負荷がかかる」と言っている。
その後、ケガが原因で34歳で現役を引退。一時期、なぜかパチプロで生計を立てた後、実家に帰って結婚、農業を継いでいる。彼の人生を振り返ると、キャラクターはもちろん、物事に対する考え方や行動に至るまで規格外であるといえよう。溝口和洋という人間に興味を持つ人物伝として面白い本だった。
(水浜 雅浩)
出版元:KADOKAWA/角川書店
(掲載日:2017-09-22)
タグ:人物伝 陸上競技 やり投げ トレーニング
カテゴリ 人生
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ウイニング・アローン 自己理解のパフォーマンス論
為末 大
世界陸上で銀メダリストとなった本書籍の著者である為末大氏。なぜ銀メダルを取れたのか、なぜ金メダルが取れなかったのか、自身で競技人生や生い立ちを振り返り、考察し、具体的に記している。
本書は競技能力を高めるためのアドバイス書というだけではない。もちろん、何かしらの競技の選手が本書を読んだときに学ぶことができると思うのだが、競技者ではない私が読んだときには、スポーツでなくとも為末氏の考え方を取り入れることで、さらに人間として成長ができるのではとワクワクしながら読むことができた。
本書では為末氏の失敗と成功の経験談、またそのときの思いを言葉にする力と、そう感じたのはなぜかという思考の深さを読み取ることができる。為末氏の意見に共感しながら読み進めていると、自分はある程度で納得し、それ以上考えていなかったことを、為末氏は言語化し、こういう理由で、そのときの解決策はこうだという答えも出している。書籍から引用させていただくと「嫉妬とその対処」(p.124)では「嫉妬とは何か。私は自分自身が欲しいものを持っている相手に感じるネガティブな感情だと整理している。ずるいという感情も含むかもしれない。ほしいものに対して人は嫉妬するのだから、嫉妬している相手をよく観察すると自分がほしがっているものや足りないものがわかる。」この後には対処の仕方が書かれているが、是非本書を手に取り読んでいただきたい。
このように為末氏の考えを覗き見ることができ、自分自身の言動に当てはめ、悩みごとの解消に一役買っている。書籍の構成としては「人脈について」「言葉について」「筋力トレーニングについて」といった46個ものテーマがあり、順番に読み進めず、気になるテーマから読むこともできる。困ったときの辞書のような意味合いで本書を開いてもよい。
鍼灸師、トレーナーとして読んだ私は、コーチなどつけず世界で闘っていた為末氏が「経験のあるトレーナーの助言などを踏まえながらバランスよく鍛えること」をお勧めしており、嬉しく思った。そして、アスリートが全員、為末氏のような考え方を持っているとは限らないが、トレーナーとして活動する上で世界のトップアスリートの思考に触れるよい書籍だと感じた。トレーナーの方、トップを目指す競技者、思考力をレベルアップしたい方にお勧めの書籍である。
(橋本 紘希)
出版元:プレジデント社
(掲載日:2021-05-10)
タグ:陸上競技 トレーニング
カテゴリ 人生
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「練習しない」アスリート 成長し続ける50の思考
藤光 謙司
著者のことはまさしく「練習しないアスリート」というイメージがあった。
あるテレビ番組で藤光選手が練習を終えた後に、自身の足でなくセグウェイ(編注:立位で乗り、体重移動によって操作する電動二輪車)に乗り競技場を後にしていく姿が特集されていた。当時は足を休めるためなのか、バランスのトレーニングになるのかなど考えたものの、不思議な選手が現れたなというのが第一印象であった。よくよく考えると、この印象を持った私はすでに、競技場は自分の足で歩くものという固定観念にとらわれていたのである。
本書にはセグウェイのことは記されていないが、なぜ著者である藤光選手がそういった行動に出たのかが伺える。あの行動や練習をしていないように見えているのは、あくまで結果を出すための手段であり、彼の考えが表れているのだなと分かった。
本書でも紹介されているように、成長し続ける思考法の1つに「固定観念にとらわれない」という内容があったが、著者自身がとんでもない考え方を持っているというわけではなく、多くの方に会う機会があれば、そのお会いした方の考えを純粋に受け取り、深く考え、自分の成長するアイデアとして昇華させているように感じた。
そんな著者の思考法に触れることで、私自身も、新しいアイデアと出会い、成長する人のマインド、結果を出した藤光選手のやり方を学ぶことができた。
タイトルにもある通り陸上競技者への専門書というわけではなく、成長したい方向けで幅広い業界に通じる書籍であり、新社会人や働き方にマンネリ化が生じている方に新しい思考のエッセンスとしておすすめの一冊である。
(橋本 紘希)
出版元:竹書房
(掲載日:2021-05-24)
タグ:陸上競技 練習
カテゴリ 人生
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Sprint Techniques with John Smith ジョン・スミスのスプリント・テクニック スプリント・スタート・リレーの技術とトレーニング(DVD)
ジョン・スミス
元400m世界記録保持者で、現在モーリス・グリーン選手やアト・ボルドン選手らのコーチを務めるジョン・スミス氏がスプリントテクニックに関するビデオ。「前足のつま先は重心に位置する場所で地面を蹴り、脚は常に上体より前で着地する……」と、かなり詳細にわたる指導が続く。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:ジャパンライム
(掲載日:2000-03-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ 指導
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自由。 世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学
末續 慎吾
「自由」に必要なもの
「自由」というのは単に気ままという意味ではない。そのように使っても間違いではないし、そう使われることの方が多いように感じるが、なんだか薄っぺらい。そこに自律性や自発性を持つ主体があり、責任の所在も確かに棲まわせている必要があるはずだ。それでこその「自由」だ。そもそもそれは与えられるものではなく、人類の歴史の中で有志の人々の命がけの闘いにより勝ち取ってきたものだ。
一方で、精神の「自由」に限ればどの時代でもどんな環境でも持ち得たはずだ。他者、己を取り巻く環境や常識などからのみならず、自身の欲や邪からの「自由」。こちらもなかなか難しそうだ。相反する言葉のように感じるが、「自由」でいるには相応の「覚悟」が必要なのかと感じる。さて、世界の頂点を見た人たちは果たして「自由」なのだろうか。輝かしいサクセスストーリーは「自由」につながるのだろうか。
「自由」と銘打たれた本書は、陸上界世界最高峰の舞台で闘った末續慎吾氏によるものだ。40代になった今も現役陸上選手なので、末續慎吾選手と呼ばせてもらったほうがいいのかもしれない。2003年にパリで行われた世界選手権200mで短距離走日本人初となるメダル獲得。2008年の北京オリンピックでは4 ×100mリレーで銅メダルを獲得している。そのとき金メダルを獲ったジャマイカチームにドーピング陽性者が出たため、これは後に銀メダルに繰り上げになった。いずれにせよ、押しも押されもせぬ日本陸上界の英雄である。当時のテレビ画面を通じて観たその人懐こそうな笑顔、筋肉で埋まった土踏まず、そして足を低く運ぶ独特の走り方が脳裏に焼き付いている。
しかしその栄光の後、彼は突然消えた。本書で自ら表現しているが、本当に消えてしまった印象だった。そのうち燃え尽き症候群とかオーバートレーニング症候群などの言葉がどこからともなく聞こえてきた。ただごとではなかったのだろうと、ひとりのファンまたひとりのトレーナーとして胸が痛んだ。
だからこそ、2017年の日本選手権で走る姿を目にして素直に感動した。スタート前、サニブラウン・ハキーム選手の隣で観客に手を合わせている姿、後半失速してしまったが懸命な走り、レース後に笑顔で「若い奴ら速ぇ!」といったコメントを発した姿。ただ、よかったなぁと勝手に安心したことを覚えている。ちなみに本原稿執筆の2020 年11月現在で200m 走の日本記録は末續選手の20 秒03 で、サニブラウン選手でもいまだに突破できていない。
今たどり着いた境地
本書では、栄光を掴むまでの激闘後に生死の境目に足を踏み入れるまでボロボロになったところから、あの頃よりずっと「自由」な心で走り続ける現在に至るまでに、末續選手がたどり着いた心の持ちようが記されている。サブタイトルは「世界一過酷な競争の果てに宿りついた哲学」。産経新聞に掲載されているエッセイ「末續慎吾の哲学」も拝読しているが、どちらも過酷な経験を通じて得た独自の視点で描かれていて読み応えがある。
だが、物事を繊細に捉え深淵に思考する力があるということは、ともすれば心への負担も大きいのだろうと感じる。まるで周りの人の心の声が聞こえてくるほどに、物事を鋭敏に感じ取れてしまうことがあるのだろうと穿ってしまう。自分の心の声にもいつも真摯に向き合い、あるべき姿を突き詰めないではいられないように思う。これは心が相当タフでないと耐えきれない。巷で流行の漫画の世界で描かれている、常に全力で集中しているという「全集中常中」の状態など、本当ならゾッとする。年齢を重ねると共に嫌でもタフ、というより適度にいい加減にならないと保たなくなるのだろうが。本書でも後半には「だいたいで」とか、「ラクに」とか、「流されよう」などの緩い言葉が登場するが、本人にとってその言葉通りに生きるのはそう簡単ではないのだろうとも感じる。
どこに「自由」を見出すか
そもそもルールに縛られるスポーツ競技で、常に周りを満足させるパフォーマンスを要求され、毎日の居場所をも常に登録し、ドーピングコントロールを遵守し、国の威信を背負って闘う世界レベルのトップアスリート達が、「自由」な精神を持ち続けることは生半可なことではない。自らに厳しい鎖を課すアスリートならなおさらだ。だからこそ彼らは特別な存在なのだ。
確かに勝利や敗北からも、名声や羞恥からも、ルールからも、キャリアからも、「自由」という言葉の定義からすらも完全に「自由」に、自分の追い求めたいものを全力で好きなように追い求めることができたなら本当に楽しいように感じる。それでも、様々な縛りの中で苦しみ抜いてでも己を高め、それを周知に圧倒的に認めさせることにこそ「自由」があると考える人もいるのだ。
いずれにせよ人間社会に生きている限り完全な「自由」もなければ完全な「不自由」もない。様々な関係の網の中で自分のバランスが取れる立ち位置を見つけ、ありたい自分、あるべき自分でいられることが結局「自由」なのかと考える。そしてどうせなら薄っぺらい側の「自由」ではなく、ぶっとい芯の通った「自由」寄りで生きていけたほうがいいなと思う。
(山根 太治)
出版元:ダイヤモンド社
(掲載日:2021-01-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ 人生
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パワー革新
佐々木 正省 足利工業大学・健康科学研究室
絶対値の革新
「パワー」という用語がもともと理工学用語であったことは周知の事実である。すなわち効率とか仕事率と言われたもので、「単位時間当たりの仕事」ないし「力×速度」と定義されるわけだが、この「パワー」という概念が今までにスポーツの分野に与えた影響は計りしれない。
たとえば、このパワーを測定するという考え方はすでに1921年にサージェント.D.Aによって垂直跳びテストとして発表されたし、体力の古典的定義者として有名なキュアトン.T.Kも1947年には体力の一要素としてパワーの存在を認めている。その後も疾走中のパワーの研究や、自転車エルゴメーターのペダリング運動中のパワー、そして最大無酸素パワーテストとしてマルガリヤの階段駆け上がりテストなど、パワーの研究は盛んに行われているのだが、これらのほとんどは「身体効率(physicalefficiency)」を主なテーマとして進められたと言える。
もちろん、こういった基礎的研究の重要性を軽視する意図は全くないが、単位時間当たり、ではなく絶対値としてのパワーの大きさがスポーツに与える影響を正面から見据えることも、ある意味大切なのではないか、と評者はひそかに思っていたのである。なぜなら成績を前提としてスポーツを考えた場合、パワーの絶対値が持つ意味は大きいからである。その点で、本書は絶対的なパワー値を高めるためにはどのような器材が有効か、どのような方法が有益かを平易に直接的に説いているわけで、パワートレーニングについて十分な知識を持たない高校生や中学生等にはとくに好書と言える。
パワーユニット
「パワー」に近似した言葉に「瞬発力」がある。どちらも似たような意味を持つので「パワーを高めたい」と「瞬発力を高めたい」という両者にあまり明確な違いを指摘することは難しいが、強いて言えば、前者は“力”を中心にパワーを捉えたと聞こえるし、後者は“スピード”に重点を置いてパワーを捉えたとも聞こえる。
いずれにしても、筆者が言うように「パワーとは、身体の動力」である。したがって、この意味を我流で解釈すれば、どれほどの重量物をどれほどの速さで動かせるかがその人の絶対的パワー評価となる。「スポーツ選手におけるフォース(力)とは物体を持ち上げたり、移動したり、遠くに投げたりする身体の能力であります。(中略)押す力の能力などもその範疇に入ると思います」。この文章からも推察されるように、筆者は「パワー」というものは物体を素早く動かす力と定義して、そこに力点を置いてトレーニング方法を説いている。なかでも、今回パワー・トレーング器材として初めて筆者が開発した「パワーユニット」は、筆者の長年の研究と執念に裏打ちされた力作だ。パワーユニット器具の構造は、牽引物に取り付ける鎖と圧縮コイル・スピリングにワイヤーが付いており、そのワイヤーの先に人間の胴体に巻くベルトが付いている。このパワーユニットの心臓部は「圧縮コイル・スプリングス」で、この開発には、間違いなく筆者の英知と最大の努力が傾けられたのだろう。言葉ではなかなかイメージが出しにくいが、本書には図解入りで説明されているので、詳しいことは本書をお読み下さい。
ついでと言っては失礼だが、筆者は「スーパーフットボール」というサッカーとアメリカンフットボールとラグビーのよい点を併せ持ったようなユニークなスポーツの創始者としても有名だ。地元足利市ではジュニアの育成に長年尽力されている。ユニークな指導者がつくった夢のパワーアップマシンを、ぜひ読者の方々にも一度試してもらいたいと思う。
(久米 秀作)
出版元:
(掲載日:2006-09-10)
タグ:陸上競技
カテゴリ 指導
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肉体マネジメント
朝原 宣治
通勤途中の人混みの駅で、傘を横にして振りながら、また大きなカバンを張り出して歩いている人を時折見かける。彼らは自分の持ち物に感覚受容器をはりめぐらしておらず、移り変わる周りの状況を情報として処理していないのだろう。こうした人々は自分の身体の動きにも鈍感なのだろうか。反対に自分のことしか感じられないのだろうか。このような些事からも、アスリートの立ち居振る舞いとは普段の生活の中でどうあるべきなのかなどと、ふと考えてしまう。一般的な運動理論や技術論で説明がつくことも多いだろうが、他人が感じ得ない己の身体感覚を研ぎ澄まし、より高い境地を目指すためにはどのような考え方が必要なのだろうか。
本書は北京オリンピック400mリレーの最終走者としてオリンピック男子陸上で日本人初となる銅メダルを獲得した朝原宣治氏によるものである。短距離選手として驚異的と言うべき長期に渡り日本の陸上界を牽引してきた一流のアスリートが、体験談を通じてその考え方を披露している。タイトルは「肉体マネジメント」とあるが、その具体的な各論が万人向けに詳しく紹介されているわけではない。100mを誰よりも速く走るという、極めてシンプルな競技の道を究めんとした自身の心構えがわかりやすく書かれていると捉えたほうがよいだろう。
「自分がわからないことについては、人にアドバイスを求め」、しかし「それを鵜呑みにするのではなく、自分なりに理解し、咀嚼することで初めて自分の身につく」という原則に従い、「自分の肉体マネジメントは自分で」しながら「自分を実験台にして楽しんでいた」という。プロアスリートにとっての、いや何かの道を究めんとするすべての人々にとっての黄金律だろう。それでも、己を磨く過程は、競技場の内外にかかわらず生活の大部分をそのために捧げる「修行」である。命を削る「苦行」と感じることも少なくなかったはずだ。過酷な世界でこれほど長期にわたってそれを「楽しめ」たのは、「自分」の強靱さもさることながら、家族や仲間というかけがえのない存在を抜きには考えられなかっただろう。
朝原氏が北京オリンピックで個人種目では予選落ちしながら、リレーでメダルを獲得したということに私の勝手な思い込みをこじつけてみる。陸上は自分との戦いと言われるが、人はやはり誰かのために戦うときに力が出せるのだろう、と。またそんなときにこそ、勝利の女神は微笑むのだろう、と。
北京オリンピック400mリレー決勝を前にして、サポートする人々の思い、陸上界の先人たちの思い、家族の思い、さまざまな思いは、確かに「もう一度背負うのはしんどい」と感じさせるプレッシャーとなって4人のランナーに襲いかかったのだろう。それが第1から第3走者を務める塚原選手、末續選手、高平選手の、自分たちが憧れ追い続けてきたアンカー走者である朝原選手への強烈な思いに昇華されていったのだろう。そしてバトンとともにそのすべてを受け止めたからこそ、朝原選手は、あの最後の100mに自らが長い間望んで得られなかった境地に達したのだろう、と。
いや、あれこれ想像するのもおこがましい。それはただ現実に起こり、それを目にした人々に言いようのない感動を与えた、というだけで十分だ。それに、メダルが取れるか取れないか、また何色をとるかで雲泥の差だということも理解するが、己の選んだ道をただひたすら誠実に極めんとする人間は、それがどんな道であれ、その結果がどうであれ、格好いいのだと憧憬の念を持ってそう思う。
(山根 太治)
出版元:幻冬舎
(掲載日:2009-05-10)
タグ:陸上競技 感覚
カテゴリ 人生
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一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート
上原 善広
限界は自分で決める
1970 ~ 80年代に、筋線維組成と競技パフォーマンスとの関係性を論ずる論文が多数発表された。 多くの人が知るとおり、速筋線維の割合が多い人は短距離向き、遅筋線維の多い人は長距離向きとするものである。調べる方法としては初期は筋生検(muscle biopsy)法といって、外科的手法により筋の一部を採取してくるものであった。後年はMRI(核磁気共鳴画像法)により非観血的に推定できるとする画期的な報告が話題を集めた。
さらにまた、この筋線維組成(速・遅筋線維の割合)は遺伝的(先天的)に決まっており後天的に変えることはできないものであるから、あらかじめ組成を調べ、それに見合った種目を選択するのが望ましいというような論調のものまであり、当時、非常に疑問に思ったことを覚えている。人は誰しもそれぞれの好きなスポーツを実践すればよいのであって、“科学者”の高飛車なアドバイスで限界を決められるなどナンセンスではないか。
確かに筋線維組成の平均値(科学的見地)からするとそのような傾向があるとはいえ、選手個々の組成(標準偏差)には大きな散らばりがみられることや、後天的なトレーニングで筋出力は大いに変えられること、加えて競技の成功には筋線維組成の割合のみならず種々の要因が関与していることなどから、時間とともにこのような素質論は聞かれなくなっていった。 やはり限界など他人に決められることなく、未知のことに挑むほうがロマンがあってよいではないかと思うのである。
尋常でない努力
さて今回は『一投に賭ける』。主人公の溝口和洋は、1980年代に活躍した陸上やり投げ選手である。投擲選手なら「誰もが憧れるスター選手」だ。やり投げ選手としては比較的小柄(身長180cm、体重80kg)ながら、常識を覆すトレーニングと独特の投法によって世界の壁に敢然と挑んだ人である。欧米人と比べて如何ともしがたい身長や骨格といった後天的に変えることのできない身体的条件を、ギリシャ彫刻のような身体に鍛え上げることにより、パワーで克服しようとしたのである。
たとえば“天才が死ぬほど努力してやっと行けるのがオリンピックである”というのが私の学生の頃からよく言われたことであるが、溝口の“常識を覆す”トレーニングとはやはり尋常でない。
「人間というのは、肉体の限界を超えたところに、本当の限界がある」と言い、「一二時間ぶっとおしでトレーニングした後、二・三時間休んで、さらに一二時間練習する」(編注:一二時間は12時間)こともあり、ウェイトトレーニングの総重量が「一日一〇〇トンを超えることも少なくない」ことだったという。“死ぬほどの努力”で遺伝的制約を超えることはできないが、限界(と思っている常識)を超えることはどうやらできるらしい。
痛快な語り口
本書 は著者である上原善広の、どこか漱石の“坊ちゃん”を思わせる一人称で綴られており威勢のよい語り口が痛快である。
溝口は「体格・パワーで圧倒的に不利な陸上投擲種目で、欧米人選手に互角の投げ合いをした当時、唯一の人であったが、無頼な伝説にも事欠かない人物」であり、「JAAF(日本陸上競技連盟)に対する批判」も口にしていたという。
18年もの長きにわたる取材の末に本書をものしているが、この取材期間の長さは、溝口の「編み出したやり投げのためのテクニックとトレーニングは、そのまま彼自身の存在意義と哲学にまで昇華されて」いて「そのため、聞き取り自体、大変な時間がかかったが、これを言語化する作業はさらに非常な難問だった」ためだという。
しかし、現役選手ならなかなか口にできないようなエピソードが随所に盛り込まれていることからすると、もしかしたら“時効”を待つためにこの期間を要したのではないかと、深読みしてしまうのである。
(板井 美浩)
出版元:KADOKAWA
(掲載日:2016-10-10)
タグ:人物伝 陸上競技 やり投げ トレーニング
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